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テレビへの警鐘だった「一億総白痴化」は今じゃネットへの警鐘の「一億総評論家化」に。

もう60年と少し前、テレビの普及がはじまった頃、「一億総白痴化」という言葉が流行語になったという。今じゃ聞かない言葉だけど、白痴は知能が低いということです。

端的に言えばこうだ。「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という旨らしい(Wikipediaから引用)。

低俗かどうかはともかくとして、テレビを見ることが想像力を低下させると。これを見て、時代によって価値はトコトン変わるよな〜と思う。そのものが変化することももちろんあるけど、ここではおもに「見る目」の方だ。

最近ずっと考えているテーマが「インターネットのタコ壺化」だ。ネットにおける情報を得る手段は検索が基本となった。こうなると、知ってるものしか知り得ない、つまりヨコに広がずタテに掘っていくことしかできず、まだ知らない価値観に触れる手段を失って、想像力を失っていくというもの。

幼稚園や保育園、小中学生、大学に専門学校に、そして社会、転職…。そうした「強制的な環境変化」によって人は、楽しみつつ悲しみつつ、他人に触れて価値観を学ぶ。だけどそのあとは、生活も固定化されがちで、意識的に動かなければなにも変わらない。好奇心や行動力が人生を変えるし、財産も変える。

そこでやっぱり、一方的にお茶の間に情報をぶちこんでくるテレビは、価値観を得られ、想像力を養う、良いものではないか?という話。テレビという装置自体が信用されて、わざわざ家に置いてきてくれたから。今考えたらすごいことだな。それにしてもおもしろいよね、こと想像力にいたってはかつての一億総白痴化とまるで正反対の主張なんだもの。

世論は行ったり来たりする。そもそもテレビは、やれヤラセだの、やれ思想的だの、情報の流通を握られて、手のひらの上で踊らされるかのような状況に嫌気が差した人たちにネットからトコトン叩かれた。新聞も、影響力のあるマスメディアは基本的にぜんぶか。

このあたりでネットは「一億総評論家化」とも揶揄されはじめ、テレビとのパワーバランスが崩れたことによって弊害の方が浮き彫りになってきた。先述のタコ壺化もその流れの中にある。時代はまた揺り戻しがはじまって、「やっぱりテレビを見直そう」と、なってる…少なくとも、個人的には。

でももう、今更テレビに戻ることなんてないと思うのよね。片手サイズで・どこでも・いつでも見れる。便利って、性質の悪い正義だから。狩猟から稲作に変わるとき、ついていけず文句言ってた人もいると思うよ。テレビの方もネットに移って、いよいよテレビが持っていた「お茶の間へ情報をぶちこむ」強みすら失いつつある。あるとしたら組織力に資金力にコンテンツ力、ちゃんと使わないと勝てないし、ネットに対して数が少なすぎる。

やっぱり、インターネットには、テレビのような一方的に情報をぶちこむ仕組みをつくらないといけない。社会が社会であるために。仕組みだけでなく、それが価値観を仕入れ、想像力を育み、体験を増やし、人生を彩る、「人の嗜みだよね」と考える世になれば。

ぜんぶうまい棒につぎこみます