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即興的に生きる自由と、その必然性について

このところ、毎日文章を書いている。
ちょっと前までは一週間に一回くらいしか更新していなかったのだが、「一度、書くことと真剣に向き合おう」と思い、今は時間がある時は机でパソコンに向かっている。

ただ、そうして毎日更新していると、無意識にいつも「次回のネタ」を考えるようになる。
「次はいったいどんなテーマで書こうか?」と考え、アイデアを出そうと必死になる。
時には良いフレーズを思いつき、「お、この言い回しはどこかで使えそうだぞ」とか考えたりもする。

だが、そうして思いついたことを、書く時にはほとんど使った試しがない。
思いついたことをメモに取ったりしたこともあるのだが、いざそれを書こうと思うと、思いついた瞬間の熱やワクワクはなくなっていて、書くモチベーションが出てこないのだ。

それで結局いつも行き当たりばったりで書いている。
これは私の性分かもしれない。
私の場合、書くことを前もって決めてしまうと、「書こう」という気持ちが萎えてしまうのだ。


◎頭で全てを決めるのではなく、心を使って文章を書くこと

だが、今の世の中では、記事を書くとなったら「書く内容をあらかじめ整理してわかりやすく伝えること」が重要視される。
書き始める前にきちんとテーマを決め、文中で使うキーワードを定め、全体の構成を目次にして、大体の流れを考えておく。
そういったことが、記事を書く際には奨励されるのだ。

私もこれを何度か試したことがあるが、どうしても完遂できなかった。
テーマぐらいならあらかじめ決めることもあるが、それ以上のことを決めるのは私には難しかった。
そして、なんとかして全体の構成ができあがっても、実際に書き始めたら私はそこから脱線した。
とにかく私は「あらかじめ決められたとおりにやる」ということができないのだ。

その瞬間その瞬間に心に浮かぶものがある。
それは前もって計算できない。
私たちには自分の心は予見できない。
心には心の法則があり、それは頭で考えてわかるものではないのだ。

私たちの心には即興的なところがある。
その瞬間に感じたものを、独特の仕方で表現する。
そこにおいては、何も繰り返されることはない。
その表現は一回限りで、次の瞬間には心はもう別のことを感じて表現しているものだからだ。

文章を書く時にも、頭ばかりではなく心を使うことが大事なのではないかと、私は思っている。
頭で全部計算して文章をコントロールしてしまったら、即興的な心はそこに存在できなくなる。
確かに、しっかり内容をコントロールするならば、よくまとまった文章は書けるかもしれない。
だが、私はそこで何か大切なものが抜け落ちてしまっている気がしてならないのだ。

即興というと、手間をかけずにおこなわれるいい加減なものと思われがちだ。
確かに、前もって全て計画するのに比べれば、手間はかからないだろう。
だが、即興は決して「いい加減なもの」ではない。

もしも即興が「いい加減なもの」になるならば、それは私たちが自分の心ときちんと向き合っていないからだ。
心の声に耳を傾け、それをありのままに表現する限り、即興は「いい加減」にはならない。
むしろそれは、自分の心に忠実であるために、丁寧に表現と向き合うことに他ならないのだ。

あらかじめ構成を決めて文章をコントロールすることだけが、表現の丁寧さではない。
即興の中で、自分の心と対話を試みることも、丁寧さの一つの形だ。
それは「何でもいい」ということではなく、「これでなければならない」という確信を、瞬間ごとにつかむことなのだ。

◎迷いと不安の中で即興的に踊ること

私は即興舞踊の経験があるので、特にそう思う。
即興で踊る場合には、あらかじめ決まった振り付けなどはない。
その瞬間その瞬間に、どう動くかが決まっていく。

どうやって決まるのかというと、頭と心の協同によって決まる。
心は瞬間ごとに何かを感じ、表現しようとしている。
頭は心の「戸口」に立って、その声に耳を傾けながら、表現の仕方を模索するのだ。

たとえば、踊っている最中に、たまたま腕を丸く振ってみたら、一瞬快かったとする。
そういう時には、頭のほうで、「ちょっとこの動きを繰り返してみようか」と心に向かって投げかけたりする。
なぜなら、「快い」という感覚があるということは、心がこの動きに何かを求めているはずだからだ。

そして、腕を丸く振る動きを何度も何度も繰り返すうちに、快い感覚がもっと引き出されてきて、動きがだんだん大きくなってくる。
そこから、あまりにも動きが大きくなりすぎて、バランスを崩し倒れそうになる。
すると、倒れ掛かって体勢が崩れたことによって、思いがけず別な動きに発展していったりするのだ。

こういったことは、あらかじめ筋書きを書いてその通りにやっても、心は何も感じない。
それはただの機械的な反復であり、そこからは「死んだもの」しか生まれてこないのだ。

心の声に確信が持てなければ、即興的に踊ることはできない。
しかし、だからといって即興舞踊において、迷いが全くないわけではない。
むしろ、踊っている間は常に迷っている。
なぜなら、そこには用意された「正解」がないからだ。

瞬間ごとに迷いがある。
「これで本当にいいのだろうか?」という不安が常にあり、時にはそれに負けて身体が止まってしまいそうになることもある。
だが、それでもとにかく動き続けて、瞬間ごとに動きを選び取っていくのだ。

◎「本当の自由」の中において「偶然」と「必然」は一つになる

文章を即興的に書く時にも話は同じだ。
そこには「正解」というものがなく、だからこそ人は自由でありうる。

そして、自由であるからこそ、私たちの中に不安や迷いは生まれ、その不安と迷いが私たち自身に決断を迫る。
絶えざる不安と迷いとが、「これでよい」というたった一つの選択を、私たちに選び取らせるのだ。

だが、この不安と迷いは厄介なものだ。
それゆえ人は、自由よりも不自由であることを求める。
自分で全てを決めるより、何でも他人に決めてもらいたがるのだ。

もちろん、選択肢が多ければいいというものではない。
もしも一万種類の服の中から毎日着る服を選んでいたら、時間がいくらあっても足りないだろう。
実際、着る服をあらかじめ決めておいたほうが、エネルギーの消費は少なくて済む。
それゆえ、「あまり自由であるのも考えものだ」という話にもなるわけだ。

だが、「本当の自由」の中において、「偶然」と「必然」はぴったりと重なる。
私たちが真に「自由」である時、そこには選択肢が無数にあるはずなのに、たまたま自分が選び取ったものが、それ以外ありえない「たった一つの正解」であるように感じられるのだ。

たまたま選び取ったという意味ではそれは「偶然」に過ぎないわけだが、実際に選んでみると、他の選択肢などなかったかのように思える。
全ては「必然」であって、「これ以上に相応しい選択肢はあり得ない」という感覚がそこにはある。
見かけ上は「偶然」のように見えるのに、私たちの心はそこに唯一無二の「必然」を感じ取っているのだ。

大げさに言えば、私たちはそこに「自分の運命」を感じ取る。
「他の可能性」などはなく、「一つの選択肢」があるだけだ。
無限に選択肢があるはずのこの宇宙で、私たちは瞬間ごとに選択をする。
それがまさに、私たちの人生そのものなのだ。

◎人生とは「一回きりの即興舞踊」

私は即興が好きだ。
「あらかじめ計画されたもの」よりも、「その場で生まれる命」を好む。

そして、私たちには人生を計画することはできない。
たとえどれだけ綿密に計画を立てたとしても、10年前の計画通りに生きられている人間などほとんどいない。
人生は思いがけないことの連続であり、「一回きりの即興舞踊」なのだ。

「生きた人間」は予測できない。
「死んだもの」だけが予測できる。
何もかもが決まりきったルーティンワークの繰り返しになれば、私たちの生活は死んでしまい、そのような「死んだ生活」が私たち自身の心も殺す。
そうして人は「生きる意味」を見失い、「なぜ自分は生きているのか?」と自問するようになるのだ。

私たちがもっと即興的に生きるなら、「なぜ自分は生きるのか?」と問うことは減っていく。
なぜなら、即興的に生きるということは、私たちが私たち自身の人生を、意味のあるものとして選び取っていくことに他ならないからだ。

瞬間ごとに迷いがあり、瞬間ごとに不安がある。
だが、それでいいのだ。
なぜなら、迷いと不安とは私たちの人生を構成する基本要素であり、これらを取り除くことは決してできないからだ。

もしも迷いと不安を取り除こうと思ったら、私たちは自分の人生を完全に予見可能なものにしなければならない。
実際、もしも「必ずこうなる」と前もってわかっていれば、迷いも不安もなくなるだろう。

だが、そのとき私たちの心は自殺する。
もはや「予想外のこと」は一つもなくなり、何もかもが「決まりきった予定調和」の中に落ちてしまう。

もちろんそれは「安定した生活」ではあるだろう。
しかし、いくら「安定した生活」を送ったところで、本当に生きたことにはならない。
それはただ存在しているだけの人生であり、あたかも銅像がいつまでも一か所に立っているだけのような人生なのだ。

私たちの命は銅像ではない。
だから、決して存在するだけでは満足しない。

命は常に「生きること」を欲する。
人生は「生きられること」を欲するのだ。

それも、「その人にしかできない仕方」で。