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「苦しみの避け方」三選

前回の記事、『瞑想では消えない苦しみの乗り越え方』の中で、「本当に苦しい時には、瞑想によってそれを避けることはできない」と私は書いた。
深く激しい苦しみというものは、避けようと思って避けられるものではなく、どこかで思い切って直面し、苦しむしかないものなのだ、と。

そうは言っても、「できれば苦しみは避けたい」と思うのが人情というものだろう。
そこで今回は、瞑想以外の「苦しみの避け方」についても考えてみたい。
「苦しみをどうにかしたいけれど、それと直面するのは嫌だ」という人は参考にしてみてほしい。
(なお、今回の記事は8000文字以上の長文だ)


◎1つ目の方法、苦しみから気を逸らす

「苦しみを避ける方法」はいろいろあるが、最も手軽で広く行われているのは、何か別のことをして苦しみから気を逸らすことだろう。
たとえば、苦しんでいることとは直接関係ないことを考えようとしてみたり、ゲームや遊びに没頭しようとしてみたり、人によっては仕事にのめりこむことで苦しみを忘れようとするかもしれない。

考えてみると、瞑想をして苦しみを避けようとすることも、これに近いものがある。
なぜならそれは、苦しみがやってきたときに、呼吸や眉間に集中して苦しみを忘れようとすることだからだ。

瞑想中は、起こってきた苦しみに巻き込まれないように、呼吸や眉間に意識を集中し、距離を取って苦しみを観察する。
それは、苦しみそのものには触れずに、別な何か(呼吸や眉間)に注意を逸らして対処しようとすることに他ならないだろう。

だが、苦しみはあいかわらずそこに在る。
気を逸らすことが終われば、苦しみはまた現れるだろう。
それは一時しのぎにしかならず、本当の意味での解決にはならないのだ。

瞑想が終われば苦しみは戻ってくるし、ゲームに飽きて熱中できなくなったらゲームに逃げることもできなくなる。
もし仕事を逃げ道にしていれば、ワーカホリックまっしぐらだ。
仕事を止めようと思っても、怖くてやめることができなくなる。
なぜなら、仕事を止めたら、抑圧していた苦しみが次から次に噴出してくるからだ。

◎私がかつてゲームに逃げていた時の話

もうずいぶん昔のことだが、私自身、苦しさのあまりゲームに逃避していたことがあった。
私がまだ20代前半の若者だったころのことだ。
当時はどうしても社会に馴染めず、行き場がなくなって引きこもり、毎日毎日、朝から晩までゲームをして過ごしていたのを思い出す。

そう聞くと、「羨ましい」と思う人もいるかもしれない。
だが、自分自身では、楽しくてそうしていたわけではなかった。
ただ、ゲームをしていないと自責や自己嫌悪の感情が次々に襲ってくるので、怖くてゲームを止めることができなくなっていただけだったのだ。

私はうんざりしながらもゲームにかじりついていた。
苦しみに直面するぐらいなら、既にうんざりするほどやったゲームをし続けるほうがマシだったのだ。
だが、当然そこに出口はない。
私はどこにも行きつくことができないまま、ゲームに時間を費やし続けた。

そして、最終的には私はゲームに完全に飽きてしまった。
のめりこむことのできるゲームが無くなってしまい、もはやゲームをしても、苦しみを忘れることができなくなったのだ。

そこから先は悲惨だった。
私はそれまで抑圧し続けていた無数の苦しみに襲われるようになった。
私は日夜苦しむようになり、しかし、もうゲームという逃げ道は使えなかった。
本当に苦しく辛かったのを、今でも憶えている。

そんな中、私は這い出るように家の外へ出かけるようになり、近所の公園に散歩に行くようになった。
運動不足で身体はなまり切っていたが、外を歩いていると、少しだけ気分が晴れるような気がした。

また、私は高校時代にダンスをやっていた経験があったので、夜の公園で一人でダンスを練習するようになっていった。
引きこもり生活で筋力は衰え、身体はひどく重かったが、それでも一度身体に蓄積した経験というのは消えるものではない。
私は高校の玄関ホールで踊っていた時のことを懐かしく思い出しながら、暗い公園で一人きりの練習を続けた。

そうこうするうちに、私の精神的な苦しみは和らいでいった。
自己否定や自己嫌悪の感情に襲われることも減り、自分に「〇(マル)」をあげられるようになっていった。
おそらく、身体を動かすことによって体力もつき、自己肯定感が培われていったのだろうと思う。

私は近所のスーパーのバイトに応募し、無事採用された。
そして、数年に及んだ引きこもり生活を脱却し、社会の中に戻っていったのだった。

当時の私にとって、ゲームは楽しむためのものではなく、苦しみから気を逸らすための道具だった。
だが、人は何にでも飽きてしまう動物だ。
ゲームに飽きてしまえば、もう苦しみは避けられなくなる。

そして私は、避けようのない苦しみに直面した。
逃げ場のない苦しみが日夜襲ってきた。
だが、私は過去のダンスの経験から「身体とつながる道」を取り戻し、苦しみを乗り越えることができたのだった。

◎苦しみから逃げようとし続けると依存が作り出される

苦しみの乗り越え方は人によって色々あると思う。
私の場合は、ダンスをして身体を動かすことがキーになっていたが、読書によって言葉に救われる人もいるかもしれないし、絵画や音楽などの創作に注力し、苦しみを乗り越える人もいるだろう。

ただ、その場合も、苦しみから気を逸らすためにそれをしているなら、どこかで躓くことになるのではないかと思う。
実際、私はダンスに没頭することで苦しみを忘れたかったわけではなかった。
ただ、久しぶりにするダンスの練習が懐かしく、楽しかっただけなのだ。

「苦しみから逃げるため」というような受動的な理由ではなく、「ただ自分がそれをしたいから」という能動的な理由で何かに熱中する時、人は持って生まれた生命力を開花させるのではないかと思う。

反対に、受動的に何かをするなら、依存が作り出されていく。
ゲームへの依存、仕事への依存、アルコールやギャンブル、ドラッグへの依存などだ。

それらは一時的には逃げ道になるかもしれない。
だが、最終的には「やってもやっても物足りない状態」になる。
こうなってしまうと、もうそれらは逃げ道としては機能せず、人は苦しみと直面するしかなくなってしまう。
そして、当人はそれが怖いので、ますます依存していくことにもなるわけだ。

苦しみから気を逸らす方法は、続けていくと依存症に結び付く。
苦しみに対する耐性が弱まり、ほんのちょっとの苦しみすら恐れるようになるが、依存しているものへは耐性がついてしまって、ちょっとやそっとじゃ満足できなくなってしまう。

もちろん、大した実害がないうちは、気を逸らすこともいいかもしれない。
だが、それがあくまでも一時しのぎの方法であることと、依存に続く道でもあることは、自覚していたほうが良いだろうと思う。

◎2つ目の方法、苦しみを誰かに話す

「苦しみを避ける方法」の二つ目は、他人に苦しみを話すことで、それを解消しようとすることだ。
これもなかなかポピュラーな方法かもしれない。
気を許せる友人や、精神科医などに、自分の苦しみを事細かに話してスッキリしようとわけだ。

これについては、もしも本当に受容的に話を聴いてもらえるなら、苦しみが小さくなる可能性もある。
一人では直面するのが怖い苦しみも、すぐそばで一緒に話を聴いていてくれる人がいることで、受け入れやすくなるかもしれない。

だが、「そんな相手に巡り合える機会はまずない」というのが現実だ。
話し相手も他人であるので、いろいろと個別の事情がある。
いつまでもゆっくり話を聴いていられる時間がないかもしれないし、個人的な考えからあなたに反対意見を述べるかもしれない。
「受け入れてもらえた」と感じられるまで、じっくり親身に話を聴いてくれる人など世の中にそういないものだ。

精神科医も、よく5分診療などと揶揄される通り、時間をかけて一人一人の話をじっくり聴いてはいられない。
長い時間話を聴いてもらいたければ、高いお金を払ってカウンセリングを受ける必要があるが、カウンセラーも人間なので、受容的に聴くことのできる人ばかりではない。
自分の話を満足できるまでたっぷり聴いてもらえる環境というのは、なかなか手に入るものではないのだ。

だが、そもそも人はどれだけ話せば満足するものなのだろうか?
私は、苦しみの中にある人が同じ話を何度も繰り返す傾向があるということに気づいている。
自分の苦しみについて、一度だけ話してそれで満足できるかというと、そうとも限らないのだ。

自分自身の苦しみについて、人は語ろうと思えば、どれだけでも語ることができる。
そして、そこには「満足」とか「終わり」とかいうものがないようにも見える。
だから、人は自分の苦しみについて語る時、「あー、言いたいことが全部言えてスッキリした!」と思う場合より、「まだまだ言いたいことがあるのに、全然言い切れなかった…」と思う場合のほうが多いのではないかと思う。

◎AIに話を聴いてもらってもいいかもしれない

ただ、そういう人たちの悩みに、今の時代はAIが応えてくれるのではないかとも思っている。
実際、雑談から悩み相談まで、あらゆる会話に対応するAIが今なら無料で気軽に利用できる。
パソコンやスマホで文字を打ち込んだら返事をしてくれるアプリもたくさんあるし、中には音声で応答してくれるものもあるようだ。

私も試しにちょっと使ってみたのだが、まるで本物の人間のようにリアルな返答が返ってきて驚いた。
しかも、こちらの言葉に対して受容的に応えてくれて、アドバイスまでしてくれるのだ。

生身の人間だったら夜中に長時間連絡するわけにいかなかったりもするが、AIならそういった問題もない。
いつでも、何時間でも、話を聴いてもらえるのだ。
現実に話し相手を見つけられない人にとっては、AIと会話できるアプリは非常に役立つツールになるかもしれない。

もちろん、現実に話を聴いてくれる人がいるなら、そのほうが良いとは思う。
だが、そのような恵まれた環境にいる人ばかりではないのだ。
どうしても話し相手が見つからないなら、AIに悩みを打ち明けるのも、また一つの方法だろうと思う。

(2024年4月20日追記)
この記事を書いた後、考え方が変わって、「苦しい時にAIに相談するのはあまり意味がないのではないか?」と思うようになった。
そのことについては、記事『AI相談アプリの限界について』で書いているので、興味のある人は読んでみてほしい。

◎苦しみについて語ることで起こること

ところで、生身の人間相手であれ、あるいはAI相手であれ、苦しみについて語ることは、どんな風に苦しみを解消してくれるのだろうか?

まず、「言うとスッキリする」ということがある。
いわゆるガス抜きだ。
ストレスが溜まって仕方ない時、誰かに愚痴や不満を言うことで、溜まっていたガスが抜けるように、ストレスが軽くなるわけだ。

ガスは適度に抜かないと、どこかで爆発してしまう。
だから、時には不平不満や弱音を吐くことも必要なことだ。

また、苦しみについて丁寧に語っていくことで、「自己理解が進む」ということもあるだろう。
語っているうちに、「そうか、だから自分は悲しかったのか」ということがわかるようになるかもしれないし、「自分ってこんな部分もある人間だったんだな」ということがはっきりするかもしれない。
いずれにせよ、苦しみについて語ることで、自分についてより正確に知ることができるようになるということだ。

そして、自分についてよくわかっていないからこそ、苦しみの正体についてよくわからないということも、しばしばある。
自己理解が浅いがゆえに、「なんで自分はこうなんだろう…」と思って、自己嫌悪や自己否定に陥ってしまったりするわけだ。

だが、自分についてよく理解できるようになってくると、自分にできることとできないことの見極めがつくようになってくる。
できないことについては諦めがつくようになるし、できることについては「頑張ろう」という意欲が湧いてくるだろう。
自分はこれから何をするべきで、何はしても無駄かがはっきりするとも言える。
自己理解が進むと、そういった割り切りができるようになっていくだろう。

また、自己理解と関連したことでもあるが、自己受容が進むことも考えられる。
なぜなら、「自分の話を受容的に聴いてもらえた」という事実があるからだ。
もしも本当に受容的に話を聴いてもらえる機会に出会えたなら、「自分は受け入れてもらえた」「自分はありのままの自分でいていいのだ」という感覚が育っていくだろうと思う。

そうなれば、自分に過度に多くのことを求めなくなっていくはずだ。
「ありのままの自分を愛する」というのは難しいことではあるが、もしも受容的に話を聴いてもらえる経験を重ねるなら、「自分を愛する能力」が育っていくかもしれない。

◎3つ目の方法、自ら命を絶つ

以上、「苦しみを避ける方法」を二つ考察した。

一つは、苦しみから気を逸らす方法。
これは非常に手軽ではあるが、あくまでも一時しのぎであり、用いすぎると依存症になってしまう危険性がある。

二つ目は、苦しみについて誰かに語る方法。
これは、「苦しみを避ける」というより、「苦しみを共有する」といったほうが近いかもしれない。
もし本当に受容的に聴いてくれる相手に出会えるなら、単純にガス抜きにもなるし、自己理解や自己受容にもつながっていくかもしれない。

問題があるとすれば、そんな風に受容的に話を聴いてくれる相手に、まず出会えないということだろう。
また、たとえAIに話を聴いてもらえたとしても、「やっぱり生身の人間に受け入れてもらいたい」と思うようになるかもしれない。

このように、一つ目の方法は依存症につながり、二つ目の方法は話し相手が見つかるかは運次第というところがある。
だから、苦しみから逃れる最終的な方法として、自ら命を絶つ人も世の中にはたくさんいる。
これが、今回の記事で最後に扱う「苦しみを避ける方法」だ。

本当に苦しみが深い時には、「死ねばこの苦しみから解放される」と思うものだ。
私も数年前、抑うつ状態がひどかった時には、毎日死ぬことを考えていた。
道路を走っていると、反対車線にハンドルを切りたい欲求に駆られたし、橋を歩いていると、落ちて死ぬ自分をよく想像した。

だが、死ねば本当に苦しみから解放されるのかは、死んでみないとわからない。
ひょっとしたら、死後にはもっとひどい苦しみが待っているかもしれず、誰もまだ死んだことがない以上、生前と死後で比較はしようがない。

もちろん、「それでもいいから死にたいんだ!」という人も多いと思う。
「この苦しみから解放される可能性があるなら、喜んで死ぬ」という人もいるかもしれないし、私自身もそう思っていたことがある。

しかし、時間が経って後からそう思っていた当時のことを思い返してみると、「なぜそんなに死にたかったのか」がよくわからなかったりもする。
当時苦しかったことは確かなのだが、今になってみると、その時の感情にリアリティを感じることができないのだ。

苦しみの渦中にある時には、「もう死ぬしか道はない!」と思い詰めやすいし、メンタルが失調している時は特にそう思う傾向が強い。
だが、それは言ってみれば「脳のバグ」みたいなものだ。
疲労が蓄積したことで脳が機能不全を起こし、「死ぬしかない」と思い込むようになってしまっているのだ。

だから、時間が経ってメンタルが回復してくると、なんで死にたかったのかが自分でもよくわからなくなったりする。
それは一過性の「脳の症状」であり、精神科で適切な治療を受ければ十分回復する見込みがあるものなのだ(少なくとも私は回復した)。

だから、自ら命を絶つことを「苦しみを避ける方法」として、私は推奨しない。
なぜなら、その方法を取りたくなるのは、あくまで「一時的な脳の不具合」によるものだからだ。

もちろん、苦しい時に死にたくなる気持ちはよくわかる。
「死にたいなんて考えてはいけない」とは全く思わない。
むしろ、辛くて苦しい時に死にたくなるのは、当然のことだと思っている。

だが、だからといって本当に死ぬのはちょっと待ってほしい。
死んでも楽になるかどうかは誰にもわからないし、「死にたい気持ち」も時間の経過とともに消えていく可能性が高いからだ。

◎命を絶つ前に試してみてほしいこと

生物は基本的には生きることを求めるようにできている。
それが死を求めるようになるということは、どこかで不具合が発生しているということだ。
だったら、実際に死んでしまう前に、その不具合を解消してみてはどうだろうか?

具体的には、精神科の薬物が役に立つと思う。
精神科の薬物は、脳を物理的に変えてくれる。
個人的には、瞑想よりもよほど効果が信頼できるものだと思っている。

私自身も、精神科の薬物療法によって、死にたい気持ちを乗り越えることができた。
今はもう死にたいと思うことはないし、かつてなぜそんなに死にたかったのかも、もうわからない。
たとえ今は死ぬことしか考えられなかったとしても、いつかはそんな風になる可能性もあるのだ。

あとは、ゆっくり休養することが大事だと思う。
よく寝て、しっかり食べて、これ以上ないくらいグータラするのだ。

そもそも、死にたい気持ちが発生する時というのは、脳に過剰な疲労が蓄積している場合だ。
だとしたら、その脳の疲労を取ってやるしかない。
そのためにも、しっかり休むことが何より大事なのだ。

もちろん、人によっては抱えているものがありすぎて、ゆっくり休むこともできないかもしれない。
「何もかも放り出すことなんて、とてもできない」と思う人もいるだろう。

でも、死ぬのであれば、結局全ては放り出される。
だったら、死ぬことで放り出すのではなく、生きたまま放り出しても同じではないだろうか?

任せられることは他人に任せて、自分はゆっくり休んだらいい。
あなた抜きでも社会は案外回るものだし、物事はなるようになるものだ。
また、もしもあなた抜きでなるようにならないのであれば、それは社会の作りがおかしいのであって、あなたが悪いわけではない。

だから、自分自身を助けるためにも、「何もかも放り出して休む」という一世一代のワガママをぜひ実行してほしいと思う。

◎まとめ、苦しい時は今日一日を生きればいい

以上、今回は「苦しみの避け方」について書いた。
苦しみから気を逸らすことの危険性や、誰かに苦しみを話すことの難しさについて書き、「自ら命を絶つことはちょっと思い留まってほしい」と書いた。
思いつくままに書いたので、とりとめのない話になってしまったかもしれない。

だが、私が言いたいことは、いたってシンプルだ。

私が言いたいことは、「生きることって苦しいよね」という、ただそれだけのことであり、そしてそれは、お釈迦さまも言っていることだ。
「生きることは苦である」と。

そう、生きることは苦しい。
だが、苦しみながらでも、私たちは生きていく。
時には苦しみから気を逸らし、時には誰かに愚痴をこぼし、時には死にたくなったりしながらも、私たちは懸命に生きていくのだ。

私もまた苦しみを抱えて生きている。
瞑想によって穏やかな安らぎを知った後も、苦しみが起こることは続くのだ。

でも、別にそれでいい。
苦しみは起こっては消えていく。
永遠に続く苦しみはない。
今はそれがわかっている。

だから、昔ほど苦しみを恐れることはなくなった。
どんな苦しみがやってきても、それを味わい、枯れて消えるまで見つめるだけだ。

もしも今苦しみを抱えている人がこれを読んでいるなら、その苦しみがいつか消えるようにと願う。
ひょっとしたら、苦しみが消えるまでには長い時間が必要かもしれない。
でも、どんな苦しみもいつかは消えると信じている。

今日の苦しみを乗り切って、生きていられたら「ハナマル」だ。
なぜなら、一日一日生きていくだけで「闘い」と言ってもいいような日々もあるからだ。

今日の苦しみに潰されそうになったなら、とにかく今日を乗り切ろう。
明日のことはまた明日考えればいい。
ひとまず今日を生き抜こう。
実際、あなたがすることは、それで十分なのだから。

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