見出し画像

ジェンダーと宗教に就て

こんにちは、猫ねっこです。

昨今のジェンダーの問題、つまり男女間格差の問題やその多様な性別への理解を妨げるものとして「宗教の教義」の解釈がその要因の一つたると私は感じます。

今でこそ宗教はあまり表立って感じられない事も多いですがそれはほんの最近の事で、それ以前は顕著に政治や文化即ち民衆の意識へ宗教的な価値観が影響を及ぼしていた、換言せば教導していたように感じます。
現代でも地区で行う祭典や慈善活動、お祭りなどその文化の深部に、即ち幼少期から関わる行事として一定数根付いている事は確かです。

宗教的価値観が文化を型作っているという事は我々の価値観にいわばアプリオリ(先天)的にそういった考え方が埋め込まれている様に思います。

西側諸国に於いてはユダヤ教やキリスト教、イスラム教が専ら、我が国では神道や仏教でしょうか。
明治期以前の神道は仏教とその距離がとても近く、その仏教こそ道教(Taoism)や古代の大陸での価値観(タスマリンや呪法等)が色濃く残ります。

全てを追う事は私には到底出来ませんが幾つか考えられるものを挙げてみます。

仏教などでは女性を穢れとして考える様で、信仰対象の山が女人禁制であったり、女人成仏(女性は来世男性に生まれ変わった後成仏するという平安期以前の仏教思想)という教義が存在しました。

また易経に於ける陰と陽の概念を、殊に男性女性という肉体の性別に強く紐づける考え方は、戦前の日本に於いて男性はより男性らしく、女性はより女性らしくあれ、という様に軍国思想と相まって道徳的により深く根付いていった様です。

キリスト教に於いてのその扱いは仏徒の私には極めて難しいですが、聖書の一部記述が同性愛などを禁じているという解釈が一般的である様です。即ち懺悔して神に許しを乞うべきものであると。

イスラム教の聖典コーランにあっては、その時代背景を鑑みずリテラルに読めば女性蔑視的な記述が多いそうです(時代背景を踏まえれば当時の価値観としては先進的な様ですが)。

尤も、教義をどう解釈するかという問題こそ大いなる元凶であり、それは時に人を扶け(たすけ)、はたまた大変に殺しもするでしょう。過度にリテラルに、社会通念をも忘れて解釈する事は排他的な思想に、かといって欲望や執着を全く肯定する立場は過激な思想に繋がりとても危険です。
諸戒律が否定するのはその欲望や執着なのであって決して個性ではありません。この線引きは自らの信仰心を強める事、それこそ各々が神仏を強く祈り行間の意義を意識して汲み取る事でしかその目的は成し得ません。
敢えて申せば、風習のみが残り形骸化した中身の無い“信仰”こそ差別と分断を生みます。

キリスト教(正教会)がそのイコンを教義的に受容できた様に、時代に応じてその解釈をより洗練させてゆくことこそ信仰者の目指すところであり、教説を下に自他の個性やその取り組み、即ち神仏の顕れを否定的に断ずる事はとても悲しく感じます。

総ての教義、即ち神仏は全ての個性を尊重し肯定する存在であると私は信じます。

投げ銭を頂くとただ単に猫ねっこがちょこっと喜びます、ただただそれだけ。