感情に名前をつけること
私が中学3年生のとき、
2年生で担任してくれた先生が亡くなった。
死因は公にされてはいないが、顧問をしていた部活で保護者とトラブルになって追い込まれて自殺した、、という噂だ。
とても熱く、面白く、やんちゃな生徒の心もうまく掴むような先生だった。まさに理想の先生というかんじ。
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当時のことは今でも覚えている。
10月のとある金曜日。先生は学校に来なかった。
理由はみんなよくわからないが、とりあえず出張とかそういうのではないらしいというのは、何となく隣のクラスの私にも伝わってきた。
土曜日。テスト週間真っ只中。夜に塾のテスト対策があるな、なんて思いながら勉強をして、お昼ごはんでも食べようとしていた時、家の電話が鳴った。
クラスの子からの電話。
「〇〇先生が亡くなった。明日お通夜があるらしいので連絡網で回してほしい。」
意味が分からなかった。
でもすごく冷静に連絡網を回したのは覚えている。
とにかくその時にずっと思っていたのは、
”意味が分からない”
”なんで死んでしまったのだろう?”
ということばかりだった。
その夜、同じ中学校の友達がいっぱいいる中での集団のテスト対策。
覚えてないけど、塾の先生も、私たちの事情は知っていたみたいで、なにかを全体に向けて話していたと思う。
そのときに周りの子は確か泣いていた。
翌日。
近所の友達とお通夜に行った。
みんな泣いていた。
なんだか私も泣かないといけないような気もちになって、顔をゆがめ続けていたことを覚えている。
お焼香をあげた後、特別に先生のご遺体のそばに順番に案内してくれた。
本当に先生なのだろうか。本当に死んでいるんだろうか。今にも動き出すんじゃないか。そんなことをぐるぐると、考えていた。
しばらく日がたって、学校側はその件で生徒の精神的なフォローとしてアンケートを実施し、担任の先生と面談の時間を取ってくれた。
面談のときに私は、「悲しいとかというより、なんで?ってずっと考えてます。」と伝えて、担任の先生の返答を困らせてしまったことを今でも覚えている。
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近しい人の死に目に、その後もいくらか遭遇したけれど、いつも実感が湧かなかったり、数か月か経って、その人の考えが聞きたいのにもう聞けないというもどかしさを感じるばかりで、「悲しい」という言葉とはどうにも結びつくことがない。
他者の経験を聞いて「この人は悲しんでるんだろうな。」という感想をもつことはある。
誰かの言葉に感動したり、ショックを受けたりはする。
しかし、自分が何か衝撃的な出来事に遭遇したとき、心から「今とても悲しい」と思うことがない。
便宜上「悲しかった」なんて使うことはあるけれど、だいたいそう発するときは、そこまで心は揺れていないときだろうと思う。
どちらかと言えば「ショック」とか「自分の予期していたものと違う結果だった」という説明になる。
そしてそんな説明がつくのも、大抵はその事件があってしばらく経ってから、「あのときはそうだったのかも」と回想することで結びついたりする。
その瞬間は「なぜか分からないけどずっと心に引っかかっている何か」でしかない。
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どうやら、精神医学の世界では、「失感情症(アレキシサイミア)」という言葉があるらしい。
あれ、これ私の心そのままじゃん。
「悲しい」という感情のみならず、「嬉しい」「楽しい」「好き」「恋しい」「愛しい」「怒り」「満足」「寂しい」「憂鬱」など、自分のこの衝動を言葉に当てはめることができない。
できたとして、”今振り返ってみれば、、”と思考して当てはめているかんじ。
感情の世界と、言語の世界はどこまでも交わらない。
自分の感情に確信をもてない。
心に何か感情の塊が生まれては消えていく。
”快”という塊か、”不快”という塊。
そこに名前を付けることができないからこそ、そっと、その抱いた感情をここに置いて眺めていることしかできないし、今は、それでいいや、と思っている。
思っているが、やっぱり感情が芽生えたその瞬間に、相手に思いを伝えられたらいいのに、と切実に感じる。
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