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外国人という言葉のいらない国づくり

最近までクラウドファンディングをやっていた。

端的に言うと、ベトナム人実習生と日本人(経営者、上司、同僚)とのコミュニケーションのため、ベトナム語と日本語とイラストが印刷されたTシャツつくります、開発進めるために43万円を集めたいです、というもの。ありがたいことに目標は一週間強で達成、プラットフォームからネクストゴールなるものをすすめられたので、サンプルを全国に配布するために100万円を設定。これも最終日前日に達成し、最終的には104万4500円が集まった。

本当に本当にありがたい。

プロジェクトそのものは、身銭を切ってヒィヒィ言いながらできなくはないことだった。それくらいの覚悟もあったし、社会に今必要とされていると信じていたし、事業とはそういうリスクを背負うもんだと思っていたので。しかしお金はありがたい、浮いた身銭はほかのアイデアや前進に充てられる。

しかしやっぱり思うのは、107人というたくさんの支援者の方々と、また同じ課題に対して取り組んでいる人達との出会い、また彼らとの距離が近くなったことが最大の収穫だった。こればっかりはお金だけはどうこうならない、環境とタイミングによるものなので、いい縁を築けたなーと思います。

こっからが本題。

このクラウドファンディング、概要ページに載せる文章を起こすため、自分や状況、また時代について考えたり、またいろんな人の価値観に触れる中で自分自身にも変化があった。すると突然パッと「20年後はこういう日本であってほしい」「いやむしろこうなることは必然なんじゃないか」という、予想と理想がアップデートされたので、そんな話を今ここでしておきたい。

その理想がそのままタイトルの、『外国人という言葉のいらない国づくり』だ。

上記は先日、1月28日に公開された記事、震災を経て、障がいなどの有無に関わらず誰もが住みよい街を目指す陸前高田市について書かれている。一般社団法人マルゴト陸前高田の代表理事、伊藤さんは話す。陸前高田市が目指すものは、「ノーマライゼーションという言葉のいらないまちづくり」。

ノーマライゼーションとは、今書いた「障がいなどの有無に~」ということ、つまり「誰にとってもノーマルにする」ということなんだけど、市の理念はむしろそのノーマライゼーションという言葉の存在そのものがなくなって然るべきじゃないかということだ。前提の課題をつくらないとも言える。

私の出身は大阪で、部落差別問題に対する教育が盛んだった。どうやったら差別をなくせますか?というテーマの作文で、「こういう教育があるからじゃないか」ということを書き、担任はとくに何もコメントしなかったように思うけど、ちょっとそれを思い出す。ただ、こと差別に関しては、そうした教育がない状態で、ふとしたときに身近な大人が差別意識を放り込んだら教育を通して気づくよりタチが悪い気がして、むずかしいところでもあるが。

いずれにしろ、ノーマライゼーションという言葉のいらないまちづくり、という理念は、いいな、攻めてるな、と思った。障がい理解ふくめ、SDGsというくくりでは、出自、ジェンダー、さまざまな属性が取り上げられ、「なくしましょう」と盛んに言われるが、「なくしましょうって言う状況自体がおかしくね?」という話だ。「言わない」んじゃなくて、「言う状況をなくしていこう」というだけで、視界はパッと開け手段はドッと増える気がした。

なんか他人事みたいに書いてるが、取材したのは私だったりする。そこでこの記事が公開された日は、クラウドファンディングもいよいよ大詰めというところで、そのふたつがバチーン!とぶつかって思い至った。クラファンを通して、ベトナム人が、実習生が、外国人が、と連呼する自分。しかしそこに違和感がない訳でもなかった。実に当たり前だけど、ベトナム人実習生いうたかって一人ひとり違いますよ、人間対人間なんですよ、ということを伝えたいのに、結果として表現上はカテゴライズしてしまっているからだ。

過去に「ガイジン」という言葉を使う友人に「それあかんで」と言ったら、「それ言葉狩りやん」といった趣旨の返しがあって、考え込んでしまったことがある。なぜ「外国人」はよくて「外人」はダメか。せいぜい「国」をつけて丁寧に言ってますというくらい、その違いは本質的ではない気がする。

しかし今ならハッキリわかる。

そもそも自分は心のどこかで、「外国人」に対しても違和感を抱いていたんだと思う。その国の国籍という点で(帰化した人もふくめて)、区分上必要だというのは分かる。でも、外国人は日本人以外、つまりは「その他」であって、アイデンティティを指し示す言葉ではない。同じ日本人以外という意味をふくむ点で、外国人と、●●人(ベトナム人とか、韓国人とか、フランス人とか、ルワンダ人とか…)というきちんとアイデンティティを指し示す言葉には、相手に対するリスペクトに天地ほどの開きがあると感じる。

もちろん、日本だけという訳じゃない。タイあたりは観光地でもタイ人と外国人で料金が別れているし、ある意味ではより猛烈だ。それはそれだけ観光立国で、お金がとれるからという経済的な背景もあるとは思うが。ただ、この文脈では語られがちだけど、日本と他国を比べる必要はないと思ってる。

もちろんパッと見で国籍が分かる人は多くはないし、「外国人」という言葉そのものは一切ダメだというと相当に生きづらい世の中になるのも分かる。

しかし、これだけ日常的に、そうだな、大和民族ルーツではない人が日本に増えていく中で、外国人という言葉を使うのは時代の流れとともにナンセンスになっていくのは確実だとは思っている。エンタメ界やスポーツ界でも、海外諸国にもルーツを持つ日本人プレイヤーは増えているし、そもそもアメリカのような移民国家は見た目だけじゃ外国人なんて、まず判断できない。

だから日本も、あと20年もすれば意味を為さなくなっていくんじゃないか。

そこに至るまでの時間、この国にとってこれまでなかった大きな大きな変化だ。時代をさかのぼれば渡来人もいた訳だけど、1億人国家の人口規模でいえば、とてつもなく大きな波が来ようとしている。そんな中での摩擦をいかに減らして軟着陸させるかどうか、自分は取り組んでいきたいなと思った。

このアップデートもまた、クラウドファンディングで得た収穫だった。

ぜんぶうまい棒につぎこみます