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トリトンの鬼さん、こちら、駒の鳴るほうへ

とある真夏の夜、鬼がやってきた。普通の人みたいに、縁側に腰かけていた。

夏の夜だというのに、鳥肌が立つほど冷たい風が吹いてくる。

寝ぼけていた私は、「どちらさまですか」なんて、聞いてしまった。着ぶくれしているような、真っ白な身体が振り返ると、顔らしきものが見えた。丸くて大きく、滑らかな顔には星空が映り込んでいて、口も目も鼻も、無い。

「少し、お邪魔します。海王星を周回する衛星、トリトンから参りました」

静かに返ってきた意味不明の言葉で、ああ、鬼なのかと、直感した。



最近、負け続けている。もう棋士として、瀬戸際だ。背水の陣だ。来月の対局に勝てなければ、もう棋士ではいられなくなる。焦りながらも、私はぼんやりしていた。

鬱々と家にいても仕方ないので、気分転換することにした。しかし、芝居小屋で観劇しても、新しい羽織を新調してみても、近所の野良猫や子供と遊んでみても、気は晴れない。つねに、将棋盤を腹に抱えているような、重苦しい気持ちだった。

もう最近は、周囲に将棋の研究だと法螺ほらを吹き、家に引きこもっている。昼間は、ぼうっとしている。夜、思い出したように駒を盤に綺麗に並べた所で、寝転がって天井を眺める毎日だ。

棋士でなくなったら、このお気に入りの借家から去ることになるだろう。妻も子もいない。棋士でない私は、誰でもなくなる。幽霊になってしまうのか。

「……よしっ!」

勢いよく起き上がり、浴衣の裾の乱れを直しながら正座する。将棋盤に駒を並べて、眺めて、睨む。足を崩して、頬杖付いて。

結果的に、全ての駒を中心に集めて山にした。1枚ずつ、駒を滑らせて取っていく。子供の遊び。将棋崩しだ。王将を引き抜こうとして、かちゃりと山が崩れた。負け。また負けた。

もやもやしたまま灯りを消し、蚊帳を捲って布団に寝ころんだ。今日は涼しい。眠気の波に身を任せようとしていると、顔に冷たい風が当たった。

縁側から、吹いてくるようだった。夏の寝苦しい夜は、少しだけ縁側の戸を開けて、庭から風が入るようにしている。今日は寒いから閉めよう。そう思い、蚊帳を捲ると、鬼の後姿が見えたのだった。



海王星のトリトン。初めて聞いた。星ということ以外、分からない。

ちょうど先週芝居小屋で、鬼が登場する劇を観ていたせいか、突然現れた異形の者が、鬼としか思えない。恐怖で絶句していると、鬼は長い話をし始めた。

「太陽系で一番寒い星です。マイナス200度の液体窒素を吹きだす氷の火山がある星。その星で、私は新しい時空転移装置の心臓部になるパーツを作っていました。その作業には大量の液体窒素と、超低温の環境が必要だったのです」

くぐもった声が、淡々と響く。顔に夜空の星々を反射させている、のっぺらぼうの白い鬼は、項垂れた。

「作業を終えて、地球に戻る宇宙船が出発した瞬間、積んでいた時空間転移装置のパーツが爆発しました。何がなんだか分からない間に、ひたすら白くて寒くて明るい場所で目覚めました。トリトンの氷河の中だったのか、はたまた、時空の狭間だったのか」

また冷たい風が、鬼のほうから吹いてきた。どうやら、鬼が発する冷気で、吹き込む風が冷たくなっているようだ。

「死にたくない、と念じていると、いつの間にか、私は色々な時代と場所に飛ばされるようになりました。この、宇宙服姿で。1分も留まれない時もあれば、数時間留まれる時もある。何が起きても死なず、いつまでも老いず。身体的な苦痛は一切無い。しかし、1日も同じ時代、同じ場所には存在できないのです。私は、いつまで、幽霊のように生き永らえるのでしょうか」

項垂れる鬼の肩が、震えていた。鬼が、しくしく泣いている。私は蚊帳から静かに出て、駒が散乱している将棋盤を、縁側の方へと引きずった。鬼と私の間に、置く。

「将棋崩し、しませんか」

思い切って、誘ってみた。鬼は驚いたように私を見る。困惑しているが、泣き止んではくれたようだ。簡単なルールを早口で説明する。説明しながら、駒の山を作り直した。

「ほら、私、1枚取りました。鬼さんの番」

「……こう、ですか?」

「そうそう。良い感じです。上手いじゃないですか。その調子。山を崩したほうが負けですよ」

「……ふふふ、私とこんな遊びしてくれるの、あなただけですよ」

あちらが勝って、こちらが勝って。繰り返している内に、私は眠っていた。



布団の上で目覚める。縁側の戸は、しっかり閉まっていた。部屋の角に置かれた将棋盤の上には、こんもりとした駒の山が残されていた。



その後、私は何とか棋士を続けられるようになった。今も負けたり勝ったりの日々だが、以前ほど苦しくない。気分転換できる方法を見つけたからだろう。

今夜も縁側から、待ち望んでいた冷気が漂ってきた。

「やぁ、鬼さん。来てくれましたか。待ってましたよ」

「どうも。また来ました。やっぱり、あなたのいる所には何度でも来れるみたいです。ふふ、何ででしょうね」

「さぁ。まぁ、私はあなたと将棋崩ししながら未来のお話を伺えれば、それでいいです」

鬼が笑った。



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