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【短編小説】マスク-05(終)

*これまでの話*
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※感染症について偏った表現がなされていますが、小説上の表現としてご容赦いただけますと幸いです※


 閉めきった窓から、蝉の騒がしい鳴き声が忍び込んでくる。しばらくレースカーテン越しのぼんやりとした窓を眺め、由利子はパソコンに向き直った。

 忌まわしいあの感染症が日本にもたらされてから、二年と少しの月日が過ぎた。

 会社ではテレワークが解除されつつあるが、由利子は持病があるとウソをつき、在宅を続けている。会社での印象は良くないだろう。最悪、このままでは退職を促されるかもしれない。

 そう分かっていても、由利子は軽々しく外には出られなかった。

 急ごしらえのワクチンが広く接種されるようになり、マスクを外す人が目に見えて増えてきている。

 ワクチンは感染しても軽症で済ませられるものであって、感染症自体を跳ね返し、無効化する無敵のアイテムではない。そう由利子は考えている。

 つまり、ワクチンを接種していても感染症にはかかり、ウイルスを広める可能性はあるのではないか。新聞、雑誌、インターネット、いろいろな媒体からその恐ろしい可能性を否定する希望を探したが、由利子はついに見つけられなかった。

 感染しているかもしれない人々が、マスクをせずに歩き、笑い、話し、食べ、飛沫を飛ばす世界。考えただけで背筋が凍る。

 由利子はワクチン接種をしていない。

 十分な治験がなされていない薬を体内に入れることに抵抗があるのはもちろん、外出することそのものがためらわれる。「マスクをしていない人」という障害物が外の世界には多すぎた。


――これからどうなるのだろう。


 外だけではない。由利子にとってもはや家も心からくつろげる場所ではなくなっていた。

 由利子は家にいる間中テレビをつけ、お気に入りの番組やドラマを観るのが日課だった。

 趣味はテレビ鑑賞だと答えるほど楽しんでいたのに、それがだんだん苦痛を伴うようになった。
 ニュースでもバラエティ番組でも、テレビをつけると感染症の名前が頻繁に聞こえてくる。

 いつからか由利子は、その名前や「感染」という単語が耳に入ると頭を三回振るようになった。軽く振るからまるでうなずいているように見える。

 頭を振ってそれらの言葉を追い出さなければ感染症にかかってしまうかもしれない。

 そんな漠然とした恐怖と、そんなことあるわけがないという否定の気持ちが頭の中で瞬く間に渦巻く。否定しようと試みても、しかし十秒先の未来すら分からないのだから絶対に起きないとも断言できず、頭を振ってしまう。するとさらに恐怖心が心での範囲を広げていく。

 嫌な言葉が聞こえたにもかかわらず、何もしなければわざわいが起きるかもしれない。死ぬかもしれない……頭を振る回数は日増しに増え、元凶であるテレビを消さざるを得なくなった。

 すると今度は頭の中に感染症名や嫌な単語が直接浮かんでくるようになった。追い払おうと頭を振る。そのあと不安から買い置きしてあるマスクの数を数えるという行為を繰り返していたら、両方ともしなければ気が済まないようになってしまった。


――なんでこうなってしまったのだろう。


 毎日自問しているが、答えは出ない。

 由利子は眠っているときだけ、「しなければならない」制約から解放される。


――起きてただ生きているだけで毎日はとてもしんどい。


 コーヒーを淹れに行こうと立ち上がり、ふと本棚に目が留まる。
 一段目の端に、文庫本とともに同じ背丈のノートが数冊並んでいる。そのうちの一冊をそっと引き出す。

 しばらく斜め読みをし、しまいに床に座り込んで読みふけった。

 日記だった。就職してからつけ始め、ずっとゆるく続けていたが、一年ほど前にやめてしまった日記の最後の巻だ。

『マスクのおかげで、私はこっそりと、しかし大胆に、すなおに感情を出せるようになった。』
『今日、私は、これまで選んだことのない色の口紅をつけて出社した。
マスクがなかったら絶対にできない芸当だ。』
『電車の窓に映る自分の顔を見ながら、今の心情は“トレンチコートの下は裸”という状態に近いのではないかと思った。』


「トレンチコートの下は裸って、何書いてんだ私……」

 声が震える。すぐに視界がぐにゃりとゆがむ。堰を越え、涙がぼろぼろと頬を伝い落ちていく。
 日記の最後のページはほとんど殴り書きのような状態で、誤字脱字も多い。恐怖すら感じるそのページの締めくくりの言葉を見て、由利子は嗚咽を上げた。

『私にはもう「普通」がなんだか分からない。』


――今の自分は異常だ。


 日記に綴られた日常は「普通」そのものだ。

 その日々が「普通」なら、今の日々は「異常」以外のなにものでもない。突きつけられた現実に、由利子は喉がつぶれるほど大声で叫びたくなった。

「このときの私と今の私は、全然違う」

 つぶやくと、また涙がこみ上げてくる。

「もうこの日記の、普通の私はどこにもいない……」

 
               ***


 照りつける日差しの強さに、由利子は思わずたじろいだ。日の高い時間帯に外に出るのはいつぶりだったか、もう覚えていない。

 これから予約している病院に向かう。電車で二駅先の場所だが口コミが良く、ホームページに掲載されている院内の写真にも好感が持てた。

 正直、そこに行けば自分が抱え込んでしまった病がすっかり治るとは考えていない。

 むしろ、満足のいく診断がもらえなくても、三分診療でも、薬だけ出されて放り出されてもとりあえずかまわないと思っている。

 今なら立ち上がれるかもしれないと思ったときを逃さず立ち上がり、そこから一歩を踏み出すチャレンジを。由利子が今求めているのは、ただそれだけだ。

 
               ***


 自分の日記を読んだ日、過去と現在の乖離に、由利子は深く絶望した。人生をそれなりに楽しんでいた自分は死に、馬鹿げた制約に縛り付けられた生きづらい自分に生まれ変わってしまったのだと思った。

 鬱々とした気持ちで一日生き、数日生き、一週間生きた。さらに一週間生き、自宅で座椅子に座ってついていないテレビをぼんやり眺めていたときに、由利子はふと気づいた。

「違わないんじゃない……?」

 身を起こし、背筋を伸ばし、確かめるようにもう一度同じ言葉をつぶやく。

 確かに日記の自分と現在の自分の状態はかけ離れている。


--でも、その私もこの私も、全部同じ「私」じゃないか。


 それは絶対に変わらない、変えたくても変えられない事実だ。
 普通の先に異常があったように、異常の先にまた普通があるかもしれない。

 由利子は鼓動が早まるのを感じた。そして久々に思考した。

 普通を取り戻す方法について。

 感染症の蔓延が収束したあとにくる新時代までに、自らの「普通」を取り戻す。
 今はただ、その目標を目指して生きる。


――ああ、何からやろう?


 由利子は久しぶりに、胸いっぱいに息を吸い込み、思い切り吐き出した。


                          マスク-05(終)

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