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話の聞き方4パターン

これまでの人生で、人に悩みを相談したり、逆に他人の悩みを聞いたりする経験をする中で、話の聞き方にはだいたい4つのパターンがあると気づいた。
今回はそれについて書いてみたい。

他人の悩み事の相談に乗る機会がある人は、自分の聞き方を省みる参考にしてみてほしい。
(ちなみに、今回の記事は約7000文字弱ほどある長文だ)


話の聞き方4パターン

私が思うに、話の聞き方は以下の4つに分類できる。

  • 連想型

  • 助言型

  • 共感型

  • 受容型

これから一つずつ説明してみる。

1.連想型

◎「連想型」は話題を無意識にすり替える

まず、一つ目は「連想型」。
これは聞いた内容から連想して話が脱線していく聞き方であり、はっきり言って、あまり良い反応パターンではない。

たとえば、「実はこの間、映画館で最新作の~を観てきたんだけど、すごい感動したんだよ」と話したときに、「へー、そうなんだ。そうそう、映画と言えば、先週の金曜ロードショーで『となりのトトロ』やってたんだけど、久々に観たらやっぱり面白かったなー」とかいった具合で返事をする場合を考えてみる。

一見すると、別に問題は無いように見えるかもしれない。
だが問題は、最初の話し手が話したかったことを話していないうちに、話題がすり替えられてしまっているということだ。

この場合、最初の話し手は『最新作の~』について自分の感動を伝えたかったのだと思われる。
だが、聞き手はそこから「映画」で連想して、先週の金曜ロードショーで自分が観た『となりのトトロ』の話をし始めてしまっているわけだ。
確かに「映画の話」は続いているのだが、『最新作』の話をしたかったほうからすると、話の腰を折られたように感じるだろう。

こういう返し方をする人は、主観的には会話のキャッチボールを続けているつもりでいる。
だが、実際には相手の居る場所にボールを返しておらず、その場の思い付きでデタラメな方向に投げ返しているから、相手はそれを受け取ることができない。
結果、話は脱線してしまい、最初に話していたこととは全く違うところに着地することになるのだ。

◎「連想型」の人は、結局「自分の話」ばかりする

また、特に問題なのは、一度こういった脱線を始めると、そこから先は「ずっと相手のターン」になりがちだということだ。
多くの場合、最初の話の腰を折ったうえで「自分のしたい話」をし始め、こちらはそれを延々聞かされる羽目になる。

たとえば、こんなケースだ。
「最近、夜眠れなくて、疲れが溜まってて…」と愚痴をこぼすと、「あー、そうなんだ。そういえば、自分もこのあいだ徹夜でゲームしてさ、楽しかったんだけど、翌日は辛かったなー。で、そのゲームっていうのが面白くて云々かんぬん」といった具合に返される。
愚痴をこぼした側は疲れが溜まっていることに共感してほしかったのかもしれないが、話はいつの間にかゲームの話にすり替わってしまい、寝不足で疲れているのに、大して興味のないゲームの話を聞くことになってしまうわけだ。

実は、私自身も気をつけてはいるのだが、時々無意識にこういった返し方をしてしまうことがある。
相手がしたがっている話を聞いてあげることなく、こちらの思いついた話をし始めてしまう。
そうすると、話し始めた側は「あ、聞いてもらえてない…」と思って気分が下がってしまい、連想で話題を切り替えた側だけが一人で盛り上がっていく。
結果、両者の間に温度差が生まれ、会話のキャッチボールは成り立たなくなってしまうのだ。

まあ、話題がころころ変わっても気にならないような他愛のない雑談ならば、「連想型」の反応をすることでむしろ話題が膨らんで場が盛り上がるということもあるかもしれない。
だが、あまりにも頻繁に話題を変えすぎたり、しかもそれで自分の話ばかりしていたら、次第に周りから煙たがられるかもしれないので注意が必要だろう。

2.助言型

◎「助言型」は意見を言わずにいられない

次のパターンは「助言型」だ。
これは説明しなくても字面でだいたいわかるかもしれない。
要は、こちらの話を聞いて何かしらそれにアドバイスをしようとする反応パターンだ。
教師や先輩、上司など、立場が上の人がこういった反応を取りやすいが、もともと「アドバイスをしたい」をいう欲求を強く持っている人も存在する。

もちろん、世の中にはそういった人々も必要だ。
実際、道を見失って困っている人には何かしらのアドバイスをしてあげたほうがいいだろう。

この反応パターンが問題になるのは、こちらの話を大して聞かずに上から目線で持論を押し付けてくる場合だ。
たとえば、こっちの事情をよく知りもしない人が、教えてほしいと頼んでもいないのに、「そういう場合はこうしたほうがいいんだ」と押しつけがましくアドバイスをしてくる場合などがこれに当たる。

経験のある人はわかると思うが、こういう「余計なお世話」というのはうっとおしく感じるものだ。
だが、助言したがりの人というのは、日ごろから自分の持論を言いたくて仕方がないので、黙っていることができない。
それゆえ、機会を見つけては何かと口をはさんで「余計なこと」を言ってくるのだ。

そもそも「実のあるアドバイス」というのは、するのが難しいものだ。
もしも「有益な助言」をしようと思ったら、相手のことをきちんと理解し、悩んでいる当人の中にはなかった新たな観点を提供した上で、問題解決への道筋を示してあげなければならない。
そんなことができる人が、実際にどれほどいるだろうか?

だが、私たちはみんな助言したがる。
「相手の話を黙って聴く」ということができず、しばしば途中で遮ってでも「私見」を述べようとしてしまうのだ。

◎「助言型」の人が黙っていられない理由

それはなぜかと言えば、理由はいろいろあるだろう。
まず、「自分の意見を誰かに聞いて欲しい」という欲求があるからだ。
つまり、誰かに自分の考えを認めてもらいたいのだ。

また、「他人をコントロールしたい」という欲求が強い人もアドバイスをしたがる。

「自分の助言によって相手を変えたい」
「できれば相手の人生を操作したい」

そういった欲求は、「自分の影響力を実感したい」とか、「支配欲を満たしたい」と思っている人なら多かれ少なかれ無意識に持っているものだ。
そして、こういった欲求が「アドバイスをすることで相手を間接的に操作しようとする」という形で表れるわけだ。

もちろん、善意でアドバイスをしようとする人もいるだろう。
だが、そこには「無意識の支配欲求」が潜んではいないかどうかを一度点検してみてもいいかもしれない。
それは本当に「相手のための助言」なのか、それとも「ただの自己満足」なのか、その境目は意外とわかりにくいことが多いのだ(たとえば、「あなたのためを思って言っているのだ」という言葉ほど信用ならないものもそうあるまい)。

ちなみに、この「助言型」の反応パターンは、後で述べる「受容型」と組み合わさることで本当の力を発揮する。
もしも「助言型」単独の場合、「アドバイスをしたい」という欲求が暴走してしまい、押しつけがましいクソバイス(クソみたいなアドバイス)を量産する結果になりがちだ。
だが、「受容型」とタッグを組むことで「本当に必要な助言」をすることが可能になると私は思う。
詳しくはまた後で書く。

3.共感型

◎感受性豊かな人は「共感」できる

三つめは「共感型」だ。
これは女性に多い印象がある。
相手の話に共感して「わかる、わかる!そうだよね!」と同調する反応パターンだ。

辛いことや苦しいことがあったときには、こんな風に共感してもらえると嬉しいものだ。
「そうだよね、辛かったね。苦しかったね」と言ってもらえると、慰められる人もいるだろう。

こういった「共感を示す反応パターン」は、感受性の豊かな人が得意とするものではないかと思う。
というのも、相手の感情をリアルに想像することができ、それを自分のものとして感じることができる人でなければ、深く共感することは難しいからだ。

実は、私はこの「共感」というものがひどく苦手だ。
それは私が他人の感情の機微に疎いからだ。
私は他人の感情を想像することがうまくできないし、そもそも自分自身の感情の起伏もあまりない。
感情的になることは少なく、淡々と日々を過ごしているので、他人の喜怒哀楽に対してもあまり興味が持てないのだ。

なので、共感してほしい人からすると、私みたいな人間に話をするのは無駄に感じるだろう。
私は基本的に他人の感情に共感はしない(というかできない)からだ。

◎「100%完璧な共感」は存在しない

じゃあ、「共感すればするほどいいのか?」と言うと、そうとも限らない。
というのも、そもそも「100%完璧な共感」というものがどこにも存在しない幻想だからだ。

私たちが他人と話をしていると、「相手の感情をリアルに感じられた」と思うことがある。
だが、それは本当に相手が感じている感情そのままだろうか?
それは、都合よく作り変えられ、自分の側だけで一方的に感じている感情なのではないだろうか?

当たり前の話だが、私たちに感じられるのはあくまでも「自分で感じている感情」だけだ。
他人の感情に共感する時も例外ではなく、それはあくまでも「想像的に感じたもの」に過ぎず、どこまで行っても「自分で感じているもの」の領域を脱することはできない。

その証拠に、「わかる!わかる!」と連呼しながら話を聞く人を前にすると、「本当にわかってる?」と疑わしくなるものだ。
そんな人を見ていると、「この人、こっちの気持ちなんかわかっていなくて、実際には『わかっている』と思い込んで自己陶酔しているだけじゃないの?」と思えてくるだろう。

他人の気持ちなんて簡単にはわからないし、究極的には、一生かけたって一人の人を理解しきることはできないだろう。
そのことを経験的に知っている人は、「わかる」とは軽々しく言えなくなるのではないだろうか?

もちろん、共感することが悪いとは思わない。
だが、「そこには限界がある」ということだけは、わきまえていたほうが良いだろうと思う。

4.受容型

◎「受容型」の基本は「中立的な理解」である

最後は「受容型」だ。
言葉の意味的に「共感型」と区別がつきにくいかもしれないが、私の中には明確な基準がある。
「共感型」は相手に共感することが基本にあるが、「受容型」は理解が基本だ。
相手がどんな状況にあるか、何を感じていて何を考えているか、そういったことをただ中立的に理解することに徹するのが「受容型」の反応パターンなのだ。

なぜこれを「理解型」ではなく「受容型」と名付けたかについては理由がある。
それは、相手を理解するためには相手のことをそのまま受け入れることが必要になるからだ。

たとえば、一時の気の迷いから何かの罪を犯してしまった人がいたとしよう。
その時、連想型の人は別の犯罪のことを連想するかもしれないし、助言型の人は叱責して断罪しようとするかもしれない。
共感型の人は犯罪者に感情移入するあまり、犯罪行為を容認してしまうか、もし反対に犯罪者の心理に共感できなければ、軽蔑したり反感を持ったりするかもしれない。

この時、「受容型」の人は、話を逸らそうとも断罪しようともせず、否定も肯定もしないで、ただ相手のことを理解しようとする。

「この人はこれまでどんな人生を送ってきた人なのか?」
「気の迷いが生じたのはなぜなのか?」
「どうして罪を犯してしまったのか?」

そういったことを、「受容型」の人はただそのまま理解しようとするのだ。

◎相手に共感できず、意見まで異なっていたとしても理解はできる

私たちは「受け入れられない人間」を目の前にすると、何とかして相手のことを変えようとしたり、時には反発して視界から消そうとしたりする。
だが、「受容型」の人は相手を変えようとも消そうともしないで、ただ理解に徹する。

その在り方は「あなたはいったいどんな人なのか?」という一つの問いに収斂する。
そしてそれは、「たとえあなたが何者であれ、私はあなたを受け入れる」という前提条件とともに機能しているのだ。

当たり前だが、「受け入れがたいもの」を理解しようとすることはできない。
つまり、逆から言えば、「相手を理解しようとする」ということは「相手を受け入れる」ということと同義なのだ。

もちろん、人間であれば相手の心理に共感できないこともあるし、お互いの意見が違う場合もあるだろう。
だが、たとえ相手に共感できず、意見が異なっていたとしても、理解することはできる。

「共感はできないけれど、相手はどうもこういう感情を持っているらしい」
「自分はそうは思わないけれど、相手はこういう風に考えるようだ」

そうやって自分の感情や意見をいったん脇に置いて、相手を理解しようとすることは常に可能なのだ。

でも、多くの人は共感できない相手には感情的に反発し、意見が違えば論破して相手を言い負かそうとする。
そこに「受容」という態度は存在しない。
結果、話し手は「受け入れてもらえなかった」と感じ、他人に対して心を閉ざしてしまうか、攻撃的に言い返そうとするようになるだろう。

心を閉ざしてしまった人に必要なのは、説教や断罪や同情ではなく、「承認」だ。
「受容型」の人というのは、相手の言うことにわからない部分があれば質問し、状況が込み入ってくれば話を整理することもあるが、基本的には傾聴するのが基本的な在り方だ。
そして、それはつまり、「あなたの話を聞かせてほしい」という言葉を投げかけ続けることに他ならないのだ。

◎助言や共感をするのは「承認」したあとで

さきほど上でも書いたが、他人からアドバイスというのは基本的には「余計なお世話」として感じることが多いものだ。
しかし、道に迷っている人や「間違ったこと」を続けている人には、やはり助言が必要だ。
だから、どこかで誰かが言ってあげねばならない。

「受容型」の人もそのことはわかっている。
だから、最終的には「こうしたほうがもっといいよ」とか、「今度からはこうしなければならないよ」と告げることになる。

だが、それはあくまでも「対話の最後のフェイズ」だ。
相手の話を聞かないうちから助言をしても聞き入れてもらえないということを、「受容型」の人はよく知っているからだ。

もしも長い時間をかけて話を傾聴していけば、話し手は心を開いていく。
そして、話すことで自分で道を見つけるかもしれないし、それでも見つからなければきっと向こうから聞いてくるだろう。
「どうしたらいいと思いますか?」と。
そうなった時に初めて、自分なりの考えを述べたらいいと思う。

さっきも書いたが、心を閉ざした人に必要なものは、説教でも断罪でも同情でもなく、「承認」だ。
「承認」こそが信頼関係の土台であり、それなしに助言をしても聞いてはもらえないし、共感だって嘘っぽくなる。
そういう意味で、「助言型」や「共感型」は「受容型」の態度の上にこそ成り立つべきものだとも言える。
「自分は受け入れてもらえた」という感覚があるからこそ、助言も深く届くし、共感も薄っぺらにならなくなるのだ。

「承認」こそが対話の基盤

ちなみに、かく言う私自身は、基本的に「受容型」の対応を心掛けている。それは、これまでの人生で「受容的な聞き方」をしてもらった時が一番嬉しかったためでもあるだろう。
だからこそ、誰かの話を聞く時も、そういう聞き方をしようと思うわけだ。

いずれにせよ、「『承認』こそが対話の基盤だ」と私は思っている。
この「承認」、つまり「相手のことを理解しようとする姿勢」がなければ、対話は成立しない。

逆に、「この人は自分のことを見てくれている、理解しようとしてくれている」という風に思ってもらえたなら、相手は助言も素直に聞いてくれるだろうし、信頼関係に基づいた共感も可能になるだろう。
「承認」こそが、そういった全ての基礎なのだ。

だから、誰かの相談に乗る時は、まず「相手の存在を承認すること」から始めるべきだと私は思う。

もちろん、時には相手の話を遮って自分の話をしてしまうこともあるかもしれないし、見切り発車で早々に助言をしてしまいたくなることもあるだろう。
相手の話に感情移入し過ぎて、言っていることをよく理解しないまま「わかった気分」に酔ってしまうこともあるかもしれない。

だが、そういうことをすると、相手は「あ、この人こっちの話をちゃんと聞く気がないんだな」と察するものだ。
そうして、徐々に心を閉ざして本心を話さなくなっていってしまう。

閉ざされた心を開くには、「自分はあなたのことをちゃんと見ているよ」とちゃんと伝えることだ。
ただ、心を閉ざしている人の場合、口先で「もっともらしいこと」をいう人のことは全く信用していない。
だから、そういう場合は、言葉ではなく「ただただ聴き続ける」という態度でそれを示すしかないだろう。

もちろん、それは手間も時間もかかることではある。
だから、誰に対しても常にできることではないかもしれない。

だが、本当に相手と信頼関係を築きたいと思うなら、それは必要なことだと私は思う。

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