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心のもやに建てられる、特殊建造物群

江ノ島

神奈川県藤沢市江ノ島

2000.9.20-21


 心象風景とは、経験や感情、感覚によって作られた想像上の風景のこと。

 英語に直訳すると、サイコロジカル・ランドスケープ(Psychological landscape)ですが、実際には「mental image」などと言われているそう。

 よく夢に、建物と乗り物が出てきます。

 子供の頃には、「いつもの電車に乗ったのに、見知らぬ駅に着いてしまう」という夢をよく見ました。原因はたぶん電車通学で、小学一年の時から遠方の学校へ、バスと電車を乗り継いで通わなくてはならなかったので、迷ってしまう恐怖があったのでしょう。

 そのうち私の夢には、とてつもなく巨大なエスカレーターと、光り輝く塔も現れだすのですが、そのきっかけは、生まれて初めて訪れた江ノ島だったのだと思います。


 1992年の、冬のある晴れた日。

 まだ美大の学生だった私は、付き合い始めたばかりの、ミュージシャン志望・兼フリーターだった彼と、神奈川県の端に位置する「江ノ島」にある、「エスカー」と呼ばれる巨大エスカレーターで、島のてっぺんを目指していました。

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島の地中に設置されたエスカーは、青白い蛍光灯に照らされながら、ゆっくりと上昇します。何回か乗り継いでたどり着いたのは、南国の木々が生い茂る、閑散とした広場で、野良猫たちが、冬の陽射しの中くつろいでいました。

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 当時、江ノ島のてっぺんには、今にも崩れそうな灯台があったのです。あせた水色の鉄骨で組まれた階段の上に、八角形で木造2階建ての白い小屋が建っていて、塔の上には赤くて細長いトンガリがついていました。

 蛇腹式の扉のついた古いエレベーターで、八角形の小屋まで行き、中に入ると、小さな螺旋階段。その上に巨大な回転灯が設置されています。もう点灯はしていませんでした。壁の白い塗装は黄ばみ、たくさんの落書きがされていましたが、窓から暖かい光の射し込む、空に浮かんだ秘密の司令塔のようです。

http://tower-fan.nishimitsu.com/enoshima.htm

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当時の江ノ島灯台 website「タワーめぐりの旅」より


天空の小屋を出ると、鉄の階段を歩いて下りました。塔は風で想像以上に揺れ、錆びてもろくなったスケルトンの階段のからは、はるか遠くの地面まで、何にもない空間が見えます。一緒に行った彼は青ざめていました。

 ようやく地上に着くと、そこは静まりかえった植物園です。大きな実をつけた熱帯植物が放置された温室。短いレールの電車のアトラクション。孔雀や小動物のコーナーもありました。どこからか、ずっと同じリズムの機械音が聞こえるのは、檻の中でグルグルと回り続けている皮膚病の動物の、爪と金属がぶつかりあう音でした。

 誰もいないフードコートの先の長い階段をくだり、古い食堂や土産物屋の前を通り過ぎると、ついに太平洋に面した波の打ち寄せる岩場に出たのです。青空を舞うトンビの声。岩場の一番外れにあった「岩屋」という名の古い洞窟は、1971年の落石事故から長いこと封鎖されています。入り口には金網が張られ、殺伐としていましたが、暗い洞窟の奥は富士山と繋がっているという言い伝えがあり、閉ざされた空間には、黒く湿った岩肌に沿って、何体もの古い石仏が並んでいるそうでした。

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岩場の穴の中に潜む島の野良猫


 目から網膜を通過し、流れこんできた初めて見る風景に、脳のどこかが刺激されたのでしょう。江ノ島を訪れてから数日後、私は、見知らぬ高い塔と、その最上部にある白い部屋へと続く、巨大なエスカレーターの夢を見ました。

 まばゆいばかりに輝く、部屋の入り口は遠くに見えている。けれどエスカレーターの天井はとてつもなく高く、暗く、不穏な雰囲気に心がざわつきます。どこか神々しい夢でした。

 目を覚ました私は、部屋に落ちていた紙に、その夢を忘れないよう描きとめてみたのです。全く思い通りには描けませんでしたが。

 

 6年後の1998年。

 27歳の私は、人生の岐路に立たされていました。事故、入院、失業などが続き、つい先日、6年付き合った彼も去ったのです。このまま実家で過ごす気には、なれずににいました。

 70年代の高価なドレスやワンピースを封も開けず、闇商人のように大量に部屋に隠し持っているF野は、いつもの部屋着、巨大な軍パンとMA−1姿でゲームをしています。タバコを片手に、私の泣き言に付き合ってくれていましたが、冷蔵庫からスクエアにカットされた豚肉のパックを取り出すと、大量のカレーを作り始めました。

 彼女の同棲相手は、その界隈では名の知れたバンドのボーカルでしたが、このところ朝早くから工事現場に出かけています。数日前から私は、二人の暮らす、高円寺の部屋に転がり込んでいたのです。F野はK子にも声をかけると、喫茶店で用もなく話し込んだり、新宿や吉祥寺で朝までライブを見たり、中野ブロードウェイでゲームソフトを探すなど、気ばらしをさせてくれました。私の顔が睡眠不足で土気色になると、うっかり死なないように休息も促してくれるので、自己管理下手な私でも、この間にどうにか履歴書を書き上げ、就職できたのです。ここしばらく感じていた、わけの分からない不安から、逃げきれたと思いました。

 会社という異世界は、パソコンと睨み合う徹夜作業だけでなく、高級焼肉店での謎のディナー、謎のレインボーブリッジ、謎のタクシーチケット、謎の社内ボウリング大会など、謎のイベントもよく発生するのだと知りました。誰かの影に隠れてやり過ごしているうちに、いつしか、頭の中にぼんやりと、ある風景が浮かんできたのです。

 「荒涼とした砂地の上に、雨ざらしになった汚い紙の束がある。何かが印刷されているので古い雑誌のようにも見えるが、古いビデオテープのケースかもしれない。刷られているのは粒子の粗い色あせた風景。退屈なSF、残虐なようですこしも怖くない、卑猥だけれど微笑ましい映画。晴れた日の、どこかの星の岩の上に、透明な建物がある。空には巨大な口が浮かんでいて、奇妙な特殊効果が施されている。なにかの生命体がいる」

 真夜中のオフィスのパソコンモニタの前で、朦朧となって椅子に埋もれ、手足を投げ出して天井を仰ぐと、頭の中の風景を自分で現実にしてみたい気持ちが湧いてきます。

 机上のクロッキー帳に、転がっていた色鉛筆とペンでその風景を描いてみたものの、うまく描けません。ふと、そのイメージを写真で撮れないかと思いました。つい先日、謎のビンゴ大会で運良く10万円が当たり、中古の広角レンズを買ったばかり。撮るならどんな場所で、何が必要だろう、誰がどんな服を着て写ったらいいのか。私はとりあえず、K子に相談することにしました。

 彼女はいらないガラクタから、奇妙で不可解な掘り出しものを見つけ出す名人で、だからか、ハッとするようなスナップショットを撮るのも得意でした。被写体になる時も、あまりカメラを意識しないのか、わざとらしくないので、心象風景をできるだけ自然に撮影するのに、K子の存在は不可欠と思ったのです。

 私とK子は、バザーや古着屋だけでなく、商店街の激安婦人服店、古道具屋、リサイクルショップ、100円ショップ、閉店セール、ホームセンター、パーティーグッズ売り場、ホコリをかぶったワゴンセール、などなど、怪しげなものがありそうな場所には、ある種の使命感を持って足を踏み入れるようになりました。

 そして私の頭の中には、撮影場所の候補地として、江ノ島が浮かんでいたのです。


 江ノ島の成り立ちには諸説あります。およそ二万年前、片瀬という地から離れ独立した島になったとも言われていますし、江ノ島に伝わる『江島縁起』という本によれば、552年4月12日の夜から23日の朝にかけて大地が揺れ、そこでできた、とも言われている。そして1216年に、江の島と対岸の片瀬との間の海底が隆起し、現在のように徒歩で渡れるようになったそうです。

 江の島は古来より信仰の場で、日本三大弁財天の一つに数えられ、島内のほぼ全域が神社の境内で、また、島全体が龍の巣ともいわれ、龍神をおさえる関東の要所ともなっています。欽明天皇の命により、その神を島の洞窟(岩屋)に祀ったのが江島神社の始まり。欽明天皇は聖徳太子より少し前の天皇で、この頃、日本には仏教が正式に伝わり、日本固有の神道と、外来の仏教の両方が大切にされていました。その後、江島神社はお寺になったり神社に戻ったりしながら現在に至ります。

 天照大神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約により誕生した、田心姫(たぎりひめ)、市杵島姫(いちきしまひめ)、湍津姫(たぎつひめ)の三女神が、江島大神と称されます。古くは江島明神と呼ばれ、今は江島弁財天として信仰されている、すべての「道」を司る最高神で、航海や交通の安全を祈願しており、海や水の神であるだけでなく、幸福や財宝を招き、芸事を上達させる功徳もあるそう。

  波と三つの鱗(うろこ)をモチーフにした神社の紋は、北条家の家紋である「三枚の鱗」の伝説にちなんで考案されたもの。『太平記』によれば、1190年、鎌倉幕府を治めていた北条時政が、子孫の繁栄を祈願して江の島の洞窟に赴きます。願い事をした夜に弁財天が現れ、それを叶えると約束してくれました。弁財天は大蛇に姿を変えて海に消え、三枚の鱗が残されたので、時政はこれを家紋としたのだそうです。

http://enoshimajinja.or.jp

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江島神社の社紋 website「江島神社」より


 江ノ島は、文明開花の時代の、近代博物学・海洋生物学の発祥の地でもあります。1877年(明治10年)、エドワード・S・モースは漁師小屋を日本初の海辺の研究所にして、シャミセンガイの研究を行いました。また、横浜に住んでいたアイルランド人貿易商のサムエル・コッキングは、多くの熱帯植物を収集・栽培し、1882年(明治15年)には本格的なボイラーを備えた大型温室や、オオオニバスの栽培池を備えた画期的な熱帯植物園を建てたのです。(※2021年現在、藤沢市が所有するサムエル・コッキング苑)

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エドワード・S・モース Wikipediaより


 地中に埋まり、神社の入り口から島のてっぺんまでを繋いだ長いエスカレーター「エスカー」は、高い場所にある神社へ徒歩でしか参拝できない不便さを解消するため、1959(昭和34年)年に設置されたものでした。途中で何回か乗り継ぐことで、三宮に祀られている三女神すべて、お参りすることができるのです。

https://rtrp.jp/spots/d5544c2c-bdbb-4689-a7e8-774be125607f/

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江ノ島エスカー    Website「RETRIP 」より


  島のてっぺんの崩れかけたトリコロールカラーの灯台は、戦前に二子玉川にあった読売遊園(後の二子玉川園)の落下傘塔を移設したものでした。1950年(昭和25年)に「読売平和塔」という展望台のついた「江の島灯台」として建設されましたが、2003年(平成15年)、新たに建設された「江の島シーキャンドル」にその役目を譲り、解体されました。読売遊園の落下傘塔はロープのついた落下傘で降下する遊戯施設でしたが、戦時中には、陸軍の落下傘降下訓練に使われていたそう。これは後日気がついたのですが、2001年の9月、あの同時多発テロの前日に、私とK子が探しても見つからなかった二子玉川園の残骸は江ノ島にあったのでした。

https://harady.com/enoshima/maniac/tenbodai.html

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旧 江ノ島灯台    website「江ノ島マニアック」より

 



 初めて江ノ島を訪れてから8年が過ぎた、西暦2000年9月20日。

 残暑の厳しい午後です。私たちはひと月ほど前にF野にも声をかけて、この一泊旅行の趣旨を伝えていたので、彼女は、街であまり見かけないようなロングドレスを着て、コンビニにタバコを買いにでも来たような様子で、小田急線江ノ島駅の改札に立っていました。

 30歳を目前に控えた私たち三人の風貌は、出会った頃よりもどことなく、霊長類の赤ちゃんを抱えていても違和感がないほどには頑丈そうです。でも、旅行バッグに詰まっていたのは哺乳瓶やおむつではなく、胡散臭いドレス、ゲームに出てきそうなニセモノの剣、巨大なマーブル模様の風船、100円ショップで買い込んだ唇形クッションなど。私たちは、撮影機材とそれらを抱えて、江ノ島へと続く橋を渡って行ったのです。


 キーボードを打つ手を止めました。いつも作業台として使っているスウェーデン軍の箱の上から、コーヒーカップを取ります。急に涼しくなったので、秋の虫の声が聞こえてきました。

 2021年9月、私は今でも、巨大エスカレーターと塔の夢を見るのです。




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藤沢市 湘南江の島 HP https://www.fujisawa-kanko.jp

藤沢市生涯学習部郷土歴史課 https://www.fujisawa-miyu.net/index.html

文中引用させていただいた参考画像のそばにもリンクを貼らせていただきました





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