【議論 vs 人格否定】日本人のディスカッションのありかた
新型コロナウイルスの感染で、その対応について毎日ニュースで取り上げられている、クルーズ船。
私が興味を持ったのはこの話題を取り上げる情報番組での会話だった。
「海外では専門家が議論をぶつけ合い、対応を検討するそうですよ」
これ、意外と日本人は苦手な人が多かったり、勘違いしている人が多いのではないかと思った。
「意見の否定」と「人格否定」は同じじゃない
日本では「みんな同じが良い」「異質なもの、反対意見は受け付けない」といった風習が未だに残っている。
グローバル化、異文化理解なんてことばが浸透するにつれて多様性を受け入れる大切さが広まってきているが、私はまだまだだと感じる。
たとえば、海外からの観光客へのインタビュー。
「日本の素晴らしいところは?」
「日本の好きなところは?」
「好きな日本語は?」
全員が「日本は素晴らしい」と思っている前提でインタビューが進む。
あるいはネガティブなコメントははじき出されているのかもしれない。
「日本は言うほどいい国じゃない」と言いたいわけではない。
問題は、ネガティブな部分や期待していたのと異なる答えが返ってきたときの反応だ。
「日本人スタッフのサービスが良くなかったなんてありえない」
「寿司がおいしくないなんて、あなたの舌がおかしいんじゃないの」
ここまで極端でなくても、少なからず反論したり言い返したくなる人はいるはずだ。
反論することを否定しているわけじゃない。反対意見があると議論が進むことだってあるから。
しかし注意したいのは、「意見に対して反論しているのか、それが人格否定になっていないか」。
言い返されたことに腹が立ち、「そんな考え方をするあなたはおかしい、間違っている」なんて攻撃していないだろうか。
「海外では、ディスカッションで激しくぶつかり合っても、時間が終われば仲良く食事に行く」
なんて誰かが言っていた。
当たり前だけど、大切なことだ。
・意見が食い違うことはあって当然
・サービスやプロジェクトを良くするための話し合いに妥協はしない
・「意見」に対して反論しているのであって、「人格」を否定しているのではない
これらの前提があってこそ、活発なディスカッションが生まれ、それによって人間関係が壊れるなんてことがない。
「議論」と「人格」を混同してしまうと何が起きるか。
・反対すると嫌われる
・嫌われたくないから話を合わせる
・常に賛成
いつも意見が合う、話がわかるやつなんて思われ気に入られるかもしれない。
しかしそれ以上の新しいアイデアは生まれないし常に他人の機嫌を伺ってびくびくし、意思決定をする力を失うといったようなデメリットが無限にある。
反対してもいい、まずは受け入れる
では活発な議論をしつつ人格否定しないためにできることはなにか。
それは賛成、反対を決める前に「なるほど、そういう意見もあるよね」と言ってみることだと思う。
一度受け入れてみる。
こんな考え方もあるのか、なるほど。ふむふむ。
そう立ち止まってから、「私は〇〇には賛成だけど、〇〇の点ではこう思う」なんて話し始めればいい。
人間、苦手なもの、嫌いなものがあって当然だ。
すべてを肯定するなんて難しい。
・朝はお米を食べる人とパンを食べる人
・勉強は図書館でする人と自宅でする人
・筋トレはジムへ通う人と自宅でもくもくとする人
全部、良い。
だからこそ、自分と違う人を「おかしい」なんて一瞬で決めつけないでいたい。
少し立ち止まって見る。
その決断や選択の裏にある理由について、聞いてみる。
人間、多様であるほど考え方の数があるのだから。
頂いたお礼は知識と経験を得て世界を知るために使わせていただきます。