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ジャメブの箱から、初めまして

書き込みで真っ黒になっている台本に挟んでいたチラシを手に取る。”ジャメブ劇場、ファイナルステージ!”と書かれたそのチラシを、思わず裏返した。テーブルの上に両肘をつき、頭を抱える。

あの小さく愛しい劇場が、取り壊されてしまう。やっと、劇場の専属劇団の正式メンバーになり、初舞台のチャンスが巡って来たというタイミングで。

明日の最終公演が終われば、劇団も解散。ジャメブ劇場の取り壊し作業はすぐに始まるため、演じ切ったら、悲しむ間もなく劇場から去らねばならない。

「やぁ、どうしたの千代ちゃん。あ、かつら、やっぱり重かった?出来る限り軽くしたんだけどねぇ。ごめんねぇ、首痛い?」

舞台衣装担当のジョプリンさんが、私の向かいの席に座り、私の顔を覗き込んできた。エメラルドのような緑の瞳が、きらりと輝く。

「……あ、かつら、は問題無いです。前より軽くなったから、首を振るダンスのシーンも楽になりました。ありがとうございます」

「そう?良かった~。千代ちゃんは主役級の重要な役柄だからね。初舞台だし。この劇場のフィナーレだし。思いっきり演じてもらえるように、私も踏ん張るよぉ~」

顔中ピアスだらけで、鋭い目つきをしている金髪のジョプリンさんは初対面の人に怖がられやすいが、ものすごく優しい人だ。包容力が凄まじい。和んで、さらに寂しさが募った。

「劇場との別れが、寂しいんです。私、小さい頃からこの劇場に通い詰めてたでしょう。ちょっとおかしいくらい、この劇場が好きなんです。4歳の時、なんでか舞台裏に忍び込んじゃった時に、役者さんの白塗りの顔とか派手過ぎるサンバ風の衣装とか、ごちゃごちゃした狭い廊下とか、楽屋の喧騒とかに一目惚れしちゃって」

「うんうん、私も好き。でも、4歳でそこに惚れるなんて、なかなか大人びてる」

「へへへ、ジョプリンさんや先輩たちが優しく接してくれたからですよ。その後も、何回も舞台裏に遊びに行って。舞台を見る前に、もうこの劇団に入って、この劇場で演じようって決めたんです」

「そうかー。じゃあ、寂しいね。私も寂しくなってきた。寂しいけど、頑張らなくちゃね。お互い、悔いの無いように」

「……はい」

ジョプリンさんは去り際に、私の肩を軽く叩いた。



「この箱に入って出たら、あなたは忘れるでしょう。カラフルな氷が跳ね飛ぶような、木漏れ日が囁くような、騒がしく不思議なこの世界で感じとった全てを。箱から転がり出た先には、この世界とそっくりな世界があるでしょう。何もかもが同じですが、その世界であなたは、何もかもと初めて出会うのです」

観客1人1人に、声と熱が届くように、セリフを発する。私は今、主人公に箱を渡す時空の魔術師だ。大人が入れる大きさの青い箱は、時空移動装置。主人公が入って、別の世界に旅立って、物語は終わる。

主人公が、箱の中に入った。よし、最後のセリフだ。

「未視感、ジャメブ。確かに体験したという実感を、思い出せなくなる現象。それが、あなたに付きまといます。しかし、案ずることはない。思い出せないと、嘆くことはない。思い出はあなたから離れて、麗しい星々になっただけ。さようなら!」

青い照明が点滅して、エンディングの音楽が流れ始める。幕が閉じ始めると、拍手の波が押し寄せて来た。目を閉じて、必死に拍手の音を記憶に刻んだ。



「はーい、全員、速やかに出るようにー」

劇団の荷物を積んだトラックは走り去り、ついに劇場との別れがやってきた。空っぽの廊下は、思っていたよりも広い。

「団長、また会いましょうー!」「お元気で」「お前たちもな、それぞれの道で、元気に活躍してくれ」

団長と最後の握手を交わして、団員たちが外に出ていく。私は、泣いているジョプリンさんの後。一番最後になった。

「団長、お世話になりました」

「すまないな。千代は、もっとこの劇場で演じたかったろう。小さい頃から遊びにきてたもんな。今まで、ありがとう」

「いえ、いいんです。今はもう、何十年も舞台に立っていたような気分です。満足できました。ありがとうございました」

団長に手を振り、劇場のドアを開けた。一歩外に出る。初夏の太陽に、一瞬目がくらんだ。

「……あれ?」

何か、忘れているような気がする。肩掛け鞄の中身を探り、鍵と財布、スマホがあるか確認した。ほっとしたが、何か、すっきりしない。

今日の演技のレッスンはしっかり終えた。あとは、歩いて家に帰るだけのはず。しかし、何だか、おかしい。見慣れているはずの帰路の風景が、新鮮に感じる。

後ろを振り向いた。ジャメブ劇場だ。ずっと昔から、劇場の前を何回も通っていたはずなのに、初めて見たような気がする。取り壊し予定と書かれた看板が、赤レンガの壁に貼られていた。

気になっていたのに、結局、中に入ることすらしなかった。1回くらい、この劇場の舞台に立ってみたかった。

少し残念に思いながら、家に向かって歩き始める。遠くで少しずつ、蝉が鳴き始めていた。よく響く、綺麗な声だ。



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