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瞑想日記3:観察とは、理解すること

瞑想を再開して三日目。
今朝は思い切って30分続けて坐った。
途中で脚が痛くなってしまったので、一度だけ組み替えたが、それ以外は比較的集中して取り組めていたと思う。

それにしても、相変わらず雑念だらけで坐るのに苦労する。
ひっきりなしに思考が湧いて出てくるのだ。

この雑念を払うのに「集中」が有効だと、前回書いた。

今回は「集中」と並んで瞑想において重要な、「観察」について書いてみようと思う。
正確に言えば、「瞑想中に湧いてくる思考や感情の観察」だ。

そもそも「観察」というと何を思い浮かべるだろうか?
小学生の時にやった朝顔の観察日記だろうか?

朝顔の観察でもそうだが、観察する時、私たちは対象への価値判断をいったん差し控える。
たとえば、この朝顔は好きだとか、あの朝顔は形が気に入らないとか言わない。
こっちの育ち方が正しくて、こっちは間違っているとかも言わない。
ただ、目に見えたままをその通りに日記に書き留める。
そうしなければ、観察している朝顔のことを正確に理解できないからだ。

瞑想中の「観察」もこれと同じだ。
たとえどんな思考や感情が湧いてきても、それに好き嫌いを言ったりしないで、ただ見るのだ。

たとえば怒りが湧いてきたとしても、「怒りは悪いものだ」と言わない。
ただ、「今、自分の中には怒りがある」とだけ認識してさっさと手放すようにする。
また、「過去の後悔」が浮かんできても、そのことで自分を責めたりせずに、「今、後悔する思考が浮かんだ」とだけ認めて流していく。
そして、思考や感情を流した後は、また「感覚への集中」に戻るのだ。

瞑想においては、自分の思考や感情に深入りしない。
なぜなら、それらはそもそも非常に気まぐれなものだからだ。
勝手に湧いてきて、勝手に騒ぎ立てる。

実際、私たちは自分の思考や感情をコントロールすることがほとんどできない。
思考も感情も、「気づいたら既にあるもの」であり、いつも私たちの意思とは関係なく、自動的に湧き出てくるものだ。

特に思考は、感情以上に脈絡なく変化する。
子どもの頃にしていた空想のように、意味もなく脱線し、突然の方向転換をし、いつの間にか飛躍する。

だから、物思いにふけっているときの思考の道筋を後になってから辿ることは、ほとんど不可能だ。
それはあまりにもつながりと一貫性を欠いているからだ。

私たちの思考はあちらからこちらへと常に飛び回っている。
これを過去の瞑想修行者たちは、サルが木から木へ飛び移る様にたとえて、モンキーマインドと呼んだ。
気まぐれに木々の間を飛び移るサルのように、私たちの思考は一時も落ち着いていないのだ。

こういった気まぐれな思考や感情に対しては、深入りせずにただ「観察」するに留める。
「それがそこにある」と認めるだけで済ませ、「なぜこんなものがあるのか?」とは問わない。
というのも、そういうことまでいちいち問い出せば、それについてますます思考する罠にハマってしまうことになるからだ。
それでは、「思考の根」を探っているつもりで、実は「思考の木」を育てているようなものだ。

在るものを「在る」と認めること。
それが瞑想における「観察」の基本であり、また同時に「理解する」ということでもある。

怒りが在ったら、「怒りが在る」と理解する。
明日への不安が在ったら、「明日への不安が在る」と理解する。
ただそれだけだ。

なぜそういったものが湧いて出てくるのかについては、上記のような「理解」を積み重ねていくうちに自然とはっきりしてくるものだ。
日々の瞑想の実践を通じて、「理解」が積み重なっていった結果、「ああ、それで自分は怒りっぽかったのか」とか、「ああ、だから自分は不安で仕方なかったのか」と、不意にわかるのだ。

でも、そのためには、哲学的に思考するのではなく、瞑想的に観察することが重要だ。
いたずらに思考すれば、ますます思考の雲に覆われて何も見えなくなる。
だから、価値判断をせず、良いとか悪いとか言わず、在るものとただ「在る」と認めるようにする。
その積み重ねが瞑想なのだ。

瞑想というと、何か坐りこんでいろいろ考えることだと思っている人もいるかもしれないが、このように、実態はその真逆だ。
むしろ、考えを落としていくのが瞑想だからだ。

だからといって、考えを落とし切って「無」になるのが瞑想だと思うのも間違っている。
なぜなら、実際に「無」になることなど、ほとんどすべての人にとって不可能だからだ。

思考や感情は必ず湧いてくる。
そういう時、「無」になろうとして思考や感情を押し込めば、反対にそれらは溢れ出してくることになる。
だから、「無」になどなろうとせず、ただ思考や感情から距離を取って「観察」するのだ。

思考や感情がそこに在ることを自分は知っている。
それをただ確認するだけで実際には十分なのだ。

以上が瞑想における「観察」の話だ。
まあ、言うのは簡単だが、実践するのは難しい。

私も瞑想をサボっていたこの二年ほどの間に、すっかり自分の思考と感情に振り回されるようになってしまった。
また一から修行するつもりで、実践を重ねていこうと思う。