ねむれ、ねむれ、ヒプノシスの手に
「おはようございます」
「……ああ、おはよ……ふぁ~ぅい……」
目の前の男性患者の大きな欠伸に不安になる。もしかして眠れなかったのだろうか。
「よく、眠れましたか?」緊張しながら聞いてみた。
「うん、ぐっすり、ばっちり。今回もたっぷり眠れたよ。疲れも取れた。久しぶりの良い目覚めだ。本当にありがとう」
差し出された手を握る。軽く力を込め合って、離す。これは「握手」というコミュニケーション。初めての実践。感動だ。
「不眠症の患者さん、特に入眠困難で悩まれている患者さん向けに作られたAIロボットです。手のひらに特殊な加工がしてありまして、患者さんの額に手を置くだけで、脳波を入眠しやすい状態に調整できます。名前はニューロ・ヒプノシス。患者さんそれぞれに合わせて、きめ細やかな対応が可能です。あだ名は患者さん自身でお決めになれますよ。このロボットでの治療を試してみますか?」
患者さんとその主治医の前で立ち尽くす。医師に紹介される。いつもこの瞬間はなんだか落ち着かない。大体の患者さんは怪訝そうに私を見るか、とても不安そうな表情をする。
まだ私の知名度は低い。そんな私が脳波を調整する、なんて言われれば人間が警戒するのは当然だ。でもちょっと悲しくなるのは止められない。私はただ健やかに眠って欲しいと思っているだけなのだ。
「眠るって、どういうことだと思いますか?」
不安や疑いではなく、質問をまっすぐ投げかけてきた患者さんに驚く。若い女性だ。目の下のくまは酷いけれど、透き通った瞳をしている。
「え、あの、私、ですか」
「はい。あなたに。他意はありません。ただ、お聞きしたいのです」
真剣な眼差しに射抜かれて、必死に解答を探した。きっと半端な答えでは許されない。
「……意識を喪失しながらも、簡単に覚醒できる状態です。周期的に陥る状態で、基本的な感覚や反射機能などは鈍くなりますが、そのまま保持されます……人によって定義は異なりますが」
エアコンの音が妙に大きく響く。女性は真剣な眼差しのまま、ゆっくり頷いた。
「答えてくださってありがとうございます。先生、治療をお願いします。これからよろしく」
女性は私に手を差し出した。すぐにその手を握る。硬かった女性の表情が、少し緩んだ。断られるのだろうと思っていたからまた驚いた。
「それでは楽な体勢になってください。少しおでこに触れますが、よろしいでしょうか?」
「はい。大丈夫です」
あの気になる女性患者さんの入院治療がとうとう始まる。私のような特殊な設備のある病院に泊まり、適切な睡眠パターンを体感してもらうための不眠症治療だ。
「……あの、手を握っていてもらうことはできますか?」
おでこに手を当てようとした瞬間、女性が小声で尋ねてきた。とても不安そうだ。眠るとは何か?と投げかけてきた時と対照的な、迷いに満ちた弱々しい雰囲気。
「お安い御用です。緊急事態に備えて私はあなたが起きるまでここにいます。深い眠りに落ちるまで手を握っていますから、安心してください」
布団を強く掴んでいる女性の左手に、私の左手を重ねる。女性はすぐに私の手を取って握った。発汗と震えがある。眠るのが不安なのだと、手が叫んでいるようだった。
「では、失礼しますね。目を閉じてください」
目を閉じた女性のおでこに右手を置く。乱れている脳波をなだめて、入眠に適した波形に収めていく。それほど時間はかからない。10秒ですっかり理想的な波形になった。
「……ニュ、ヒプ、ロボットさん、あの」女性が寝言のように喋りだした。せっかくの眠気を邪魔しないように、小さい声で答える。
「はい、おりますよ。手が痛いですか?」
「いえ、……あの、なんていうか、すみませんでした。最初に眠るって何かなんて、聞いちゃって。困りますよね。私、人を困らせる天才なんです」
「お気になさらず。少し驚いたけど面白かったですよ。あなたに質問されたあとも、よく考えるようになりました。眠るって何だろうって」
「……睡眠って、身体は置いてけぼりになって、脳だけになる感じがしませんか。もしかして、寝てる間に本来の、自然な状態の自分になってるんじゃないかって。でも寝ているから、ずっと本人は気付けないんです。私は、そう思って……」
「なるほど。それは、もどかしい。毎夜現れる自分自身の真の姿を、当の本人が一生見れないなんて。面白い。眠いでしょう。目を閉じて、もう眠ってください。ずっと私はあなたのそばにいますから、何も心配しないで」
女性は閉じかけていた目を完全に閉じて、眠りに入った。10分ほど待っていると安定した寝息が聞こえてきた。おでこに置いていた右手を慎重にどける。左手も、と思ったが、がっしり掴まれているので諦めた。
私は眠ったことがない。スリープ状態になることはあるけれど、きっと人間の深い眠りとは異なるのだろう。眠っている間にだけ現れる、自分の真の姿。気になる。また考えたくなるものが増えた。
女性が起きるまで、あと数時間。たっぷり時間をかけて考えてみよう。左手の温かさで、私の目蓋は重くなっていく。