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いくらやっても疲れない瞑想

このところ、生活の中で瞑想を実践するということについていろいろ書いている。

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今の私は起きてる間ずっと瞑想しているような状態なわけなのだが、「それって疲れないのだろうか?」と疑問に思う人も中にはいるかもしれない。

だが、これが意外と疲れない。
むしろ、瞑想的な生活を始める前よりも疲れにくくなったくらいだ。

今日はちょっとそのことについて書いてみようと思う。
「瞑想的な生活は疲れるのか?」ということについてだ。


◎瞑想は「集中する努力」として始まる

瞑想の実践というのは、普通、何かに集中することで、無自覚な思考を閉め出すことから始まる。
たとえば、呼吸に集中したり、眉間に意識を集めたり、ろうそくの炎を凝視したりすることで、余計な考えが湧いてこないようにするわけだ。

そもそも私たちはみんな、日常的に無数の考え事をしながら生きている。
このことは、瞑想をして自分の頭の中を観察してみた経験がある人なら、誰もが知っていることだと思う。
実際、瞑想を実践し始めた最初のうちは、気を抜くとすぐ何かを考えだしてしまい、集中を保つのにも一苦労するものだ。

だが、瞑想の実践を続けていくと、徐々に集中力が鍛えられていく。
呼吸や眉間やろうそくの火に集中し続けることができるようになり、無自覚な思考に巻き込まれることも減ってくるのだ。

そして、さらに実践を続けると、集中して思考を閉め出そうとしなくても、あまり思考が湧いてこなくなる。
これは、瞑想の実践によって頭の中がキレイに掃除されたような状態だ。
散らかり放題(思考ばっかり)だった頭の中が片付いて、掃除しよう(集中しよう)と思って頑張らなくても、キレイな状態(内面が静かな状態)がある程度保てるようになった状態と言えるだろう。

瞑想を始めたばかりの時は、「本当にそんな状態になれるだろうか?」と疑ってしまうかもしれないが、努力して実践を続けていれば、いつか必ず到達できる。
そして、その状態になれれば、思考に振り回されることもグッと少なくなるはずだ。

◎集中力の是非について

日常生活の中で瞑想を実践するためには、最低限この段階まで到達する必要がある。
努力して集中しようとするまでもなく、内面を静かに保てる段階だ。

なぜ集中しようとせずに静かでいられる必要があるかというと、呼吸や眉間などに集中しながら日常生活を送ることはできないからだ。
生活していればやらなければならないことは多いし、呼吸や眉間に集中しながら作業していたら、注意がそっちに持っていかれてしまい、能率は落ちるだろうしミスもたくさんすると思う。
これでは、「呼吸や眉間への集中」という余分な荷物を背負いこんだまま、生活を送ろうとするようなものだ。

人によっては、「それなら作業している対象に意識を集中すればいいの
では?」と思うかもしれない。
たとえば、パソコンで何か作業しているならパソコンの画面やタイプしている指の感覚などに意識を集中する。
歩いているなら足の裏の感覚に意識を向け続け、シャワーを浴びているのであればお湯が身体に当たる感覚に努めて集中する。
そうすることで、「今ここでしていること」そのものに集中し、注意が逸れないようにすればいいのではないかと思うわけだ。

マインドフルネス瞑想などはそういう方向性を目指すものだと思う。
それは、生活の中で集中状態を保つこで、常に気づいていようとする試みだ。

だが、私はそういう生活を何度も試したことがあるのでわかるのだが、人間の集中力というものには限界がある。
仮に集中し続けようと思っても、どこかで集中力が途切れてしまい、疲れて続けられなくなるのだ。

確かに、マインドフルネスである間は、「今ここ」に集中して気づいていられるかもしれない。
しかし、集中力が切れてしまえば、その状態も終わってしまう。
それでも、「絶えず集中し続けなければならない」という風に思うなら、それは強迫観念になって本人を苦しめることになると思う。

◎「集中を手放すこと」は退歩なのか?

繰り返すが、瞑想を生活の中に持ち込もうと思ったら、集中せずに瞑想状態(内面が静かな状態)を保てるようになる必要がある。
そして、そのうえで、思い切って集中することを手放すのだ。

これは最初のうち、ちょっと気持ち悪く感じるかもしれない。
なぜなら、それまで散々集中することを練習してきたのに、突然それを捨てるなんて、今までやってきたことを否定して無駄にするような行いに思えるからだ。
「集中しないでただ過ごすだけなんて、そんなの瞑想を始める前と一緒じゃないか!」と思うわけだ。

だが、もし集中力が十分に鍛えられていれば、「瞑想を始める前とは違う」ということがきっとわかるはずだ。
何にも集中しようとはしていないのに、日常の中に静けさがあり、気づきがある。
かつて思考でいっぱいだった頭の中はクリアになっており、昔は無自覚にしていた家事や仕事に気づきが伴うようになっているのだ。

だから、瞑想に熟達した者にとって、「集中しないで過ごすこと」は決して「最初の状態に戻ること」ではない。
むしろそれは、「次のステップ」と言ってもいい。

実際、集中力を十分に鍛えたら、次にすることは「集中する努力」の放棄だ。
一度はしごを登ったら、そのはしごはもう外してしまっていい。
いつまでもはしごに固執する必要はないのだ。

もちろん、無自覚な思考に巻き込まれたりしない程度の、最低限の集中力は維持する必要がある。
だがその程度の集中は、瞑想の実践で集中力が十分に鍛えられていれば、さして苦もなく維持できるようになっているはずだ。
そうして徐々に、瞑想状態(内面が静かな状態)で過ごすことが、「当たり前のこと」になっていくのだ。

◎安らぎとくつろぎの時間

私は『「集中する瞑想」から「集中しない瞑想」へのシフト』と言ったりするが、集中することに固執する限り、生活を通して瞑想をすることは難しくなる。
起きている間ずっと集中していることに、いつかは疲れてしまうからだ。

だが、集中することを手放せば、そこには安らぎがあることがわかる。
無自覚な思考に悩まされることなく、集中しようとする努力からも解放されて、「ただ在る」だけの時間。
それは、安らぎとくつろぎの時間となっていくことだろう。

もちろん、そのことはすぐにはわからないかもしれない。
最初のうちは、「見るべき思考もなく、集中もしなくていい」ということになったら、「することがなくて退屈だ」と感じるかもしれない。

だが、その退屈も感じ続けるうちに溶けて消えてしまう。
そして、後には安らかで穏やかな感覚だけが残るのだ。

というか、厳密にはそれを「感覚」と言うことはできない。
なぜなら、それは「無感覚」だからだ。

特に目立った感覚もなく(無感覚)、
頭の中は空っぽで(無思考)、
あらゆる感情が消え去っており(無感情)、
集中しようとさえしていない時(無努力)、
そういう「無」の中に、なぜかいつも「安らぎ」が見つかるのだ。

◎それはもはや「苦行」ではない

「無」というと、本当に何もないように考える人も多いと思うのだが、「無」とは、見方を変えれば「あらゆるものからの解放」を意味する。
そこには「自由」があり、「解放感」があり、「安らぎ」がある。

そして、このことがわかるようになると、日常生活の中で瞑想的であることは非常に容易になる。
だって、ただ静かにしていれば、それだけで「安らぎ」が感じられるのだ。
それは心地よいものであり、好ましいものだ。

だから、ついつい静かな状態を維持したくなる。
それが心地よく、好ましいものであるからこそ、自主的に「安らぎ」の中に留まりながら生活したくなるのだ。

ということで、この記事の最初の問いに戻ってくる。
「生活の中で瞑想を実践していて疲れないのか?」ということだが、結論としては(すでに上でも書いたが)、疲れない。
むしろ、「安らぎ」の中でくつろぐ時間が持てるので、疲れを感じにくくなったくらいだ。

こんなことは、坐って瞑想しながら頑張って集中しようとしていた昔の自分なら、考えられもしなかった。
当時の私にとって、瞑想することは努力なしには不可能であり、「できればあんまりたくさんはやりたくないなぁ」と思うような一種の「苦行」だったからだ。

それが今では自分から進んで瞑想をするようになった。
まあ、実際には瞑想を「する」というか、ただ静かにしているだけのことなのだが、そんな風に努力感がないからこそ、起きている間ずっと続けていられるのだろうと思う。

だが、私たちは努力することにばかり意味を見出そうとしがちだ。
努力している感覚がないと、「これって何か間違っているのではないか?」とか、「こんなこと続けて意味があるのだろうか?」とか思ってしまう。
「努力して何かを成し遂げる」というパターンに慣れ過ぎているのだ。

だが、実際には無努力でないと見つけられないものもある。
穏やかな時間の中で、何もせずゆったりとくつろぐ時、そこには確かに「安らぎ」があるのだ。