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【パリの日々】冬の足音と高村光太郎

noteの更新が少し空いた。

その間にパリはぐっと寒くなり、朝の気温は10度を下回る日も増えてきた。
これがこちらの「秋」なのかもしれないが、毎年、秋をじっくり味わうことなく気が付くと冬を迎えている感覚があり、それが年々強くなる。季節が多様性を失っていって、夏と冬ばかりが長くなるように感じる一年。私が知覚しないだけで、自然は小さな変化を日々しているのだとも思うけれど。

朝外に出て、想像以上の冷気に顔を刺され、頭の中に大事にしまわれていた高村光太郎の詩が降って来る。

冬の言葉。

冬が又来て天と地とを清楚にする。
冬が洗ひ出すのは万物の木地。

天はやつぱり高く遠く
樹木は思ひきつて潔らかだ。

虫は生殖を終へて平気で死に、
霜がおりれば草が枯れる。

この世の少しばかりの擬勢とおめかしとを
冬はいきなり蹂躙する。

冬は凩の喇叭を吹いて宣言する、
人間手製の価値をすてよと。

君等のいぢらしい誇をすてよ、
君等が唯君等たる仕事に猛進せよと。

冬が又来て天と地とを清楚にする。
冬が求めるのは万物の木地。

冬は鉄碪を打つて又叫ぶ、
一生を棒にふつて人生に関与せよと。
(『レモン哀歌――高村光太郎詩集』集英社文庫、2007年、96-97頁)


この詩が呼び起こされるほど寒さが鋭かったと言ってもそれは一瞬のことで、日が差せば丸い秋の光は優しく、午後の陽だまりでは憩うことができる。
私の生活も甘えたものだ。蛇口をひねればお湯が出、火をおこさずとも温かい食事ができ、マンション共有の暖房は勝手に入る。
人間手製の価値を捨てては生きていけない。ずっと前から、時代がそうだ。

けれど少なくとも、冬の声を聞くその耳だけは持っていたいと思う。冬が裸にする自然に、身の回りの範囲で気付く感性を忘れたくないと思う。
季節がなくなっていると嘆くのは簡単だが、それをやり過ごしているのは人間の怠慢だろう。

そして、大それたことは何もできないが私の仕事を淡々としよう。不満を垂れる口を閉じて、手を動かそう。



好きな日本の作家と尋ねられて、一人にしぼることはできないが、詩人と聞かれたら迷わず高村光太郎と答える。
永井荷風のフランス愛に私は少なからず影響を受けていると以前書いたが、高村光太郎を魅了したパリとはどんな町なんだろうと、日本から出たことのない当時の私も惹かれた。知りたかった。


私は流れ着いてフランスに来たわけではない。偶然と必然の見分けはたまにつかないのだけれど、自分が選択して今パリにいる。
地に足をつけてと言うが、この土地に少しずつ根を張って歩いて行くんだと、決意を新たにさせられる冬の初めの(ような)朝である。