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アキのエッセイNo.37-他人と関わることが怖かったのは、他人に寄り添われ、受け入れられた経験が少なかったから

こんにちは、アキです。

私はもともと、あまりコミュニケーション力がないほうで、内向的で大人しく、他人と関わることがあまり得意ではありませんでした

今は昔より社交性が向上し、積極的に他人と関われます

昔は抱いていた「他者と関わることへの恐怖心」が大分無くなったからでしょう。

そもそも、なぜ他者と関わることが怖かったのか?

私は、自然に他人と打ち解けるということは苦手でした。

そして、発達障害により、「他の子が理解できる状況も、話も、ルールも、分からない」ような子供だったため、余計に他者と交流することが困難でした。

「人は、自分と波長の合う相手、つまり自分と同レベルで自分と似た相手と惹かれ合う」と言いますが

私と同レベルで私に似た相手なんて周りにいなかったため、誰からも相手にされませんでした。

その説を別の視点で見れば、「自分とあまりにも違う人間相手に対しては拒絶する」ということですが

その説の通り、周囲からは「異物」として認識されていたため、常に「除け者」にされていました。

一方私は、他の子と関わるにしても、理解出来ないことが多過ぎて、「相手に嫌がられるし、私も嫌がられることが嫌だった」ため、自分から他人を避けるようになり、1人を好むようになりました。

他人と関わると相手にとっても自分にとっても苦しい。という経験を繰り返したため、私はコミュニケーションを避けてきました


幼少から中学くらいまではそれで上手くいっていましたが

高校、大学に進学してからは、部活、サークル、バイトと、行動範囲が広がるにつれ、他人と関わり、協調しなければならない場面が増えてきたため

コミュニケーションの問題が顕在化することになりました


特に苦しかったのが、医療系の大学に進学して受けることになった「病院などの施設の実習」です。

状況や話、ルールなどの理解の問題もありましたが

一番は「他人へどう寄り添えばいいか分からないこと」、つまり「相手への思いやりのかけ方が分からないこと」が辛かったです。

指導者様からは、散々扱き下ろされ、人格を否定されました。

患者様への配慮のテクニック、言葉選び等の指導をみっちり受けましたが

なかなか思うように身に付かず、実習の成績は最悪でした。


ですが、今の私は、ほぼ問題なく他人と関われていると思います

実習での指導の効果もあるのでしょうが

私に必要だったのは、そのようなテクニックではなく

「経験」だったのだと思います。


どういった経験か?

私は、いったんは作業療法士として就職し、3ヶ月で辞職して、精神疾患があったため

障害者として生きるしかないと思い、「就労移行支援事業所」に通い、職業訓練を受けました。

そこで私は、スタッフの方から「私は私でいい」と肯定的に受け入れ、自分の苦手なことに一緒に考えていただき、対処していくことができました

また、その事業所から紹介された職場に清掃員として入社して、自分の出来ることを最大限行い、成功体験を積み重ねることで自信を回復していきましたが 


何よりも「自分は自分でいい」と思える職場で働けたこと、職場の方々から「寄り添われ、受け入れられたこと」が大きく作用して

いつの間にか、理解の問題が目立たなくなるほど、現職にて思う存分働けていますし

気が付いたら、職場(老健)のスタッフの方や利用者様に対して

積極的に話しかけられるようになっていました


さらに、苦手としていた他者との協調や共感、思いやりも、自然と出来るようになっていたのです。


先ほどの問いに戻りますが

私に足りなかったのは、「他者から寄り添われ、受け入れられる経験」だったのだと思います。


実習にて、指導者様からコミュニケーションの手ほどきを受けても改善されなかったやり取りが

今では自然にできるようになっています。


実習では、「やり取りが上手くできない自分を否定し、改善する手法」でコミュニケーションスキルを上げようとしていました。しかし、その方法を取ってみた結果、何も得ることはない上に、人と関わることへの自信をさらに失いました


しかし、就労移行支援事業所や現職では「私という個人を受け入れ、また寄り添ってくれた」ことで、自然にその経験から、コミュニケーションスキルを向上させる事が出来たのです。


人によっては、生まれながらにコミュニケーション能力が高い方もいるでしょうが

他者への気遣い、思いやりの方法を、初めから知っていた方はおそらくいないのではないかと思うのです。

誰かから受け入れられ、寄り添われたという「受け身の経験」を通して、思いやりや気遣いの方法を「学習」することで、初めて「自分から」他者を思いやり気遣うことができるのだと私は考えます。

また、その受け入れられ、寄り添われる受け身の経験は、「繰り返し学習」する必要があると思われます。

繰り返し経験をし、強化しなければ

コミュニケーションスキルの向上までは至らないと思うのです。


私の場合、幼少期から誰からも「構われず、放置」されて育ってきました。

そして、「私が、何が苦手で、何に苦しんでいるのか、その悩みに耳を傾け、手を差し伸べる人がいなかった」

つまり、私を受け入れ、寄り添う人がいなかったのです。


一応、友達と言える人はいましたが、常に一緒にいることはできません。例えば授業のグループ作業など、好きな人同士でグループを作れないときは地獄でした。

仲のいい人は出来ても、「大抵の人は私とのやり取りを不快に思い、拒絶してくる」という状況が出来上がってしまっていたため

友達との交流は出来ていても

「受け入れられ、寄り添われる」という経験の学習というところまでは至らず、コミュニケーションスキルの向上までは至りませんでした

その経験から

少人数での特定の誰かとの関わりだけでなく、「色んな人達」との関わりの中で「寄り添われ、受け入れられる」という受け身の経験が、「繰り返し」行われなければ、コミュニケーションスキルの学習、習得までは至らないのだと、私は考えるのです。


幼少期の私に、誰か寄り添って、私の悩みを聞いてくれたら

私を受け入れ、どのようにして生きづらさについて対処していけば良いか

考えてくれる人がいれば

私の人生、もっと開けたかな?と思います。


親がそうしてくれたら一番良かったのですが

親(特に母)は「頑張れば普通になれる」説をかたくなに信じ

正直言って、私の障害を受け入れていなかったので

私だけが頑張るしかありませんでした


親がその役割を十分に行えないならば、「療育」による支援に頼るという方法もあったと思いますが

親は障害を十分に理解し、受け入れていなかったため

それも叶いませんでした


親の不理解が良くない、という見方もできますが

親が悪いというよりも

「福祉が世の中に上手く浸透していない」現状が良くない

私は思います。


「学校は教育の場。職場は仕事をする場。福祉が入り込む余地などない」と、ネットに書き綴る方がいらっしゃいました。


その方の視野が狭い、考え方が固い

というよりも

そういう考え方を取らせてしまう「今の日本の有りようがマズイのだ」と私は思います。


障害というものは害ではなく、特性であり、個性であること。

その個性は疎外すべきものではなく

受け入れ、寄り添うべきものであること。

障害に対しどう向き合い、どう対処していくか

その正しい適切な知識を

世の中に広めていく必要がある

私は考えています。


そのために出来ることがあれば、私は最大限、力を注ぎたいです。

お読み下さり

ありがとうございました。









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