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行商人の鞄は柚子の香り

やっと辿り着いた定期船の待合所。

お土産だと母に強引に手渡された重い袋を、真っ先にベンチの上に置いた。実家のご近所さん作の柚子がぎっしり詰まっている袋をペチリと軽く叩き、隣に腰かける。

寒い季節になると、おすそ分けという形で毎年どんどん柚子が集まってきてしまう実家では、母が柚子ジャムや柚子みそ作りに追われる。

今年は特に大豊作だったようで、柚子湯にしても柚子ジュースにしても追い付かない、頼むから消費に貢献してくれと母に懇願された。食材を無駄にする罪悪感に耐えられない母は必死の形相で、帰りの荷物が増えるのが嫌だとは言えなかった。

帽子を取って息を吐き、手持無沙汰な時間を迎える。

カチカチカチと、壁掛け時計の音がやけに大きく聞こえる。年季の入った待合室は、基本的に無人で寂しげだ。しかし、トイレがあり、冷たい外気を避けられるのはありがたい。

窓の向こうの穏やかな海を見る。私の生まれ故郷は、この南東の柚子の小島。雪はめったに降らないが、冬はそれなりに寒く、夏は猛烈に暑い。観光地としても知名度が低い島だが、私は好きだ。

島を覆う絶妙な気だるい雰囲気と柚子の香りが、いつも安心させてくれる。

隣の袋を開けて、柚子を1つ取り出す。ツヤツヤでどっしりとした立派な柚子だ。ソプラノ歌手の透き通った声のような香りに、うっとりする。


ガラガラガラ


重い扉が突然開く音で我に返る。灰色のロングコート、チェック柄のハンチング帽を被った男性が入ってきた。年配の男性のような服装だが、若々しい雰囲気だ。

男性は大きな箱のような旅行鞄を軽々と持ちあげ、ベンチに置いた。

トランクケース、というものだろうか。革製のようで、飴色に光っている。磨き込まれたシルバーの留め具や、革のベルトなどの部品もかっこいい。きっと、名の知れたブランドの鞄なのだろう。ヴィンテージ品かもしれない。

私の向かいの席に座った男性は、私に会釈してくれた。慌てて会釈し、持っていた柚子を慌てて袋に戻そうとする。しかしツヤツヤの柚子は無情にも私の手から離れ、男性のほうへ転がっていってしまった。

「あっ……すみません」

赤面しながら、柚子を回収しようと素早く腰を上げると、男性が柚子を拾ってくれた。

「大丈夫ですよ。これは良い柚子だ。少し、香りを嗅いでも?」

こくこくと私が頷くと、目尻を下げて笑っている男性は、柚子の表面を手で軽く払い、目を閉じて鼻を柚子に近づけた。数秒してから、驚いたように目を見開いた。

「ああこれは、本当に、素晴らしい柚子です。お嬢さん、これはあなたがお作りに?」

お嬢さん、なんて呼ばれたのは初めてだ。動揺して、一歩踏み出した妙な体勢で固まる。

「あ、いえ、これは、実家のご近所さんが……おすそ分けでいただいて……」

「ほほう。なるほど」

男性がなぜか、トランクケースと柚子を持って近づいてきた。驚いて一歩下がり、ベンチに座り直す。私の前で片膝をついた男性は、ふところからシンプルな名刺を差し出してきた。

「私は全国を渡り歩く行商人です。物々交換で、お客様にご希望の品を提供しています。この鞄は何でも収めることができ、何でも出すことができる特殊な鞄でして。この鞄で取引を行っています」

男性は隣に置いたトランクケースを撫でた。

「お嬢さん、この柚子をお譲りいただけませんか。特別な柚子の香りには、時空を超える力が宿っているのです。この柚子が、まさにそうなのです。このトランクケースに入れたら、きっと特別凄いものが出てきます。好奇心旺盛でして、試したくて仕方ないのです。……よろしいでしょうか?」

柚子と男性の顔を見比べながら、またこくこくと頷く。

「ありがとうございます。では、何が出てくるか、早速試してみましょう」

男性はトランクケースを慣れた手つきで開けた。何も入っていない。至って普通の、鞄だ。てん、と柚子を鞄の中央に置き、蓋を閉めた。十秒ほど経って、再び蓋をゆっくり開けた。

驚いて声も出ない。

柚子は消えていた。その代わりに、直径二十cmほどの派手に変形した金属片が入っていた。男性がその金属片を掴み取り、全体を確認する。

「おお!これはすごい!これは、おそらくカッシーニの残骸です」

「カッシーニ……?」

「二十年ほど前に打ち上げられた土星探査機です。数年前に役目を終え、土星の大気圏で燃え尽きたはず。完全に灰になってしまう前に、柚子の香りが届いたのでしょう。そして、こちらにやって来た」

捻じれた金属片を手渡された。しげしげと眺める。見た目より重い。

「柚子のお礼として、差し上げます。私は中身を確かめられれば満足なので」

ポーッという船の音が、私の狼狽うろたえる声をかき消した。

「ああ船が来ましたね。あの船にお乗りに?」

「あ、はい」

「一緒ですね。お嬢さん、船の中でぜひ話し相手になってくれませんか。行商の面白い話でもいかがかな。暇つぶしに」

「ぜひ、お願いします。あ、あの、お嬢さんって呼ばれると、ちょっと恥ずかしいかもです」

「ではレディーと」

さらに気恥ずかしい呼び方になった。笑いながら、柚子でいっぱいの袋を抱える。やっぱり、良い香りだ。



★続編らしきお話「行商人のこいのぼり泳ぐ日」


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