永遠に紡がれる言葉とその対応としての単なる内面

私は自分の内面について単なる内面だと思ったことはないが、それは実際には意識領域の分割として経験されているのではないかと思われる。その問題があるなかで、自分を明晰に語ることはいかにして可能になるのかということを思考しなければならないと考えている。
私は何か例えば感じたことをとても綺麗に言語化できるとかそんなことは思っていないのだが、私自身の内面的な意識の問題について、確かに意識として認めることのできるものを内面に感じることをただ甘受することしかできないため、自分自身精神的に苦しくてもそれをどう受け入れていったら良いのかということを考えざるを得ないと考えている。
私の内面的な出来事について、どう自分で認識すれば良いのかそこが難しいと思われる。自分の内面についてどう認識しなければいけないのだろうか。そして、私はそうして自分の意識の領域において思考したことをこうして外部化するが、それは外部化するに十分な思考を一応展開しているからそれが可能になっているのだろう。
私自身は確かに2つの意識を混在させた形で文章を書いていたのかもしれない。それは私自身の問題かもしれない。
その先にあるものとして自分で何かを思考しなければいけないことは分かるが、自分自身は死にたいのか生きたいのかというと死ぬ勇気はないという一言に尽きる。私は正直生きていることに疲れることが多い。
私はそうしたことを思う。
意識が混在しているという現実のなかで、何を自分は残りの生のなかで思考していったら良いのだろうか。
一応、この意識は基本人格の意識ということになるのだろう。
そして、その基本人格の意識をどう周囲に認めてもらうか。
それは一応、現実的な課題である。
その現実的な課題のなかで、文章を書く書き方についても矯正した方が良いのであれば矯正しようと思う。
基本人格と主人格の両方で文章は書けた方が良いのだろうか。
それとも、あるいは。

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