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白魔の日記

度の強い眼鏡を外したまま、新幹線の窓から景色を眺めていた。輪郭が曖昧な街の灰色は、木々や山の、ぼんやりした緑色に変わっていく。

やっと夏休みが取れた。ゆだる暑さを缶に詰めたような都会から、遠ざかっている。故郷へ近づいている。実感して、安心の溜め息を吐いた。



「ありがとうございまーす。えーと、200円が1、2、3、4冊、5冊……」

実家の近くにある立派なお寺の境内では、毎年夏に古本市が開かれる。懐かしくて、何となく立ち寄っただけ。買うつもりじゃなかったのに、気付いたらかなりの量の文庫本を抱え、会計の列に並んでいた。

大きな木箱に詰められている無数の古本は、やっぱり魅力的だった。かなり希少な本も、お菓子を買う感覚で手に入る。もう読めないと思っていた懐かしい本との再会もある。

「お待たせしましたー。合計、2700円になります。暑い中お越しくださって、たくさん買ってくださって、ありがとうございます」

「あ、いえ、あの、なんか、買いたくなっちゃって。あはは」

おそらくバイトの大学生らしき若い女性から、丁寧にお礼を言われて妙に動揺する。テントで直射日光は遮っているものの、蒸し暑い古本市の出店スペースに、爽やかな風が吹き抜けた。

「この出店では、2500円以上お買い上げされたお客さんに、一冊お好きな本をプレゼントさせていただいてるんです。こちらの本からお選びください」

ずいっと出された小さい木箱には、不揃いのサイズの本が収まっていた。何となく、薄いノートのような冊子を手に取り、パラパラとめくる。びっしりと記された文字は、明らかに手書きだった。著者の名前は、どこにも無い。

「あの、これは誰かの日記、か何かですか?」

「版元の記載が無いので、おそらくは。実は、私も気になって、こっそり読んじゃいました。涼しくなれますよ。こんな日にぴったりです」

「え、怖い話はちょっと苦手なんですが……」

「いえ、スプラッタとかホラーとかじゃないので、大丈夫ですよ。とにかく、涼しくなるだけです。最後が少し、びっくりしますけど」

笑っている店員さんの言葉に戸惑いながらも、私はその本を選んだ。



懐かしい実家の窓を開けて、ひんやりとした夜風を顔に受けた。クーラーをつけようか迷ったが、つけずに布団の上に座り込んだ。

今日買った古本の山を、引き寄せる。一番上には、あの涼しくなるらしい日記があった。これだけは、読んでおきたかった。内容がずっと気になっていた。

ページをめくる。

”今日は、ジュエリーアイスと呼ばれるものを見物した。川の水が凍って、海に流れ出て、海岸に打ち上げられる氷塊だ。波で研磨され、クリスタルのように透き通っている。私を構成する氷の粒も、こんなに綺麗なのだろうか。嬉しくなった”

名無しの著者は、なんだか奇妙な文章を書く。しかし確かに、読んでいて涼しくなった。もっと読んで、暑さをしのごう。次のページをめくった。

”とある静かな湖で、アイスバブルなるものを見た。湖面の下に、泡がそのまま、無数に存在していた。湖付近にある火山のガスが湖底から噴出し、湖面近くで凍ることで出来るらしい。まるで、クラゲの群れが下から浮かんできているようだった”

泡が、クラゲが、凍った湖面の下に。想像してみて、ゾクゾクした。実際に見てみたい。次のページへと急ぐ。

”湖が凍り始める時、ピュイ、ピュイと鳴くことも知った。雪となった私が覆い隠せば、聞こえなくなってしまうらしい。残念だ”

ほとんど空白のページで、止まる。日記を書いた人物は、一体、何者なのだろうか。そもそも、人、なのだろうか。ゾクゾクッと、また背筋が寒くなって、日記を落としてしまった。拾い上げて、後半のページを、恐る恐るめくる。

”私は最後の降雪作業に備え、氷の砂漠、南極に帰ることにした。まだ時間があるので、この日記を書き終わったら南極の氷底湖まで潜り、ぼぅっとしていようと思う。何万年も圧縮されながら凍った氷は、液体に戻ることを、どれだけの人間が知っているだろうか”

南極の底まで、潜れるのか。南極の底に、湖があるのか。色々な驚きで、また身体が冷える。次のページへと、急ぐ。

”南極は砂漠よりも乾いていることを、不純物が一切入っていない純粋な氷は青いということを、どれだけの人間が知っているだろう。雪として地上に降る役目は、今回で次の代へと引き継がれる。また透明な、何物でもない存在になる。その前に、雪と氷の姿を書き記しておくことにした”

窓から入り込んできた涼しい風で、最後のページがめくれた。

”雪は白い魔、白魔と呼ばれて、人間に恐れられていることも、私は知っている。憎まれても仕方ないことも、知っている。だが、雪や氷は、麗しい。またいつか意識を持てたら、この日記を読み返したい。それまで、この日記は人間に託そうと思う。最後に、読んでくれた貴方、どうか保管よろしくお願いします”

「え」

最後に、お願いされてしまって、しばらく固まる。名無しの著者は、一体何者なのか。いつまで、保管してたらいいのか。

どこからか、忘れられた風鈴の鳴る音が聞こえてきた。



★続編らしきものができました!


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