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【掌編小説】おひなさま

「おひなさま、いつしまったらいいんやろ。今日の夜?」

 久しぶりに食べたちらしずしが思いの外おいしく、余韻に浸っていたときのことだった。
 こちらに問いかけておきながら、志麻は答えを聞く気がないのかすぐにジャージャーと水を流しながら洗い物を始めてしまう。

 まずコップを洗って、次にお箸、それからお茶碗……彼女の洗い物の順番はいつも変わらない。頃合いを見計らって台所に体を向けると、ちょうど彼女が蛇口を閉めるところだった。

「別に3月いっぱい置いとけばいいんちゃうん。せっかく出したのに、なんですぐに片付けなあかんの」

「早くしまわんと婚期が遅れるから、とか昔言われたなあ」

 思わず鼻で笑ってしまう。

「婚期って!昭和やな」

「まあそれを教えてくれたんが、どっぷり昭和生まれの親やからなあ」

 志麻は笑いながらそう言うと、風呂場のほうに行ってしまった。

 お湯が床を跳ねるにぎやかな音を遠くに聞きながら、ソファに体を沈める。
 ラックに置いたおひなさまとお内裏様が視界に入る。こみ上げてくる苦い気持ちに顔をしかめる。

 志麻におひなさまを片付けないと婚期が遅れると教えた彼女の両親は、古来の日本人らしい感覚と常識を併せ持った人々だ。

 志麻の両親が、30歳を間近に控えた彼女に、最低でも週に一度電話をかけてきているのを知っている。

 早くそんな変な暮らしはやめて、結婚し、子供を産みなさいと言っているのを知っている。

 志麻が、私を傷つけまいと、いつも両親との電話の内容についてあいまいに濁しているのを知っている。

 でも志麻は知らない。


 一度、私が昼寝から目覚めかけていたときに志麻に電話がかかってきて、しんとした部屋で交わされるやりとりをすべて聞いてしまった、そのことを志麻は知らない。


 寝たふりをしながら、息がどんどん浅くなって、どうやって呼吸していたのか分からなくなった、私の混乱を、彼女の両親に対する怒りを、悲しみを、志麻は知らない。


 “変”ってなんだ。


 こちらからすれば、好きで一緒にいる独身のおとな二人の仲を、自分が信じる常識を盾に引き裂こうとしている彼女の両親のほうがよっぽど変だ。

――と、そう単純に、近視眼的に志麻の両親の考えを否定し、敵対視できれば楽なのだが。

 おとなになって久しい今、もうそれはできない。「なぜそんなことを言うのか」、その理由と答えを脳が勝手に導き出してしまう。

 そして目の前に現れる袋小路。

「しーまー!」

 行き止まりの壁を頭突きで壊して正面突破する――そんなイメージを頭に思い浮かべ、ソファから勢いよく飛び起きる。服を脱ぎながら小走りで風呂場に向かう。

「今日は私も一緒に入る!」

 さっさと体を洗い、「狭いねんけど」と笑う志麻と一緒に湯船に浸かりながら、一生おひなさまを出しっ放しにするのが一番平和的な解決方法かもしれない、と思った。

サポートいただけたら、もれなく私が(うれしすぎて浮かれて)挙動不審になります!よろしくお願い致します!