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宮沢賢治と法華経を読んで

宮澤賢治は法華経に傾倒していたというのは、様々に聞き及んでいたが、彼の作品から法華経的な思想や価値観、人生観や生命観をあまり感じなかったので、実際のところどうなのか?と思っていた。

有名な「雨ニモマケズ」のデクノボーは、確かに法華経 常不軽菩薩品(じょうふぎょうぼさつほん)の不軽菩薩っぽい。

銀河鉄道とは何か

銀河鉄道の夜 これも有名な作品です。
これは賢治の死後発表されたもので、死ぬまで手元に置き、何度も改稿された跡がある作品で、ある意味で未完のものと言えるかもしれません。
又、賢治本人に発表の意思があったかどうかも分からないとすら、個人的には思っています。

銀河鉄道の夜の仏教っぽいエピソードで思いつくのが「さそりの火」
これは捨身(しゃしん)と言える。自らの身を犠牲にして他の生命を助けるなどの意で、菩薩の振る舞いとして同様のエピソードが仏典にはあり、法華経以外にも出てくる。
因みに、釈迦は過去世(前世)において、飢えた虎に身を捧げたというのもあるので、法華経と言うより仏教的か。

自己犠牲。
子供の姉弟をつれた青年が乗ってきます。
霧の中、氷山にぶつかり沈没しかけた客船で、救難ボートも足りない状況で、他人を押しのけてまで助かろうとするのを止め、他者へ生命の継続を譲る。

仏教どころかキリスト教っぽい描写も。
讃美歌が出てきます。乗客が「ハレルヤ、ハレルヤ」の合唱。バイブルを胸になど。

先の沈没船のエピソードは、タイタニック号の沈没を模倣したエピソードと言われていて、銀河鉄道の夜の最終稿では削除されているが、讃美歌320番のフレーズも出てきて、この讃美歌320番は沈みゆく船の中で楽団が演奏していたと言われている。

かように、この銀河鉄道の夜には様々な宗教的モチーフが随所にでてくるのだが、法華経と言える部分はほとんど書かれていない。
とずっと思っていた。

今回、上の本を読んで新発見した。

銀河鉄道の夜では他にも登場人物やエピソードがあるが、何の意味があるのか分からないものも多い。

・プリオシン海岸での発掘
・クルミ
・鳥を捕る人
・ジョバンニの切符
・カムパネルラの降車場所


時間の事を書いているようだが、イマイチわからない。

プリオシン海岸という停車場で、一度だけ鉄道を降りる。
そこでは発掘調査が行われていて、海岸まで行く途中で大きなクルミの実を拾う。
発掘の現場に着いて、そこにいた男に「これはざっと120万年前くらいのクルミの実」であると教えられる。
発車の時間だと言って慌てて鉄道に戻る。


空間の事を書いているとも思えるが、イマイチ解けない。

鳥を捕る人が乗ってくる。
鶴や雁や白鳥や鷺を捕っていると言う。ジョバンニとカムパネルラは鳥の一部を千切ったものを渡されしぶしぶ食べる。
食べて見るとお菓子のようだ。
これは鳥ではなくお菓子だと鳥捕りにむかってカムパネルラが言うと、それには答えず鳥捕りは鉄道を降りてしまう。
気付くといつの間にか車外に鳥捕りがいて鳥を捕っている。
また気付くと車内に戻っていて、これはいわば瞬間移動と言えるだろう。
この不可思議な能力を見て、何故一瞬で移動できるのかをカムパネルラが問うと、鳥捕りは、そんなの当たり前だと言わんばかりの態度でそれには答えず「貴方たちはどこへ行くのだ」と逆に聞いてくる。


どこへでも行ける切符

赤い帽子の背の高い車掌が現れ、検札を始める。
めいめいが切符らしきものを見せるが、ジョバンニは切符など持っている自覚がない。
ところがポケットを探っていると身に覚えのないものが出てきて、それを見せると空気が一変し、感心したように皆ジョバンニを見る。

この後、難破船の3人が乗ってくる。
リンゴを分け合う描写や、さそりの火のエピソードなどがありますが、割愛します。
詳しくは銀河鉄道の夜を読んで下さい。

その後、乗客が一斉に鉄道を降り、ジョバンニとカムパネルラの二人きりになります。その後、結局カムパネルラは一人で降りていき、ジョバンニが一人残されるというところで銀河鉄道のシーンは終わり。
現実世界に帰ってきたジョバンニは夢だったのかと思い、町へ降りていくとカムパネルラの死を知る事になる。

実は、カムパネルラはクラスメイトを救うため身代わりのようにして亡くなったわけですが、ここでも自己犠牲が描かれている。
結局、この物語に通底している「自己犠牲」が、この物語のテーマを説く鍵のように思えるが、果たしてそれが法華経と言えるのか?
というのが、ずっと私が抱いていた疑問です。

骨格は法華経か

銀河鉄道の夜の舞台は、現実世界から銀河、そして又現実世界へ戻ってくる構成になっていますが、これは法華経の二処三会ですね。
霊鷲山虚空霊鷲山 (法華経)
現実世界→銀河→現実世界 
(銀河鉄道の夜)

ということは、銀河鉄道の夜に出てくる天気輪の柱は、法華経の多宝塔柱のメタファーという事になります。

法華経では虚空において多宝如来と釈迦如来が並んで座る二仏並坐(にぶつびょうざ)から始まり、過去の仏と現在の仏が並びます。そこへ上行菩薩が呼ばれて未来を託される(約束)儀式が行われます。
これは、時空を超越し、過去と現在と未来が永遠であることを表わしています。三世永遠。

又、霊鷲山は肉体、虚空は心と解すれば色心不二を表わし
或いは、生と死と解すれば生死不二を表わしているとも。

銀河鉄道の乗客はジョバンニと鳥捕りなどを除けば、その全てが死者である事もわかります。

ジョバンニはカムパネルラと別れますが、分れる前
「ほんとうにみんなの幸のなめならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」
「僕たちしっかりやろうねえ」
と誓う場面があります。
まるで虚空会の儀式で未来を付属するのに似せているかのようです。
※付属(仏教では師が弟子に教えを授け、それを後世に伝え広めることを託すこと)

これまで書いた事を要約すると

ほんとうの幸が何かわからないが、どうやらそれは自己のみの幸いにあらず、皆の為に自分を犠牲にするような振る舞いによって、ほんとうの幸いが得られると言いたいようだ。
そして、
「どこまでもどこまでも一緒にいこう」
と誓い合ったカムパネルラ(過去・死)とジョバンニ(未来・生)は永遠。
といったところだろうか。

どこへでも行ける切符とは日蓮図顕の曼陀羅の事であろう。
※賢治は日蓮系の国柱会という団体に所属していた経歴もある。

概ねこのような構成になっているのが銀河鉄道の夜ではないかというのが、現在の私の解釈です。
ただし、自己犠牲のみが成道ではないので、そこにばかり力点を置き過ぎるきらいがあるので、やはり法華経とは言い難い気もしています。
物語の構造が法華経のオマージュであって、思想的、哲学的なものは賢治独自のもの。或いは、浄土真宗的な価値観が通底しているように思います。

※「宮沢賢治と法華経」に書かれた内容から私が想起し、独自の解釈を加えたものですので、書籍の内容とは必ずしも一致しません。

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