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散骨

「遺骨は海に撒いてほしいの。」

妻の遺言だった。そんな海好きだとは思わなかったが強く念押しされた。そもそも本当に亡くなるなんて思わなかったから「はいはい」と軽く聞き流していた。

「それだけでいいから。覚えておいて。絶対にお墓に入れたりしないで。」

病院のベッドで何度も言う妻はそんなに具合が悪そうに見えなかった。手術室に入った時も随分長くて暇だな、と思っただけで、久しぶりに会う娘の落ち着かない様子を見ていた。嫁に行ってから全く実家に来なくなった娘だ。「お前も齢とったなぁ。」と話しかけたがチラリともこちらを見なかった。

妻はそのまま亡くなった。遺影は娘が選んだ。いつどこで撮ったのか見たことのない写真だった。娘が花を買ってきて飾った。小さな赤ワインとチーズが置かれた。常識のない人間に育ったもんだ。妻に文句を言ってやりたいところだ。

「ワインとチーズ?お祝いじゃないんだぞ。花だって普通は菊じゃないのか?」妻がいないので娘に直接言ってやった。ほぼ口をきいていなかった娘が睨みつけるように私を見た。

「お母さんが好きだったのに。知らないんでしょう。この花も、ワインも、チーズも。」花なんか菊か薔薇かくらいしか知らない。ワインなんて飲む女だっただろうか。

「他にもお母さんの好きなものも嫌いなものも何も知らないでしょう。この写真だって、私と旅行に行った時のだよ。結婚してからも時々一緒に出かけてたの、知らないでしょう?」娘は1度も家に来ていないのだと思っていた。妻は何も言ってなかった気がする。妻に好き嫌いなど無く、何でも食べるはずだ。妻はいつの頃からかあまり家事もせず、料理も手抜きで、じっと座っているだけの女になっていた。何もしていないのに疲れた顔をして、深夜遅くまで二階の寝室にあがってこないし、朝も早くから居間に座っていた。

「お母さんが具合悪くて階段も登れなくなってたの知ってる?耳鳴りがして眠れなかったのは?少し動くのも辛かったのは?味が感じられなくなってたのは?」矢継ぎ早に言われても、妻は何も言ってなかった。私が「熱があるかもしれない」とか「肩が上がらない」などと言っても「…そう…」と静かに言うだけだ。心配もしてなかった。

「お父さんに言っても聞いてないからって言ってたよ。」娘の瞳から大粒の涙が溢れ出した。「元気なさそうだったから会いに来たら、すごく顔色悪くて…すぐ病院に連れて行った時も、お父さん朝まで帰ってこなかったよね。いつもどこで何してるのか知らないけど、お母さんが死んじゃったのお父さんのせいだよ。」今更、責められた所で妻は返らない。「いや、病気のせいだろ。」私の冷静な言葉に娘はピタリと泣き止んだ。

「お父さん。お母さんの骨を海に撒いたら、もう2度と会いません。お父さんとも呼ばないし、娘だとも思わないで。」なんて冷たい娘だ。お前の育て方が悪い、と妻を責めたかった。頬を平手打ちしてやりたかったが、そこに妻はいない。妻は怒鳴っても叩いても静かに泣くだけで決して離婚しようとはしなかった。よほど私に惚れていたのだろう。娘はそのまま出て行き、散骨の日まで来なかった。

「お母さんがこんなに海が好きだとは知らなかったな。」船から妻の骨を撒きながら言うと、娘はチラリとこちらを見て言った。「海好きだからじゃないよ。」正直、妻が何が好きかなんて知らないが海好きじゃないのに海に散骨させられているのか。「じゃ、なんだってこんな事を?」手間取らせやがって、と舌打ちしながら娘に聞いてみた。

「それはね。お墓に入りたくなかったから。」娘は海に消えていく妻を、いや、ただの骨を見ながら言った。「私のためだと思ってずっと耐えてきたけど、死んでまでは耐えたくないって。嫁と子供を放ったらかしにして家にもあまり帰らず、生活費もちゃんとくれない人と同じ墓に入るのだけは我慢ならないって。」

「そんな筈はない。お母さんはお父さんのことが大好きだったんだぞ。」娘はフッと鼻で笑った。「そんな訳ないでしょ。ーお母さんが『好き』なんて言ったことあったの?」

波間に消えていく骨を見ながら、どんなに記憶を辿っても妻が『好き』だと言った事は無かった。ただの一度も。

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