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心を失わずに生きたい

私はこれまで、様々な挫折や失敗を経験してきた。
引きこもって学校に行けなくなったこともあるし、仕事に行けなくなって辞めたことだってたくさんある。
生きていくためのお金を失って、生活保護を受給していたこともあった。

でも、今の私は仕事にも行けているし、稼いだお金で生活もできている。
もちろん、そんなにたくさんは稼げないが、いちおう経済的には自立できているのだ。

昔の自分からすると、今の自分はとても素晴らしい場所に到達したように見えるだろう。
学校にも職場にも馴染めず、まともに生きていけなかった自分が、社会の中に居場所を見つけられたのだから。

だが、私は今の自分が「大切な何か」を無くしてしまっているようにも感じている。
私は長い時間をかけて社会に適合してきたわけだが、それと同時に、「自分らしさ」を失ってしまったような気もするのだ。

過去の私は、どんな場所にも適合しなかった。
誰ともうまくやっていくことができず、どこに行っても馴染めなかった。

だから当然、生きることは私にとって常に苦しみだった。
心休まる居場所はなく、あらゆる場所から私は逃げ続けた。

そもそも「適合する」というのは、「自分の形を環境に合うように無理やり曲げる」ということだ。
かつての私はそれができなかった。
私は「自分を曲げること」を断固として拒否し、その結果、いつも調子を崩していたのだ。

学校に行こうとすると身体が言うことを聞かなくなり、仕事を続けようとすると吐き気がしてきて止まらなかった。
生きづらさをいつも感じていたし、自分の人生に絶望していた。

だが、過去の私と違って「何の問題もなく適合できる人」というのは、こうした心の病にはならない。
彼らは、敷かれたレールの上をただ移動していくことに違和感を覚えず、「みんなと同じ」であることによって安心するからだ。

反対に、「適合できない人」は、何かというと心を病む。
そういう人たちは、敷かれたレールの上を黙って走ることができず、「みんなと同じ」だと気持ち悪くなってしまう。
だがそれは、その人が無能だからそうなるではなく、むしろ鋭い感性を持ち、批判的に物事を考える力があるからこそ、そうなるのだ。

私の敬愛する精神療法家・泉谷閑示先生は、こう言っている。

「鬱になる人はセンスがある」と。

センスのない人(適合できる人)は心を病んだりしない。
逆に「適合できない人」の多くは人生のどこかで心を病むが、それは彼らが無能だからではない。
むしろ、才能があるから行き詰っているのだ。

「病気はネガティブなものであり、一刻も早く除去すべきだ」と考える人がほとんどだが、それは物の見方が浅すぎる。
病気は「悪者」などではなくて、「自分らしく生きたい」という心の叫びなのだ。

全ての人を同じ規格で統一し、適合できない人間は排除する社会。
それは、自分らしく生きることが許されない社会だ。

今、日本にたくさんの精神疾患の患者がいるのは、この国がそういう社会だからではないだろうか?
今の日本社会は、誰もかれもを「普通」という牢獄に入れて閉じ込めようとする。
「普通」から少しでも外れれば、後ろ指をさされ、非難されるのだ。

若いころの私は、「普通」に適合できなかった。
何もかもが窮屈で、息苦しさが消えなかった。

だが、今の私は何の疑問も持たずに仕事に行くことができる。
いつの間にか私は適合してしまったのだ。

かつての私は、適合できるようになりたかった。
そうすれば、もう一人で孤独に苦しまなくてもよくなると思えたからだ。

だが、実際に適合してしまった今、私は一抹の寂しさを覚えずにはいられない。
私の病は治ったが、同時に「叫ぶ力」を失ったのだ。

私の心を満たしていた活力は消え、人生に対する諦めと妥協が徐々に染みついていく。
そして、昨日と同じ今日を、ただ無難になぞっていくだけの日々。
その無機質な日々の繰り返しが、私の感性と生命力を蝕んでいくのだ。

私は確かに引きこもりを克服したし、生活保護から脱却したし、精神疾患も治すことができた。
でも、それだけ達成して手に入れたものは、単なる「普通の人生」でしかなかった。

別に私は「有名になって大成功したい」と思っているわけではない。
仮に有名になって大成功したとしても、社会に適合した結果なら、そんなのは結局「普通」の延長線上だ。

かつて苦しかった私は、そんな「普通」に憧れていた。
だが、実際にそれが実現すると、「普通」ほど寂しいものはないと思った。

「普通」とは牢獄であり、自分自身を縛る鎖だ。
それに完全に慣れてしまった時、私たちは「囚人でいること」を自分から望むようになっていくのだ。

実は今、仕事を辞めようと思っている。
昨日、退職届を上司に提出した。
今の職場では重要な仕事を任せてもらっており、やりがいも感じているのだが、人間関係の問題でストレスが絶えなかった。

それで、久々に心の調子を崩した。
吐き気と目まいがして仕事に行けなくなったのだ。

私は最初、落ち込んだ。
「せっかく治ったと思っていたのに、また具合が悪くなってしまった」と思ったからだ。

でも、今はそうは思わない。
具合が悪くなったのは、私の心がまだ死んでいなかったからだ。
私にもまだ「適合できない」という才能が残されていたのだ。

私はきっとこれからも上手く生きてはいけないだろう。
でも、無難に「普通の人生」を生きることが目的なんてつまらない。
そんな人生を歩んでしまったら、きっと死ぬときに後悔する。
「もっと自分らしく生きればよかった」と。

ひとまず今の仕事を辞めて、もう一度自分としっかり向き合ってみようと思っている。
自分がいったい何をしたいのか、自分自身に問いかけてみるつもりだ。

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学んだことをアウトプットしたり、自分の考えを整理したりするのにnoteを使おうと思っている。
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いずれにせよ、今の私が望んでいることは、「世の中の人たちがもっと自分をありのままに受け入れて生きていけるようになってほしい」ということだ。

「自分はダメな人間だ」と思う必要はない。
「自分は生きている価値がない」なんて思う必要はない。
たとえ傷つき苦しむことがあったとしても、自分を否定しなくていいのだ。

そもそも「普通」に生きられない人の人生は苦難の道だ。
そういう人にとっては、一日一日生きることが闘いだ。

「自分はダメだ」なんてとんでもない。
あなたは頑張って闘っているじゃないか。
苦しみと懸命に闘いながら、今日も一日を生きたのだ。
なら、むしろそれを誇ったらいいと私は思う。

「自分らしさ」を押し殺して社会に合わせても、苦しみは増すばかりだ。
確かに、もしも社会に合わせ切ることができたなら、苦しみは消えるかもしれないが、「生の喜び」も同時に消失する。
そのとき人は、社会に合わせるだけのロボットになってしまうだろう。

たとえ苦しむことになったとしても、「ロボットにならずに生きる道」を私は模索していきたい。
自分の心だけは、無くさずにいたい。

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