ペイル・ブルーを呑む

「どうしても行かなきゃならないのかよ」
 先ほどまで助手席で眠っていたはずの春田が、突然目を覚まして言った。古ぼけたプレーヤーをかたく握りしめて、どこか遠くを見るような顔つきで彼は続ける。つい数時間前に春田が黴っぽいだなんて文句を言った暖房が、今は春田自身の長いまつげを揺らしていた。
「なあ、弔いなんていうのはお前のエゴだぞ。分かってるんだろうな、秋村」
 乾いたようにうんざりげな春田の低い声が、このおんぼろの車に響いた。おれを咎める響きを持って、その言葉はおれの脳にしみ込む。息を一つ吐いて、一つ吸って、また一つ吐いて、そうして、喉を開く。そういえば、しばらくおれは口を利いていなかった。
「別に、復讐だとかそういうことをするつもりはないよ。ただおれは生きてるから、そのために必要なことを、おれがやるつもりでいるってだけなんだ。それを誰かに邪魔はさせないし、だけど邪魔立てされてまでやるほどの事でもないって、それはわかってる」
わかってるんだ。
合皮に覆われたハンドルをきつく握って、おれは答えた。声がなんだか、ふるえていた気がした。黴臭い熱風が冬の冷たい空気と混じり合って生暖かい。流れっぱなしのFMは、脳のしわをなでるだけでそのまま通り過ぎていく。春田はなおも何かを言いたげにしていたけれど、ふっと動きを止めて気分悪げに寝返りを打った。こいつはわりに繊細で、ひどく車酔いをする。狭いシートの上で芋虫のように縮こまる姿は、なんとなくこっけいだ。窓を開けたら、キンとした風と一緒にアスファルトの独特な、焦げたようなあのにおいがした。それはでも、もしかするとただおれの感傷なのかもしれない。平日夜の田舎の高速は、まばらに走るトラックばかりだ。こんなちいさな車に乗っているのは、おれと春田と、そしていもうとだけだった。
 今ダッシュボード、グローブボックスのその中にはいもうとの骨が眠っている。軽くてもろくて灰色な、いもうとの骨が、眠っている。どれがどこの骨だったのかなんてもうわからないくらい小さく砕かれた彼女の骨は、おもちゃみたいなパステル・ブルーの骨壺に納まって揺れていた。火葬場の鉄棺とその焼け焦げたにおいが、今もまだ鼻の奥のほうでにおう気がして、チューインガムを取り出す。ソーダ味のそれは、いもうとの骨壺とよく似た色をしていた。いもうとは水色が好きだった。プリントされた女の子の大きな目が俺を見ている。女の子の目はピンク色だ。

 いもうとは一昨日死んだ。正確に「死亡」したのは、本当はもっとすこし前なのだが、あまり確かなことは知らない。おれが積極的に聞かなかったからだ。それを知ったところで別段、何も変わらないし、少なくともおれのなかで彼女が亡くなったのは、一昨日だった。一昨日、いもうとの誕生日。だから家に帰った。
 冬だったからなかなか腐らなくて、発見が遅れたらしい。いもうとの死体はダイニングテーブルの下で静かに横たわっていた。第一発見者はおれで、いもうとはそれまで誰からも気づいてもらえなかった。硬いフローリングの上で、疲れ切ったように死んでいた。思っていたより虫はそんなに、湧いていなかった。誰かに助けを求められるほど、彼女はまだ大人ではなかった。助けを求められる大人はすぐそばで死んでいた。不公平な心中だった。母は自分だけさっさと死んで、いもうとを独善で生かしたまま殺したのだ。殺す用意も生かす用意もしないまま、母はその希死念慮にあらがえず死んだ。いもうとをあんなにも苦しめたのは、間違いなく母だった。食べ物はたくさんあったのに、いもうとは飢えて死んだ。味のなくなったチューインガムをずっと噛み続けていた。いもうとはまだ五歳だった。ガムは一日一個だけだった。
 死因なんて明らかだったから、警察は翌日、早々におれを開放した。死体の残り香だけがあるあの家への帰り道、空は燃えるような夕焼けだった。それが昨日のことだ。だから次の日は雨が降るなと思ったのを今思い出した。けど、朝も昼も今この夜にも、結局雨は降っていない。曇るばかりで、雨粒はどこにも落ちてこなかった。
 そして今日、いもうとの体はすっかり焼かれてあんなにちいさな入れ物に納まりきるようになってしまった。最近の骨壺は、ずいぶんかわいらしいものも取り揃えていることを知った。昨日の晩に火葬場へ電話して、今日の昼にはもうまるきり彼女はいなくなっていた。ここにあるただもろいばかりの骨が、いもうとだとはとても思えなかった。彼女の帰る場所は、もうどこにもないのだと漠然と思った。肉体はすでに焼失している。魂の帰る場所は、きっと身体だ。彼女はもうどこにもいないし、どこにも帰ってこない。だからこの骨を、捨ててしまおうと思った。場所はどうせなら、海がいい。いもうとはいつだったか海に行きたがっていた。それが自然だと感じた。この骨はもういもうとではないけれど、でもそれがいい。そう思った。
 海へ行ってしまう足がなかったので、春田に電話した。春田は大学の同回生で、しかしサボりがちの性格のせいで二度留年しているので、年齢的にはおれの二つ上だ。古いもの好きで、未だにガラケーを使っている。大抵いつでも暇気な顔をしていて、付き合いがよくて、ボンボン。ワンコールで、彼は電話に出た。
「秋村か──」
「車、貸してくれ」

「おい、窓閉めてくれ」
 寒い。春田がまた起き上がって言った。着こんだコートの下から引っ張り出した服の裾で眼鏡のレンズを拭きながら、大きなあくびをしている。腕時計の針は午前二時過ぎを示していた。薄汚れた窓ガラスががたがた音を立てながら徐々にせりあがって閉じる。風の吹きこむ音が止まって、車内にはラジオ・パーソナリティの陽気な声があふれた。先ほどまでとは違った番組のようで、司会が女の声に変わっている。
 なにかポケットをまさぐっていた春田は、お目当てのものをようやく見つけたらしい。くしゃくしゃにつぶれた煙草のパッケージが、安全灯の光に濡れて輝いていた。
「吸うか」
「銘柄は」
「セッター、聞かなくても知ってるだろ」
「吸うなら窓閉めなくても良かったんじゃないか」
「急に一本やりたくなったんだよ」
結局、吸うのか吸わないのか。じっとりとした目で春田はおれをねめつけて言う。こいつはすこし短気のケがある。逡巡したのち、一本もらうことにした。箱の底面を叩くと、一本煙草が飛び出してくる。春田がそれを差し出してきたので、そのまま咥えて、火を点けさせた。がたつく窓の隙間から二本、灰色の煙が流れていく。焼却炉の煙突は、ちょうどこんな風だった。吹き込んだ冬の風は確かに冷たい。冷気は数瞬のうちに広がって、反対に忘れていたあたたかさを想起させた。
 いはどのへんだ?
咥え煙草のせいで不明瞭な発音をした春田が地図を広げて喋る。この車にカーナビはついていない。夕方と夜の間に始まったこの行程はもう三分の二を過ぎようとしていた。しかし、海はまだ遠い。風はまだ乾いていて、山の匂いがした。深く吸い込んで肺に溜まった煙を、鼻から口から、何かを殺すみたいに吐き出す。横に座った春田は相変わらず金魚のようで、なにか独特のリズムでぷかぷか煙を吐いている。車じゅうに霧のように煙が蔓延していて、目に染みる。春田が地図を閉じる音が遠くに聞こえた。
「何百か走ったらサービスエリアがあるらしいから、そこでなんか食って、その後は交代してやるよ。もうぶっ続けだろ」
「いいよ別に。おれの勝手におまえは、どっちかって言ったらついて来ただけだろ。おれんちで待っててくれたってよかったくらいなのに」
「あのなあ、俺は会ったこともないお前の家族の死体がちょっと前まで居たような所で寝泊まりできるほど豪胆じゃないぜ。あと、今この車で事故られたら俺だって大怪我じゃすまないって話をしてるんだよ」
 春田は呆れたようにため息をついて、煙草をつぶした。携帯用の灰皿はにぶく銀色に光っている。それが反射して、虫食いのように春田の頬を照らしていた。ちょっとしておれの煙草もそこに落ちる。数分咥えていたそれが無くなると、なんだか少し口さみしいような心地がして、チューインガムを取り出した。普段は付き合う程度にしか吸わない物が、こんな風に感じるのはおかしいと思った。車内を埋め尽くすようだった煙草の煙は徐々に薄くなっていく。ハイウェイ上の夜は長くて、でも、思えばずっと夜とはこんな長さだった。
 しばらく走らせると、突然強い光が車内に流れ込んできた。さっき春田が言っていたSAだ。ガラス張りの建物が一軒と別館でトイレがあって、そこそこ大きい。昼間は家族層向けのフードコートをやっているらしいことも分かった。こんな夜中の駐車場には運送屋のトラックと、あとはおれたちのように後ろ暗いところのありそうな人間ばかりだったけれど。
「微糖のコーヒー二本とあとおむすびたらこな。無かったら買わなくていい。俺は車が盗まれないように見張っておくから。そんじゃよろしく」
 車を停めたら、そう言って春田に追い出された。強引にでも運転を変わろうとしているらしい。仕方ないので、さっさとコンビニへ向かうことにする。山間の風は冷たくて、ダウンの襟に首をうずめた。小走りで抜けた車道の地面には、巨大な『出口』の文字が描かれている。ところどころ塗装が剥げて地のアスファルトが覗いていた。
 自動ドアが開いて店内に踏み込むと、入店音と同時に店員の眠たげな「らっしゃあせー」という声が聞こえた。暖房の効いた室内に、寒さになれた皮膚が分厚いような感じがして、かゆくなる。靴底が床に摩擦して、きゅっきゅっという間抜けな音がした。店内に入ってすぐの雑誌棚では先週号のジャンプが隅に追いやられている。春田の希望の品をそろえて、自分も飲み物くらいは買わなくてはいけないことに思い当たった。食欲はあまりない。食品コーナーの過剰なライトアップが目に滑る。立ち止まってしばらく呆けていると、いつの間にか隣に春田が立っていた。上等そうなマフラーの中で鼻を真っ赤に染めている。見張りの番はどうしたのかと聞くと一言、便所。とだけ言った。
「何考えてるのか知らないけど、飯で悩んでるならこういうのは人に決めさせた方が速いぜ。はい、お前このレモン揚げとかいうおむすびな。まずそうだから」
そう言って春田はおれの持つ買い物かごにその奇天烈なおにぎりを無理矢理つっこんだ。かごを奪い取って、そのまま会計に行ってしまう。おにぎりのそばに置かれたポップには、でかでかと『ご当地限定!』の字が踊っていた。レジに向かうと春田は煙草を買おうとしているところらしかった。会計棚の上にはブラックコーヒーが一本増えている。なかなか番号を見つけられずにいるらしい春田に耳打ちしてやったら、店員と目が合ったので軽く会釈をした。若い、けどおれたちよりは幾分年上に見える男だった。春田はいつの間にか、ホットスナックも付けている。
 会計を終わらせた春田と一緒に外へ出る。ふと時計を見れば、すでに三時も近かった。空には雲の合間を縫って光った、まばらな星が見える。
「お前もトイレくらい行けよ、漏らされても困る」
口を開くなり春田が言う。誰が漏らすか。くだらない言い合いをしつつ、せっつかれてトイレに向かった。忘れていたのも確かなのだが、春田はああしてたまに変な年上風を吹かしてくるので面倒くさい。そういうところがかえって末っ子くさいのだ、とよく思う。きょうだいにはずいぶん可愛がられて育ったに違いない。下の子が可愛い気持ちは、よくわかってしまうのだが。
 用を足して車に戻ると、春田は外に立って待っていた。相変わらず鼻の頭は真っ赤になっていて、眉間に皺を寄せていかにも寒そうにしている。高そうなクリーム色のコートが車に擦れて、すこし汚れていたのが気になった。先ほどまでとは反対におれが助手席に、春田が運転席に乗り込む。シートも車内もすっかり冷えていて、尻から頭の先へ冷たさがじんわりと伝わっていくような感じがする。座り込むなり暖房をつけた春田が、またカビくせ、と文句を言っていた。レジ袋からそれぞれの荷物を取り出して分ける。春田はおにぎりの開封を盛大に失敗したようで、舌打ちをしていた。おれはまだ、あまり食事をする気がしなかった。腹は減っていないし、あえてなにかを口に運ぶほど、おれの中には命が伴っていなかった。春田が買ってくれていたブラックコーヒーを、それでも少し口に含んだ。飲み慣れた安いコーヒーは苦いばかりで、渡すことが出来なかった誕生日プレゼントの人形と、その小さな靴を思い出させた。
 滑りだした車窓の中で、緑にけぶった山々がつぎつぎ後ろに流れていく。三時四十分を過ぎた車内では、春田のかけるロック・バンドがなにかをしゃがれた声で叫んでいた。突然、春田がおれに喋りかけてくる。
「骨、海に撒くったって、なんか許可とかあるんだろ。大丈夫なのかそういうの」
「朝なんだからスタッフとかそういう人も起きてないだろ、たぶん。おれは骨を捨てたいだけで、船とかいらないから、いいよ」
それはおまえが許すことじゃないと思うけどな、俺は。呟くと、春田はそれきりまた黙ってしまった。再び、おれの耳に響くのはカーステレオのがさついたギターの音と、車体を撫ぜる風の音だけになった。春田の言うことは、実に全うだ。俺のやろうとしていることは、ずっとおれのエゴでしかない。それはずっと、わかっていたはずのことだ。なにか居た堪れなくて、外を向いた。窓の外のアスファルトは、月光を反射して冷たく濡れて見える。路面のあぶらは青白く光っていて、海はこんな色だったかもしれないと思った。考えてみたら、おれだって海に行ったことはなかった。ましてやいもうとはどうして海に行きたがったのか。そんなことも知らないのだ、おれは。だのに、海へ向かっている。海に近づいている。いもうとだった物を、はじめて行く場所へ、捨てようとしている。光はおれの目の奥を焼いて、そして脳をしめつけるようだった。脳みそから絞り出された何かが、あふれてしまいそうだった。
「海って冷たいよな」
「冬なんだから当たり前だろ」
 ごまかすように発した意味の分からないおれの言葉に、春田は至極どうでもよさそうに答えた。それがすこし、うれしかった。春田のきつく歪んだ、そのくせたれ目がちの瞳は海を知っていて、その目は、ただ前を向いている。そして、おれの言うことになんか目もくれはしない。そのことはなんだか、おれにとって救いのような気がした。この曲がった背骨に添え木をされないことは、まぎれもない許しだった。この小旅行はそういう旅だったのかもしれない。気づけばステレオのロック・バンドは、愛の歌を歌っている。そういえば春田は、車酔いはもう大丈夫なのだろうか。

 すこし眠ってしまっていたらしい。ダッシュボードの上に粗雑に置かれたデジタル時計は、五時過ぎを示している。音楽がちいさく絞られていることに気付いて、すこし気恥ずかしくなった。春田は相変わらず前をまっすぐと見つめていて、いつもの眠たげの姿勢とは、やっぱりぜんぜん違っている。空にはまだ陽は昇っていなくて、濃紺の暗い色をしていた。けれどその奥には、確かに朝の気配がにじんでいる。この空が、子供のころは嫌いだったことを不意に思い出した。でも今は、そんなに嫌いではない。いつからそうだったのかはもう、思い出せない。
 春田の動かす車は、まもなく高速を抜けて、通常道路へ降りた。海はもう、すぐそばまで来ている。半分まどろみに浸かったままの身体を無理矢理起こして、硬いシートに座りなおした。座ったままの睡眠に身体は軋んでいて、でもなにか清々しかった。東のほうから、すでにうっすら、空は白み始めている。
「もう少し寝てたっていいんだぜ」
眠たげに緩んだ声で春田が言った。視線はやはり、前へ向けたままだった。
「いや起きるよ。海は近いだろ」
ちょっと窓開けるぜ。一言断って、スイッチを押す。今回は少し、窓が滑らかに開いた気がした。間近に迫った朝焼けと海岸線の気配に、風はわずかに湿った匂いを含んでいる。濡れているほどに冷たい風は、瞳に染みて少し痛い。眠気を残した脳みその隙間に入り込んでいくようで、やさしい感傷を呼び込んだ。気づけば煙草を取り出していた春田が、こちらに一本差し出してくる。受け取ってそのまま、春田とおれの両方の煙草に火を点けた。それはどこか、神聖な儀式のようなまなざしを帯びていた。
 いもうとは、まりなは水色が好きだった。日曜日の朝起きだして見るアニメのヒロインたちも、決まってあの子は、青とか水色の子が一番かわいいと言って譲らなかった。そのキャラクターたちがプリントされたソーダ味のチューインガムが好物で、それをいつも食べたがって、だけど虫歯になるといけないから、一日一個までの約束をしていた。すこしくせっけで、おさげに結ってやると二つ角が生えたみたいで愛おしかった。そばかすがあって、きっとこの子は太陽に愛された子なのだと思った。おれと同じ、左目尻の下にほくろがあって、そこをよく指でなぞった。晴れた日の海風のように暖かく笑う子だった。目を細めて、まぶしいものを見るみたいにいつも笑っていた。咳をするみたいなあの笑い声が、今でも耳元で聞こえる気がした。
あの子に今も、生きていてほしかった。
 堰を切ったようにあふれた涙は塩辛くて、頬を静かに濡らしていく。三日前に出なかった涙は、今この時零れた。おれはまりなに、生きてほしかった。生かしてあげたかった。生かしてあげられなかった。春田はただ黙って、おれの話を聞いていた。気づけば車は停まっていて、おれは海についていた。短くてすこし長いこの旅は、すでに終点を迎えていた。

 止めようと思っても止まらないので、泣いたままにおれは一度砂浜へ降りた。冬の海はどこか寂しく殺風景で、浜も海の色も、もやがかかったような色をしていた。写真で見たようなエメラルドや紺青ではなく、いもうとが好きだったような薄水色をしている。初めての海は別段輝くこともなく、朝もやの中でただそこに有るだけだった。生きるなんてことは、そんなものなのだろう。
 車に残っていた春田が、数分してこちらへやって来た。砂浜色のコートが風にはためいて、いくぶん歩きづらそうに見える。冷えた風が顔に当たって、涙は流れたはしから冷たくなっていく。骨は良いのか。春田が笑って聞いてくるので、思い出した。おれはそのためにこんなところまでやって来たのに、まりなの遺骨の事を、すっかり忘れてしまっていたのだ。でも、それでいいのだと思った。だってこれは、結局のところおれのための旅でしかないのだから。弔いの仕方は、いくらだってあった。
 海から吹く風は口を開いて迎えると、すこししょっぱい。涙は潮の味がして、命は海を内包しているのだと思った。この肉体と散逸した魂の中、その奥の方に、きっと誰もが海を抱えている。おれも春田も、そしてまりなも、あの小さなからだの中に薄水色の海を持っていた。あの子が亡くなって流れる涙はきっと、あの子のからだの中にあった海が、溢れてきているのだ。おれがまりなを想って流す涙はすべて、まりなの内にあった海の残滓なのだろう。今柔らかく湿った潮風の中で、おれは確かにそう思った。いつの間にか明けた空が、赤と紫と、海のようなペイル・ブルーに染まっている。

 車中に戻って、また一本煙草を吸った。無事家へ帰ったら、春田には一箱煙草を買ってやらねばならないだろう。泣いたばかりの瞳に、紫煙は少し目にきつい。吸い終えると、それまで静かにしていた春田が、ニヤつきながらあの奇天烈なおにぎりを差し出してきた。
「泣いたらちょっとくらい、腹が減ったんじゃないのか?」
「そういう感じで食べるもんでもないだろ、これは」
 でも、確かに腹が空いていた。まともに腹が減ったのは、久しぶりな気がした。食事には、ある一種の罪悪感が伴っていて、食欲はなにか刑罰のように喉を締め付けていた。まりなのことを思い出すからだ。あの子の死に姿を思い出すからだ。それでも生きているから、食事をする。飯を食べる。おれは生きているから、そのために必要なことをする。意を決しておにぎりを口元に運ぶと、海苔と白米とうっすらレモンの爽やかな匂いがした。若干尻込みしながらかじる。存外大ぶりな具が入っているようで、一口目から『レモン揚げ』とやらが口内に飛び込んできた。柔らかくて硬くて苦くてしょっぱくて酸っぱくて脂っこくて、そして妙に爽やかだ。
 味の是非はあえて言わないが、味見をさせろと言って一口食べた春田は、その味を「ハズレの芳香剤」と評していた。
 帰り道では、なにか美味いものを食べてから帰りたい。その前にひとまず、おれは眠ることにした。あの子と同じくせっけの髪からは、べたついた海の匂いがしている。

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