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子ども至上主義のその後

 ねこっちと申します。私は6年ほど「子ども至上主義」という一風変わった悩みを抱いていました。今日はそのことについて書いていこうと思います。


子ども至上主義とは

 人は様々な思いをして日々生きています。その中には、苦しいことも多くあります。よく「成長した」と言う言葉を聞きますが、人は苦しい時にいろいろと考え、切られた木が新たな新芽を出すように、新しい自分に絶えずなっていくのだと思います。私は大人になっていく中で、そのような経験を積み重ねてきました。

 それなのに、この世では少なからず大人よりも子どものほうが大事に扱われることがあります。「子どもは地域の宝」と言ったり、「真実は子どもの口から出る」と言ったりします。様々な苦しいことを経験し、たくましくなった大人よりも、まだ何も知らない子どものほうが尊ばれるこの現実に、私は長い間絶望していました。これが「子ども至上主義」と言う悩みです。

 散々涙を流し、嫌な思いもしたのに、まるで大人は腐った背景のように扱われ、大人だからしっかりしろよとか、いい年して何をやっているのだとか言われ、もう自由な子どもの心は死んだも同然のように扱われることもあります。私はこうした世の中が大嫌いで、死のうとした数は両手の指でも数えられないほどです。

 2019年5月28日、川崎登戸で子どもを無差別に殺害し、そして犯人自身も自殺した事件がありました。私はこの時、犯人にひどく同情した記憶があります(だからと言って私は犯罪をすることは断固反対です)。子どもは天使のように生きているのに、大人はいろいろなことを考えなければならず、さらに世の中では背景のように扱われる、そのような現実が本当に嫌でした。そのようなことを敏感に感じてしまう大人であれば、子どもを恨んでしまうのは仕方のないことだと思いました。

 だからこのころの私はよく言ったものです。「大人の笑顔には価値がない」と。本当に純粋に笑える子どもの笑顔は輝いていますが、いろいろなことを考えて頭がビジー状態の大人が笑うのは、どうせ嘘なのだと思っていました。

 子ども至上主義は、底知れぬ深い悩みなのでした。

子ども至上主義の客観化

 しかしこの子ども至上主義は、だんだん薄れていきました。それには経緯があるので、ここではそれについて話していこうと思います。

 発端は2022年3月ごろ、次のようなことを考えたのがきっかけでした。

「大人になった今は、子どもの頃が懐かしく思い出される。では、大人の今はなぜ懐かしくないのか?」

 子どものころのひと時は、時折懐かしく思い出され、ノスタルジックな感情に包まれる時があります。しかし、自分が大人と言われる年齢になった後のことについては、あまりそのような感情を抱かないのが私にとっては不思議でした。

 ところがある日、この問いについて次のようなことを考えたのでした。

 亡くなって成仏したら、大人のころが懐かしくなるのではないか?

 子どもの頃が懐かしいのは、「子どものころ」と言うステージを俯瞰できる大人の立場になったからではないか、と思ったのです。そのため、その大人のころが懐かしくなるのは、亡くなって成仏した時なのではないかと思ったのです。お金のこと、将来のこと、社会のこと、・・・様々なことを考えてあくせくする「大人のころ」は今でこそ嫌ですが、それがすべて関係なくなり、それを俯瞰できるようになった時に、まるで子どものころを懐かしむように、大人として生きていたころが懐かしくなるのではないか、と思ったのです。

 このことからわかるのは、「大人と子ども」と言うこの二項対立は、人生のステージの問題だということです。

 しかし、まだ自分のライフステージは大人であることには変わりないので、それが分かったからと言って何かが変わるわけでもありませんでした。ただその中で、子どもと大人の違いをなんとなく分かったことが大きな収穫でした。

子ども至上主義の克服

 その後も、子ども至上主義は依然残っていましたが、今年の10月になって、その様相が大きく変化しました。

 以前別の記事に書きましたが、精神的な安定と不安定の違いを、明確に言語化できたのです。

 精神的な不安定は、何かに強くこだわり、それに感情や思考が支配されることが作っていると気付いたのです。その中で、私は何を一番大切にしなければいけないかを分かってきました。

 子ども至上主義は、子どもと大人を比較し、子どものほうが尊く、大人は背景だ、腐っている、と言う考えに支配された状態のことです。しかし、それはあくまでも社会通念であって、極論を言ってしまえば自分の人生には何ら関係ないことです。すなわち、自分が幸せであれば、社会通念つまり他人が思うことはどうでもいいのです。私は、自分が幸せを感じられるように毎日を生活すればよいのだ、それが自分のしなければならないことだと思ったのです。

 思えば子どものころなぜあんなに楽しかったのか、それを問うてみた時、それはまだ自分というものがなく、それゆえ「自分の幸せの通りに生きる」と言うことが自然にできていたからなのだと思いました。つまり、自分の幸せの通りに生きることが至上命題で、それ以外の事は、自分を生きる上では関係ないことだと思うほうがいいと分かったのです。

 そう思った時、「子どもと大人」と言う二項対立は、もはや自分の人生には意味をなさないことなのだとさえ思ったのでした。一般的な子どもがどうであれ、一般的な大人がどうであれ、それにこだわることのほうが、言ってしまえば「負け」「社会通念の思うつぼ」で、自分が楽しければそれは放っておいてよいのだと思い至りました。こうして、私がマイナスな物事にこだわることをやめたと同時に、子ども至上主義も萎んで消えていきました。

最後に

 今は自分の幸せや楽しみを最優先にしているので、以前よりもマイナス思考が減りました。以前は、このnoteを使う中で、いかに自分の苦しかったことを言語化し、それを分かってもらうか、と言ったことを考えていましたが、今は楽しいことを共有し、自分から溢れ出る楽しさを分かち合うことにnoteを使おうと思っている次第です。今日はふと子ども至上主義を思い出したので、その後あの悩みはどうだったのか、と言うことをまとめて思うと思い立ち、この記事を書いたのでした。

 ここ数日noteの更新が滞っていました。それは私が大学の期末試験を受けていたからでした。子ども至上主義に悩んでいた以前は、勉学もできないほど深く悩んでいましたが、今は子ども至上主義に囚われていないので、思う存分勉強ができました。学んだ範囲をノートにまとめた結果、1日でノートを半分ほど(正確には42ページ)使ってしまいました。また、勉強の総まとめとして「予想問題」なるものを作り、それを完璧に仕上げました。今回の試験は、その予想問題も6割ほど当たり、そこそこ良い手ごたえでした。

 今を生きているのは他の誰でもなく自分であって、自分を幸せで楽しい状態にできることがなによりの目標である、今回の一連の心理変化の中で、私はそう思ったのでした。

 最後までお読みくださり、ありがとうございました。

   ねこっち

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