誰も禁じていないのに窮屈に生きていると気づく時


ほんと何やってんだろうと思った

忙しい時や難しい課題を抱えたとき、集中するためにあらゆるものを投げ捨てて、目的に集中するタイプがいます。私です。

私は個人で抱えている大規模開発の案件で、その難易度と複雑性を前に「これは片手間ではできないな」と思った時から、少しずつ自ら身を削るかの如く、「好きなこと、楽しんでいること=ゲーム個人開発やそれに関連した勉強」から遠ざかっていきました。

熱心に研究していたVRoid制作を中止し、Unityの勉強も中断し、辛うじてゲーム開発機PCのハードウェア的なアップデートだけ這うようにノロノロと勧めましたが「よっしゃー!やるぞー!」というより「これも手放したら虚無になるなあ」と自分のことなのに他人事のように思いながら日々を過ごしていました。

生きるために仕事しているとは言えない時代

かつて、古代においては仕事とは命に直結していました。今の時代、少なくとも比較的豊かな日本では、仕事は選択的な行動です。少なくとも「何を仕事にするか」や「どこまで働くか」は個人の選択です。雇用者がガミガミ言う職場もありますが、辞める権利があるので選択できるのです。経験や学歴や実績に依存する要素があるとはいえ、転職の自由があり、少なくとも全くの自由のない時代ではないと言えます。

こうなってくると、「生きるために必死に仕事している」というのはやや言い過ぎで「自分が選んでいるから仕事を必死にしている」が事実だよなあと最近思うようになりました。要領が悪くスキルの低い私には、ヘビーな案件をヘラヘラと片手間でできる余裕なんてないのですが、それでも、結局そういう過酷な道を選んでいるのは自分自身の選択なのだ、と思っています。

誰にも指示されていないのに禁欲的になる不思議

以前から私は自認していますが、自己肯定感が低く、自己批判の強い人間です。そして生産性という単語には敏感な引きこもりオタクで根暗でもあるので、何というか、誰にも全く指示されていないのに、一人で勝手に、「これは大変な案件だぞ」と仕事で感じると、一人で勝手に次々と楽しみを閉塞していき閉じこもって禁欲的に生き始め、そして一人で苦しいなとヒイヒイしているような愚か者の傾向があります。

あまりに自滅的傾向が強いので、GPT使ってアファメーションについて勉強したりしているほどです。

なぜ、自ら楽しみを減らして頑張ろうとしてしまうのか?恐らくは、仮説ですが、自己肯定感が低く自己批判が強いので、「楽しんでいるからうまくいかないんじゃないの?楽しんでいる場合じゃないんだよ」と囁くドス黒い自分が背中にいるのです。

別に会社はいたってホワイトで残業してまでプロジェクトの進行を急かすことはしません。そもそも私はマネジメントする側でもあるので、私をせっつく人間は私自身なのです。ダラけようと思えばダラけることができる立場にいるのに、できない。一人で自分で自分を追い込んでいくのです。

今回のプロジェクトでは一体どれほど休日返上して進行を速めたか記憶にないぐらい急ぎました。1年以上かかるプロジェクトなので1日休日返上しようが「誤差」のレベルでしか進捗は変わらないと頭では分かっているのに、です。愚か過ぎます。

環境や職場を変えたって自分の内面は変わらない

かつて、私は今のようにメルトダウン傾向(自分で自分を臨界点まで追い込んで苦しめる自分の精神性のこと)を、雇用者や住んでいる土地、交友関係や時代など、外的要因にその原因を追い求めていた時期がありました。

ブラック企業だから私は自滅するのだ、暗い土地柄だから陰湿になってしまうのだ、冬が長く暗い夜が多いから心がどんよりするのだ、収入が低いから不眠症になるのだ、楽しみが楽しめなくなるのは仕事が忙しいからだ、などなど…

しかし、最近はそのように考えていません。20年以上の社会人生活において私はありとあらゆる外的要因を潰し続けてきました。例えば、収入を上げたり、自由度の高い職場(在宅でタイムカードもない裁量労働制)にしたり、住まいの環境をめちゃくちゃ良い場所に移したり(いわゆるリゾート地に引っ越しました)。それでも、何も、変わらないのです。私の内面は。

昔はPCの性能が低いから楽しいことも楽しめない、と思っていた時期もありました。文句の言えないレベルまでマシンスペック上げて自分でも反論の余地を無くしても心は変わりませんでした。つまり、マシンは関係ありませんでした。

ある時、ふと気づきました。仕事の忙しい時期ではない時でも自分は忙しくしていたり、周りが笑顔で談笑していても必死に仕事している自分がいることに。そう、環境は関係ないと気がついたのです。

忙しくても平穏で過ごすには?<自滅せずに楽しく生きていくには?>

今回、1年以上の長期プロジェクトを終えて、再び同じことをやっていることに気づきました。すなわち、別に周りは急かしてもいないのに時間を早め、誰も何も言っていないのに自ら楽しみを断ち切ってまで仕事に没頭していたのです。

私は1日に1回、煮詰まり過ぎないよう30分ほどかけて近所の海へ散歩に行くことにしています。物事を客観的に考え、1日を見つめなおすためにです。出不精なので本音はずっと家にいたいので渋々出かけています。それでも体にはよいようで、体重が減ったり、血液検査の数値が良くなったりしましました。


海を見つめながらいつも思うのですが、私はなぜ必死に過ごしてしまうのだろう?と自分で自分の生き方に疑問を感じます。今住んでいる場所は、東北のように地震や豪雪で大変な環境でもありません。リゾート地ですからいくらでも楽しめる環境に住んでいるのに都会暮らししていたころの荒んだサラリーマン時代とさほど内面に変化はないように感じます。

スキルだって20年前から比べたら信じられないほど成長しているのに、ちっとも内面の充実に貢献していません。壁を越えた先にはいくらでも新しい壁があり、課題の解決は問題をゼロにするのではなく、古い課題を克服することは単に新たな課題に入れ替わるだけだからです。つまり、終わりなんてない。

かつて、スキルが上がれば、環境が変われば、収入が上がれば、仕事が楽になれば、人間関係が変われば、そのように色々な理由を列挙しては問題視しては立ち向かってきた果てにいるのが今の私です。

結局、人は何か問題を抱えているのなら外的要因を理由とするのではなく、最終的には自分自身の視点や行動といった形で内面から自分を変えるしかないのです。

自分を変えるのは難しい。それでも、環境を変えるよりもコストはかかりません。時間がかかりますし簡単には変わりませんし、そもそも根本的な性質は変わらないのかもしれない。

それでも、外的要因、なんでも問題を全て外部の環境のせいにしていたころよりは、自分と向き合うようになった今の方がマシになっているような気がします。今だって心はざわついているし、自己批判的で自己肯定感が低いのは相変わらずですが。

自己変革は一朝一夕にはいきません。ですが、自分の内面を見つめ、少しずつ変わっていく過程そのものが大切なのです。完璧を求めず、自分のペースで進んでいければ、いつか内面にもっと満足できる日が来ると思います。

少しずつでも、日々の中で自分に優しくなり、楽しみを見つけることができるように、適度な楽しみを自分で握り潰してしまわないように変わっていきたいな、と思います。

周りと比べたら全然できてなくたっていいのです。少なくとも、昨日の自分より進歩しているのなら。そう考えるようにして、過ごしています。

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