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ダフネのオルゴール第18話(最終話)

クロエの遺骨はホルスホスピスが一時的に預かることになり、私はクロエの病室の片付けに取りかかった。イーボリックさんとアリサが心配して手伝うと申し出てくれたが、独りでも大丈夫だからと断った。

クロエがよく読んでいた文庫本も作りかけの手芸作品、リンシャちゃんと使っていた折り紙や刺繍糸も処分するつもりだ。クロエは私物をすべて廃棄してほしいと強く望んでいたから。骨も残したくないからと宇宙葬を希望し、葬儀も要らないと言っていた。

じっくり眺めて別れを告げては、思い出の品を廃棄と書かれた袋に入れていく。手を動かせば動かすほど、病室からクロエが生きていた気配が消えていく。できるだけゆっくりと作業を進めるが、とうとう残りはベッド横のサイドテーブルの引き出しだけになってしまった。

開けると真っ先にオルゴールが目に入った。ネジを少し巻いて蓋を開けると、優美な音色が鳴り始めた。しばらくして蓋を閉じた。これ以上聴いていると、また涙が止まらなくなってしまう。廃棄用の袋に入れようとした手が止まった。

「怒らないでね」

呟きながらオルゴールを両手で包み込んだ。


ひたすら挨拶しながらパンフレットを配る。最初は来館者の長蛇の列に感動していたが、今はパンフレットの残り部数が気になって焦り始めていた。あと1枚配ったら追加のパンフレットを持って来ようと思い、次のお客さんと目を合わせて驚いた。カンザキさんだ。白髪と皺が増えているが、穏やかな雰囲気は変わっていない。

「やぁ、クレスさん。久しぶり。本当に美術館の学芸員さんになったんだねぇ。感動しちゃった」

「カンザキさん!来てくれたんですね!ありがとうございます」

「こっちこそ手紙と招待券、ありがとう。やっと来られて嬉しいよ。風の噂でクレスさんが学芸員になったって聞いてから、いつか行こうと思ってたんだ。実はホルスホスピスとは別の病院に務めるようになってね。バタバタしてたらこんなに時間が経ってた。イーボリックさんと来ようと思ったんだけど、仕事の都合が合わなくて。悔しがってたよ。特別展が終わるまでには絶対行くって」

「そうだったんですか……懐かしいなぁ。イーボリックさんとアリサはまだホルスホスピスに?」

「うん。2人とも元気だよ」

思い出に浸っていると、隣でパンフレットを配る同僚に背中を突っつかれた。

「あ、お昼頃にあの彫像の前で待ち合わせしませんか?今は落ち着いて話せないので」

「そうしよう。忙しいのに呼び止めてごめんね」

「いいんですよ。美術館の中にカフェもあるので、ゆっくり待っててください。ちなみに満月プリンパフェ・マスカットスペシャルがおすすめですよ」

早口で補足情報を伝えると、カンザキさんは目を輝かせた。


特別展初日の忙しさは予想以上で、閉館時間直前になるまで自由になれなかった。早足で待ち合わせ場所に行くと、長蔵の前のベンチに猫背気味に座るカンザキさんの後ろ姿が見えた。

「カンザキさん!本当にお待たせしてすみません!連絡しようと思ったんですが、よく考えたら携帯番号が分からなくて。良かった。さすがにもうお帰りになってるかと。お時間大丈夫ですか?」

「今日は丸1日休みだから大丈夫。美術館を満喫できて楽しかったよ。ミュージアムショップでカタログも買ったんだ。あ、あのパフェ、本当に美味しかった」

「そうでしょう?カタログまで買ってくださってありがとうございます」

「じっくり作品を見て回ってたら自然と欲しくなってね。特別展ダフネの愛の夢、か。クレスさんらしいタイトルだね」

「ふふ、初めて提案書が通って実現した企画展なので、色々こだわって準備しました。無事に開催できて安心してますが、私はまだ周りの人に助けてもらってばかりの未熟者なんだなって思い知らされましたよ」

「焦らずに一歩一歩、だよ。でも本当に素晴らしい特別展だった。僕は美術には全然詳しくないけど、夢の世界に誘われるような不思議な感覚がしたよ。あ、座って座って。疲れてるのに立ち話させてごめん」

「嬉しくて舞い上がりそうです。本当にありがとうカンザキさん」

カンザキさんの隣に座り、目の前の大きな彫像を見上げた。やはり何度見ても飽きない作品だ。

「ダフネとアポロン。私にとって特別な作品なんです。この特別展の核になる作品として、鑑賞ルートの一番最初に配置しました。ルートを辿っていくと、また目に入る位置に調整したんです」

「うん。特別思い入れがある作品なんだろうなぁってなんとなく伝わってきた。もうじっくり鑑賞したんだけど、またもう一度ちゃんと見ておきたくなってきたな」

立ち上がったカンザキさんは彫像をしばらく眺めたあと、パンフレットに載っている説明文を読み上げ始めた。

「ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ作、アポロンとダフネ……恋を司る神エロスに矢を射られた太陽神アポロンと精霊のダフネが辿る悲劇的な運命をダイナミックに表現している……アポロンからの求愛を拒み続けたダフネが、ついに月桂樹へと姿を変えてしまう場面をリアルに切り取り、神話世界と現実世界が混ざりあう不思議な体験を鑑賞者に提供している」

自分が書いた文章が丁寧に読み上げられて、嬉しくて少し気恥ずかしい。

「ギリシャ神話です。この展示会では愛に関する神話を主題にした美術作品を集めました。地球で生まれた愛の神話が美術品という目に見える形になって、ムーンヴィレッジでも展示される。この壮大な歴史さえも、展示品なんです」

「愛の神話……まさに愛の夢、か。タイトルはもしかして、フランツ・リストの愛の夢?」

「そうです。あのクラシック曲のメロディが自然と頭の中で鳴り始めるような雰囲気を作ったつもりです。お客さんにちゃんと伝わっているかは、分からないけれど」

「少なくとも僕には伝わってるみたい。この彫像を見たときからずっと、愛の夢が耳の奥で流れてるんだ。オルゴールの柔らかい音色でね。ホルスホスピスでの良い思い出が蘇ってきたよ。特にクロエさんとリンシャちゃんの顔が脳裏に浮かんできた。そういえばリンシャちゃんは今どうしてるんだろう。クレスさんは知ってる?」

不意に氷に手が触れたように緊張して、言葉に詰まった。

「……残念ですが、半年前に。18歳の誕生日の直前でした。立ち会いたかったんですが、間に合わなくて。私がホスピスのボランティアを終えてからも、ずっと連絡を取り合ってたんです。しばらくクロエのことは伏せようと思っていたんですが、半年ぶりに会ったらすぐにクロエの最期について聞かれてしまって。やっぱり、感じ取っていたみたいです。転院後は体調が良くなって、療養病棟に移ったんです。一時帰宅が叶ったこともあるんですよ。院内学級で同年代の友達もできて、だんだん私以外の人とも話せるようになってきて。私と同じ学芸員になりたいって思ってくれて、真剣に勉強してました。でも病気が再発してしまって……。急いでお見舞いに行ったら、開口一番に勉強を教えてって言われました。リンシャちゃんは命の限り、本当によく頑張ったんですよ」

「……そうか……本当に強くて賢い子だったね。クロエさんみたい」

2人でぼろぼろとこぼれる涙をティッシュで拭う。しばらく無言が続いたあと、カンザキさんが明るい笑顔で振り返った。

「こんなに泣いたの、久しぶりだよ。はは、リンシャちゃんとクロエさんに笑われてしまう」

「泣いていいじゃないですか。あの2人は茶化しませんよ」

「そうだね。2人がここに来てたら、やっぱりこの彫像の前に立ってる気がするなぁ」

「私もそんな気がします」

ベルニーニのアポロンとダフネを初めて見た時、月桂樹の花束を嬉しそうに抱いているクロエの姿と重なった。ダフネとクロエはまったく違うのに、どうしても作品全体がクロエを示しているようで忘れられなくなった。この彫像をただ眺めていたくて学芸員になったとも言える。クロエは私の愛の夢なのだ。勢いよく立ち上がり、カンザキさんの隣に立つ。

「この作品は右前から見るとより感動的なんですよ。もう少し横にずれて……あ、もう少し左ですね。そうそう。その方向から彫像を眺めながら、ゆっくり左に向かって歩いてみてください」

「……わぁ。なんだか前より物語めいて見える」

「そうでしょう?この作品は元々、大きな公園の入口に置かれていたんです。作者のベルニーニは来園者がどの方向から作品を見るかということも計算して作ったんですよ。ダフネが月桂樹に変身してしまってから、アポロンが嘆き悲しむというストーリーを自然に視覚で感じられるように」

「ほぉ~すごいね。鑑賞する人が物語を見つける仕組みになってるんだ」

感心しているカンザキさんに、ちょっとした悪戯心が芽生えた。

「ちなみに、実は私あと1ヶ月で母親になります」

あっさりと告げると、カンザキさんはアイスブルーの瞳を大きく見開いた。視線を私の顔と平らな腹部に行ったり来たりさせながら、不思議そうに首をかしげる。おかしくて笑ってしまった。


養子縁組に必要な書類を整理し終えて、棚からオルゴールを取り出した。小さな書斎部屋をオルゴールの甘い音色で満たしながら、1ヶ月後に私の娘になる赤ん坊のエコー写真を眺める。机に並べた数枚のエコー写真には、こちらに背を向けている赤ん坊が写っている。一度も顔を見せてくれない恥ずかしがり屋さんだ。でも顔を想像するのも楽しい。

本当に独りで育てていけるのだろうか。心配する両親には自信満々に大丈夫だと言い切ったが、本当は不安でいっぱいだ。しかし一度あの赤ん坊を迎えたら、きっと何があっても守り抜くだろうと確信している。もう愛おしくて仕方ないのだ。対面して手を握ったら、きっと泣いてしまうだろう。

ふと目の前の出窓に視線を移せば、作り物の星と満月がいつものように輝いていた。クロエが毎晩見上げていた人工の星空。母親になると伝えたら、あの2人はどんなに驚くだろう。クロエはあまり驚かないかもしれない。やっぱりね、と笑ってくれる気がする。愛の夢の旋律と静かな月夜が、心地いい浮遊感を作り出す。水面に浮かんでいるような、水の中に沈んでいくような。

突然くしゃみが出そうになって、手で口元を覆った。明日も早朝から激務なことを思い出し、机に散らばっている書類やエコー写真をファイルにまとめ、鍵付きの引き出しに戻す。寝室に行こうと部屋を出た時、オルゴールがまだ鳴っていることに気付いた。

しばらく目を閉じて耳を澄ませる。誰もいなくなった部屋の中で、オルゴールはゆっくりと鳴り続けている。




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