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人類学と出会ってしまった助産師の話

こんにちは、
助産師で、この秋からアムステルダム大学の医療人類学・社会学専攻修士課程に進学する、実家の猫に懐かれない、と申します。
留学で会う頻度が減ると、ますます実家の猫からは嫌われそうです。

ぼんやり系助産師だった私が、血の冷たい蛇男と、文化人類学、医療人類学という学問に人生を大きく変えられつつある話をしたいと思います(多少のフィクションによる調整をしています)。

実家の近くの総合病院で働き、子供を産み、地域に転職し、幸せに暮らしましたとさ

これが、私が助産師資格をとって新卒で就職、それと同時に結婚した際に思い描いていた将来像です。5年目になったら妊活をはじめて、1人産んだら復職し、2人目を妊娠したら辞めて、夜勤のない保健所や助産院で昼間だけ働けるように転職しよう。まあ、新人助産師が思い描く王道コースの一つだと思います。
実家のある自治体でのんびりした総合病院に就職しました。同級生の多くは「地域周産期病院」「総合周産期病院」の認定を受けた、お産の件数も症例のバリエーションも多い病院に就職していきましたが、私はあえてその道を選びませんでした。実習中、地域周産期病院でしごかれ、泣かされ、人格否定された思い出があり、忙しすぎるのは勘弁、と思っていたからです。

就職した病院では、しごきの「し」の字もないような、ポジティブフィードバックで自己肯定感をあげてくれる先輩に恵まれ、私は新人助産師としてすくすくと育ちました。助産師と医師とが互いの専門性を尊重しているような関係性で、心から素敵な職場だと思いました。こういう環境なら長く続けていけそうだな、ここに就職して本当に良かった、そう思っていました。

そこに、蛇男がやってきます。彼が来たことで、私のつかのまのユートピアは一瞬にして崩壊しました。蛇男は、検査データの数字とモニターがお産のすべてで、それらを読み取れる医療者がお産を管理する主体である、という態度を隠しもしません。そして、へその緒の採血の数字が良ければいいお産、数字が悪ければ間違いがあった、と考えているようでした。
妊産婦への声掛けにも、違和感を覚える場面がありました。本人の羞恥心や自尊心を平気で傷つけるような言い方をしてしまう。医師が決めた方針がすべてで、助産師と妊産婦はそれに従う以外に選択肢はない。デリカシーのなさも数値化して評価してやりたい、と思うほどでした。

蛇男の襲来から数か月で、こんなにも、こんなにも、数字やエビデンスだけを見て人を見ない医療があるんだ…と絶望していました。

産科は、母体と胎児の二人の命を同時に扱います。医療者は母体の健康を管理するだけでなく、モニターやエコー上の数字で胎児の状態を把握し、「胎児の代弁者」となり、母にすべきことを指導し、必要があれば母体を治療します。赤ちゃんが元気に生まれて当たり前、と思われがちな産科分野では、万が一そういう結果とならなかった時のために「訴訟されても」自分たちに落ち度がなかったことを証明するために数値化されたエビデンスや医療者主体の管理を重視する文化があります。

こんなこというと、批判されるかもしれませんが。

数字だけで産科医療を見ようとすると、赤ちゃんは元気に産まれてこなければいけない、赤ちゃんの〈かけがえのない命〉は何よりも守られるべきだという倫理観が自明のものとなります。だから、妊産婦が何を食べ、どこに行き、どう過ごすのか、これまでの「エビデンス」に基づいた具体的なアドバイスがされ、母はそれに従うことが期待されます。時に、切迫早産と診断されると母には数週間の副作用の強い薬物投与と絶対安静を求める方針の病院もあります。母の主体性、人生、物語、価値観、心の揺らぎといった曖昧で数値化できないもの、命の存続には直接関係しないように思われるものは、優先順位が低くなります
私は、生まれてくる命が大切にされることを否定したりはしません。これまで、赤ちゃんもお母さんも無事に元気でいられるように全力を尽くしてきました。医学や経験から得た知恵でお母さんたちが自分の命、赤ちゃんの命を守れるようにアドバイスしてきました。そのことを悔いたことはありません。医療者である以上、命を最優先に考えて働くことが、使命の一つだとも思っています。
しかし同時に、医療者の期待や治療に応えられない母が「胎児虐待」という強い言葉で責められることに違和感があります。ドゥーラという、母の代弁者としての職業が少しずつ注目されつつありますが、まだまだ一般的ではありません。そして、出産後の子育てにおいても、子の命と健康を守るための母親の献身への期待は続きます

たぶん、コロナ禍で多くの医療者が感じたであろう絶望感や違和感は、私が産科医療に対して感じているものに似たものがあったのではないかと思います。
感染拡大を防ぐための、面会の禁止、患者の自由の制限、自分たち自身の生活の制限…。すべては感染者数・死者数という数字を1人でも減らすため。それぞれの人生の物語はいったん脇に置く

学生時代から、エビデンスに基づく医療(EBM:Evidence-Based Medicine)のすばらしさを信じてきましたし、今もその信仰心は捨てていません。しかし、エビデンスを突き詰めるあまり数字しか見えなくなった蛇男と出会い、絶望したことで、このままEBMを信じる気持ちを強めていくことに怖気づいてしまいました。そして、ここでお産にかかわり続ける限り、いつかは私も蛇女になってしまいそうで、すぐにでもこの場から離れたい、と思うようになりました。

大阪の師匠に会いに行ったら、オランダに行くことになって帰ってきた

つまり、今働いている病院を辞めたい、と思ったわけで、助産学校の恩師にその旨を長文メールしました。そのメールの一部抜粋です。

総合病院の産科で働いていて、女性が主体的に妊娠期の身体づくりや出産に取り組む機会を医療者が奪っていること、病院という公共空間に産後のデリケートな心身を合わせなくてはいけない産褥期入院の理不尽さ、助産師や医師の高圧的な指導姿勢や管理型の医療、そうしたことがとてもつらく感じます。
去年度はまだ良い意味で自由がありました。しかし今年度から産科専門の医師が着任し、出産の徹底的な管理(産婦のためでなく訴訟のため、という意味合いを強く感じるような管理)の考え方が指導されています。
ずっとここにいれば、少しずつ感覚が麻痺してきて、何とも思わず業務をこなすようになるだろうなとも思います。人間関係が良好な職場ですし、業務をこなしながらも見つけられる幸せはあるだろうなとも思います。
しかし、意を決してここを離れるという選択をした場合、どんな選択肢があるのか、というのも気になります。

これに対し、恩師の返事は端的に言うと、「気持ちは痛いほどわかるがまだ早い、もう少し粘れ、今しかできないことがある」とのこと。
当時、貯金もなく、コロナ禍で夫の仕事がなくなってしまっていたので、確かに後先考えずにすぐに辞めるのは現実的に無理でした。

セカンドオピニオンとして、大阪で助産院を開業している助産師、片山由美先生に夫と二人で会いに行くことにしました。私が勝手に「大阪の師匠」と呼んでいる人物です。

助産院というのは、魔女みたいなおばあさんが代々伝わる秘薬や怪しいマッサージでもってお産を助ける場所、ではなく、ガイドラインでもって定められた設備と技術で助産師が正常なお産を介助する施設です。
医師がいなくて危険なのではないか、と思われるかもしれませんが、NICEという国際的なガイドラインでは、ローリスクの出産に関して、むしろ助産院での出産は推奨されています

ユーカリの葉がそよぐおしゃれな助産院を訪れ、暑い日だけど熱いお茶を飲みながら、由美先生に、「どこ行きたいの?」と聞かれたとき、ふと出てきた本音。

「オランダ行きたいんです」

オランダではお産に占める自宅出産の割合が全体の15%程度。日本を含む他の先進国は0~2%ほどなので、かなり特徴的な統計です。
自宅出産を実際に見たことはありませんが、私の中では病院でのお産が「お客さんとして来た産婦さんの出産」だとしたら、家でのお産は「家の主である産婦さんの出産」なのかな、というイメージがありました。
オランダ人は、どんなつもりで自宅出産をしているのだろう…。オランダの助産師ってどんな感じだろう…。数字や管理がすべてじゃないお産が、そこには広がっているのではないか…。行って見てみたい…。
心の片隅でそう思っていたけれど、言語化できていなかったのが、師匠に語っているうちにポロポロとでてきました。でも、そんな挑戦、私には難しい、どうしたらいいのかわからない、そんな素直な気持ちも。

「あなたは、枠を作るのが好きだし、枠の中が居心地いいタイプかもしれない。その枠を壊す必要はなくて、自分の入ってる枠をオランダまで広げればいいんですよ。

私は、人や自分が作ったマニュアルに従い、定められた枠の中でないと不安な性質です。いきなり仕事辞めて海外に行って暮らす、なんて破天荒なことできないタイプなのですが、そこまでしっかり見抜いたのが師匠のすごいところです。

帰り道の新幹線の中、自分の枠をオランダまで広げる方法について調べました。時はコロナ禍。海外に行くこと自体がまだ少し難しいとき。

存在論的転回との出会いで、頭の中が風穴だらけになる

オランダに行ける方法として、一番心惹かれたのは、大学院留学。
オランダでは、数多くの英語で教える修士課程があり、その中で興味のあるコースに行ってみようか、と考えました。
奨学金とかもらえれば、貯金があまりなくても行けそうだし。

助産学や看護学はオランダ語の修士課程しかなく、今からオランダ語を勉強して通うのは難しそうです。
オランダ中の大学院を一気に調べられるウェブサイトを使って、健康や医学に関する講座を調べてみると、これが目に留まりました。

アムステルダム大学の医療人類学および社会学専攻です。
医療現場での2か月間のフィールドワークをもとに質的な研究をするとのこと。
学生時代にベナー「現象学的人間論と看護」という本が難しくも面白かった記憶が残っていて、なんとなく質的研究というものにあこがれる気持ちがありました。
そして、社会学の授業で聞きかじった「エスノグラフィ」という言葉の響きが素敵だなと思っていました。
(あと、学部時代のゼミの教授が急に「時代はエスノです」と言い出したので、エスノってなんですか?と聞いたら微妙にはぐらかされた思い出…!)

いいじゃん、面白そうじゃん、医療人類学!
フィールドワーク、してみたいじゃん!
エスノグラフィ、書きましたって言ってみたいじゃん!
なにより、数字や統計ではない形で医療を研究する術を身につけてみたい。

医療人類学はどうやら、文化人類学の一部らしい。
以前からサルから人への進化に興味があって、NHKの番組とか熱心に見てたけど、それは生態人類学といって、ちょっと違うらしい。
河童好きが高じて岩手県遠野市の河童渕を訪れたことがあったけど、民俗学と文化人類学もまた、違うものらしい。

そして、医療職の人は文化人類学や社会学の単位をそれなりに取らないとアムステルダム大学には入れません。
学部時代に社会学の授業はとっていましたが、文化人類学は触れたことがなかったので、放送大学で単位を取ってみることにしました。

放送大学で受講した授業の一つがこちら。

人類がもつ文化に焦点をあてながら、専門科目としての文化人類学の基本的知識を講義します。社会に閉塞感や生きづらさが漂う今日の世界は様々な限界に直面しており、様々な領域で根源的な転換を構想することが求められています。この講義では、グローバル化とともに、人類と地球をはじめとする様々な二元論が地球規模で揺らぎつつある時代を「人新世」時代としてとらえ、自然と文化、自文化と他文化、心と身体、人間と非人間、真実と虚構等の様々な二元論が融解しつつある地球社会の現状に応じたトピックを取り上げます。とりわけ人類が直面する地球規模の現代的課題に対して人類学の視点から考察することの意義を解き明かすことに重点を置きます。

「人新世」時代の文化人類学 講座概要

この授業は、とにかく、すごかった。
自分の価値観や違和感を振り返り、今まで当たり前としてきたことへの内省を訴えかける内容でした。自分がこれまで感じていた、日本社会の歯車として生きることの辛さ、蛇男とともに働くことの拒絶感がすべて肯定されたように思いました。生活の中の愚痴ではなく、学問としての近代批判の言語を学びました。

人々のすべてが例外なく、「文化」を持つ民族というカテゴリーに割り振られ、その民族というカテゴリーに自己同一化し、その均質な「文化」を自己が進んで従うべき規範として一律に内化することによって、そのカテゴリーから逸脱することを自らに禁じてくれれば、人々を支配して管理するのに都合がよい。そして、あらゆる人間が一つの「文化」をもつ一つの民族にだけ帰属することをあたかも人間の本性であるかのように「自然化」し、その民族だけが人間を分類するための唯一のカテゴリーであるとしたうえで、その民族を分類するための基準である「文化」が、人間性や生命など、その「文化」よりも上位にあってそれを包摂する普遍的な基準から一義的に導き出されたかのように「自然化」されれば、もはや支配と管理は完璧である。

「人新世」時代の文化人類学 第4章より

医療という「文化」が、人をコントロールする構図について、この説明があまりにもピッタリで、苦しくなって受講中に泣いてしまうほどでした。
この、民族と「文化」へのアイデンティティに基づいた近代的な人間管理のことを「同一性の政治」というそうです。
今日のあらゆる制度に組み込まれている「同一性の差異の圧殺」、すなわち数値化や一般化によって世界を一律な定義で画一的に把握して操作、管理しようとする近代科学技術や資本主義の市場経済、そしてそれらを支える自然/人間の二元論的なものの見方を見直すことが新しい人類学だというのです。

この二元論では、宇宙全体を一望のもとに見渡す視点から宇宙を「自然」と「社会」に分割して純化するために、科学によって人間とは独立した自然の真理である自然法則を明らかにし、自然とは独立した理性に基づく政治によって理想的な社会を築くことが「進歩」として目指される。この進歩の名のもとに、科学によって明らかにされる自然法則と政治によって作られる社会の法という単一の基準に従って、人間と非人間が次々と結び付けられながらネットワークに取り込まれ、自然法則と社会の法という単一の基準のもとに管理・統治される。

「人新世」時代の文化人類学 第4章より


そして、同一性の圧力に押さえつけられ泣いている私の視野に、大きな風穴を開けたのが、「存在論的転回」でした。

自己とは異質な他者との対話を始めるにあたっては、「自然/人間」の二元論的な世界を目指すという近代の存在論を一旦は保留し、何よりもまず、他者がどのような世界を目指しているのかという他者の存在論を理解し、その存在論の正当性を認めるところから始めねばならないだろう。その上で、あくまでもその存在論に即して、その存在論を実現するための実践や生活習慣はもとより、それらによって世界を物理的に生成しつつ意味づけるやり方、つまり、他者の生き方としての文化を理解することが肝要になる。これこそ、21世紀になって人類学に登場した「存在論的転回」と呼ばれる動向である。

「人新世」時代の文化人類学 第4章より

他者がどのような世界を目指しているかという他者の存在論、これのすごいところは、科学などの「近代の存在論」も、それと全く異なった考え方を持つ者の「存在論」も、同様に真面目に取り上げる、ことです。存在論同士が対等な立場にあるということ、一つの真理に対して多様な解釈があるという考え方ではないこと、世界の生成の在り方がそれぞれにあるという前提があること。科学が唯一の正解として人間や世界を一つずつ定義している、あらゆる文化や現象もその真意は科学で説明がつく、そう妄信していた私の見ていた宇宙は、数ある宇宙の一つに過ぎなかったんだ…。

「ハリー・ポッター」シリーズでは、非魔法社会(マグル)と魔法社会が共存していますが、それぞれの社会を行き来せざるを得ないマグル出身の魔法使いは、定期的に二つの宇宙を行き来し、それぞれを真面目に取り上げて生きているのではないかと想像します。
映画「エブリシング エブリウェア オール・アット・ワンス」では、主人公がマルチバースの中で宇宙から宇宙へ移る術を身につけます。そこでは、それぞれの宇宙が同列に存在し、ゆるやかにつながりあっていることがよくわかります。
私が受け取った「存在論的転回」の考え方は、ある種それに近いあり方だと思っています。自分の宇宙を離れて他者の宇宙にたどり着くだけでなく、自分の宇宙と他者の宇宙を見比べたり、宇宙同士の相互作用とゆらぎについて考えることができる、思考回路の発明だと思うのです。それは、けっして、透明な理性をもった主体が偉そうにほかの宇宙を評価する、というのとは違った態度なのです。

磯野真帆「他者と生きる」と過ごした夏

放送大学の授業を通して、すっかり文化人類学にとりつかれた私は、ティム・インゴルド「人類学とはなにか」や「Lexicon 現代人類学」といった専門的な入門書と思われる本に手を出し始めます。放送大学の教科書みたいに懇切丁寧な感じで書かれているわけではないですが、分かる部分だけでも拾い集める日々。そんな中で、文化人類学の旅の出発点であった医療人類学に戻ってくるきっかけだったのが、磯野真帆さんの新書でした。

医療人類学者の磯野真帆さんの著作については、まだ蛇男と出会う前、何度か摂食障害の患者さんを受け持ったのをきっかけに、『なぜふつうに食べられないのか: 拒食と過食の文化人類学』を読んだことがありました。摂食障害患者さんのインタビューを通して、医療人類学の視点から考察する内容です。しかし、実はその時は、あまりピンとこなかったのです。正直、文章がうまくて読み物として面白いけど、病棟で活用するには具体的な例と抽象的な議論が多すぎる、なんて思っていました(恥ずかしながら)。でも、支援者向けの解説書、ヤングアダルト向けの入門書を読んでも、結局のところ摂食障害って何なのかよくわからない中、唯一、当事者に見えている世界を真剣に検討している本として印象に残っていました。

そんな読書体験があったことも忘れていた2022年夏。とうとう「他者と生きる」を手に取りました。
読み始めたらドキドキが止まらず、ページをめくる手も止まらず、一気に読みつつ、要所要所で思わず「ふぁ~~!」「ふぉ~~!」「ひぇ~~!」と奇声を発してしまうほどに、心にずしずしと突き刺さる本でした。
響いた箇所が多すぎて、たくさん引用したくなってしまいますが、ネタバレ(?)せず、初めて読む感動を味わえたらいいなと思う本なので、あえて公式の紹介文のみにとどめます。

生の手ざわりを求めて――。
“正しさ”は病いを治せるか?
“自分らしさ”はあなたを救うか?

不調の始まる前から病気の事前予測を可能にし、予防的介入に価値を与える統計学的人間観
「自分らしさ」礼賛の素地となる個人主義的人間観

現代を特徴づける一見有用なこの二つの人間観は、裏で手を携えながら、関係を持つことではじめて生まれる自他の感覚、すなわち「生の手ざわり」から私たちを遠ざける。

病いを抱える人々と医療者への聞き取り、臨床の参与観察、人類学の知見をもとに、今を捉えるための三つ目の人間観として関係論的人間観を加えた。
現代社会を生きる人間のあり方を根源から問う一冊。

『他者と生きる リスク・病い・死をめぐる人類学』紹介文

文化人類学、という新しい学問は私の頭に風穴を開けつつ、その穴が私が医療現場に抱いているモヤモヤと具体的にどのように接続するのか、ぼんやりしたイメージしかありませんでした。しかし、数字を信奉する統計学的人間観、命を懸けて命を守るような個人主義的人間観という、医療が人に圧力をかけるときに見られる倫理観に隠れていたものたち、そして3つ目の関係論的人間観という説明のおかげでだいぶ整理されました。他者と生きる、という、ごくシンプルで見飛ばしてしまいそうなタイトルですが、実にこの本の核心が、数字や個人だけでは表現しきれない、だれかと生きて「関係」のある存在としての人間、そして時間なのです。

お産する人、生まれる人、医師、助産師、それぞれの存在を個人やカテゴリーとして文脈や関係性から切り離して別個に分析しているうちは、どうしても限界があるのだと気づきました。「○○が何よりもベストである」と断定するのでなく、複雑なものを複雑なまま素直に受け止めることが、今抱えているもやもやに対して私がこれからしていくべきことなのかもしれない。そしてそれが私が人類学に出会うべき理由だったのかもしれない、そう思いました。
偶然から始まった人類学の学びは、いつしか必然として私の生活になじみ始めていました。

この本を何度も読み返し、だれかに「医療人類学って、今までやってきた看護学とどう違うの」「なんで医療人類学がいいの」と聞かれたときに、必殺技としてこの3つの人間観の話をするようになりました

その後、関係論的人間観が人類学にとっていかに重要な前提であるか痛感したのは、医療人類学者のアネマリー・モル教授が自分自身について語るインタビュー動画を見た時です。
冒頭で、「私は関係性の中で生きているから、私について知りたいなら、こうして1対1で個人に話を聞くのは違うと思う。ま、あなたたちがそうしたいなら、とりあえず乗るけど(意訳)」と話しています。

えええ、ここまで徹底してるの~と思いつつ、それくらい徹底していないと、関係論的人間観に立ってフィールドワークをすることはできないのかなと思ったり。そして、自分語りが上手なモル教授のトークは、結構面白いので冒頭だけでなく本編もおすすめの動画です。

ちなみに、このモル教授は、存在論的転回を医療人類学に応用した研究者として有名です。
フェミニストでもある彼女が書いた、「女とは何か?」という論文は、医学がとらえる「女性」というものが、解剖学か、精神分析か、生理学かによって異なり、さらにそれぞれの見方がどのように関係しあっているかについて考察しています。自分を女性の医学の専門家のひとりと思っていましたが、そんな考え方は一度もしたことがなく、目からうろこでした。女とは、病気とは、身体とは、なんだろうか、医学が説明していることの中にいてすべてを当たり前と思っているところから、とりあず一歩外に出たような気持ちです。

これからのこと:修士課程の1年間、メンバーシップをやります

この秋から、とうとう医療人類学の大学院生です。働き始めたときは「妊活する」予定だった年ですが、人類学に出会ってしまったので私の向かう道は大きく変わりました。私の人生を変えた学問に入門できる喜びで、胸がいっぱいです。
不安もあります。人類学のこと、正直あまりよく知らない。フィールドワークという手法、まだ具体的にピンと来てない。ときめきとイメージでここまで来てしまったかもしれない。でも、なんとか食らいついて、私がこれまで抱えてきた医療についてのモヤモヤを語り切れる言葉を得よう。私がこれから口ごもらずに言いたいことを言えるような、しなやかで強い軸を作ろう。そういう気持ちでおります。

さて、最後まで読んでくれた方に広告をすることになってしまって申し訳ないですが、ひとつだけお知らせさせてください。

このたび、期間限定で、noteのメンバーシップのシステムを使ってみることにしました!

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4年間務めた総合病院の助産師を辞め、 アムステルダム大学の医療人類学および社会学専攻の修士課程で過ごす1年間、 授業を受けて学んだこと、考えたこと、フィールドワークの進捗報告など、 時に饒舌に、時に繊細さをもって、ニュースレターをお送りします。

■こんな方へ
現場に対してモヤモヤを抱えている医療関係者、 医療人類学に興味があるけど勉強のきっかけがわからない方、 海外大学院での勉強や生活に興味がある方にお勧めです。

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今回の記事を読んで、面白そうかな、と思っていただけたら、ぜひ、こちらにご登録いただけると嬉しいです。
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ちなみに…8月は、こんな内容を想定しています。
・オランダにある3つの人類学系ミュージアム(熱帯博物館、アフリカ博物館、国立民族学博物館)訪問レポート
・妊娠や出産の人類学・社会学に関連したブックレビュー

はじめてメンバーシップというサービスを利用するので、不手際もあるかもしれませんが、真心を込めて記事をお送りしますので、お楽しみに!

さらに、メンバー限定の掲示板もございますので、ご質問や、ご意見があれば、一緒に議論できればと思います。

無料のnoteも、時々は投稿を続けようと思います。
またどこかでお目にかかれるよう、頑張ります。
では!

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