著作者_andrewXu

6-4.運命的回転式抽籤器

ねぎぽんです。ワークショップのデザイナーとファシリテーターをしています。

このテキストの全体像は「目次」をご用意しましたのでご覧ください。


シンクロニシティからスタートしたインプロと幸せを結ぶ道のりをまとめていきます。

ぼくがいまのぼくであることに何か理由があったわけではありません。偶然にこうなったのです。もちろん、望んでそうなったところもあるでしょうけれど、誰と出会い、何が起こるかは、誰にも決められません。

偶然がぼくに限りを与えます。ぼくには経験できたこともあったし、経験できなかったこともる。そのために、見えるものもあれば見えないものもあります。ぼくは有限です。

有限さを恨んでも呪っても限りがあることに変わりはありません。その有限さを受け入れたときに「幸せ」は降りてくる。マインドフルネス瞑想もポジティブ心理学も、いままで学んできた知恵は、そう教えています。

インプロとともに「イエス」と言うことを学ぶことの意義がそこにはあると思うのです。


以下7850字です。


6-4. 回転式抽籤器

強制収容所の体験を背景にして語られるような切迫感には薄いけれど、マーティン・セリグマンのポジティブ心理学もチクセントミハイのフロー理論やフランクルのロゴセラピーと根源的な価値観を同じくしている。フロー感覚はただの快楽とは異なる。あっという間に消え去ってしまうだけの快楽に対してフローの充足感こそ人生に持続的な意味を与えるものだとセリグマンは考えている。そして、フローを生み出すためには自分だけの「強み」を活かすことが肝要である。

 「強み」と聞くとポップな響きを感じるものだけど、セリグマンは「才能」と「強み」を分けて考えている。「才能」は高いIQ、絶対音感、容姿の美しさや走る足の速さである。「強み」は誠実さや勇気、思いやりや独創性といったものである。一般的に前者が生まれつきそなえたものならば、後者は後からでも育てていけるものだ。

 どれほど練習をしても天才ランナーの速さには追いつけないし、どれほど入念にメイクをしても天性の女優がもって生まれた美しさには及ばない。だけど、もって生まれた何かを「どこ」で活かすかという可能性は誰にも開かれている。セリグマンによれば才能は精神的=道徳的なものとは無縁だが、強みは精神的=道徳的なものである。

 「精神的=道徳的」(moral)とは、要するに人と関わることにある。足の速さを存分に輝かすだけなら無人の曠野を駆け抜けてもよいわけだし、絶世の美女は極北にひとりいたとしても美しいままだけど、優しさや思いやりを人と関わらずに発揮することはできない。

 反対に言えば、どんなに優れた才能をもっていたとしても人との関わりのなかで強みにできなければ一片の価値をもつこともないのである。類まれなる才能をもちながらも身を崩して転落していった有名人やスーパースターの名前を誰もが一人二人は挙げられるだろう。彼らは才能を強みに変えることができなかったのだ。

 フロー経験がこの「強み」に関わるものであるとすれば、フロー経験がもたらす意味も世界や人との関わりのなかに宿るものなのだと理解できる。どれほど努力をしても世界や人との関わりを実感できず、そこから有意なフィードバックを得られないとき、人は酷い学習性無気力へと落ち込んでしまう。反対に世界や人と有益な関わりができている実感があれば強いモチベーションを得ることができる。そのときまさしく強みを発揮しているのだ。



天職のアイロニー

佐伯胖は『「わかる」ということの意味』においてド・シャームの「自己原因性」の感覚をもって動機づけの根源的な感覚であると指摘した後で、しかし、自己原因性を発揮するだけなら無人の空間にひとり自己の才能を発揮していても充たされうるし、あるいは教室や職場で突如机をひっくり返して周囲の注目を浴びるような行為でも充たそうとすることができると指摘している。そのうえで、自己満足的に充足される自己原因性だけでは不十分で他者との関わりのなかで共に何かを作ったり、何かを学んだりするプロセスが必要なのだと結論づける。佐伯はそれを「相互原因性」と名づけている。

 ここで佐伯の相互原因性とセリグマンがチクセントミハイから学んだ強みによるフローは同じことを論じていると分かる。強みは自分がもっているものと他者がもちかけてくるものとががっちりと噛みあったときに生成するものだというわけだ。

 セリグマンは、自分だけの強みを生かす術を見いだすことができたら、それが世界に貢献できる天職になると言う。天職とは(フランクルの使命に相当するものだけど)自己目的的に情熱を傾けて献身することのできる仕事のことである。だから、天職の形は使命の形が人それぞれであるように人によってまるで異なる。

 したがって、仕事をこなすだけのものと思って地位と収入だけに熱心な医師の仕事を天職と認めることは難しいものであるし、反対に社会を清潔で健康的にしようという熱意をもって取り組むゴミ清掃員の仕事は天職であると、セリグマンは語る。自分だけの強みをもって他者や世界と関われているかが、ここでも問われている。

 ただし、これはとても皮肉な話でもある。というのも「自分だけの強み」と聞けば誰しも輝かしいものを想像するし、「天職」と聞けば誰しも得たいものと思うけれど、でも、その結果がゴミ清掃員だとしたら、どうだろうか。自分の天職はゴミ清掃員であると果たして心の底から思えるものだろうか。これは職業の貴賤の話をしているのではない。

 ぼくたちの暮らす社会には厳然としたステータスが存在する。ゴミ清掃員という仕事は決して社会的なステータスの高い仕事ではない。だから「子どもたちがなりたい憧れの職業」といったありがちなランキングの上位に選ばれることもない。

 病院という場において医師はステータスのとても高い仕事であり、それに比して病院の清掃を行う仕事は(それがどれほど重要な仕事であっても)日のあたる仕事ではない。誰でもできる仕事とみなされていつでも替えがいると思われている仕事である。医師と比べれば待遇も収入も大きく違う。そういった諸々の現実を踏まえたうえで、それでもゴミ清掃員が自分の天職だと思えるには相応の諦念と覚悟が求められると思われる。それはそう簡単なことではないだろうし誰にもできることでもないだろう。


「自分だけの強み」という言葉には「落とし穴」があるように思う。つまるところ、その「強み」が果たして「私」が見たかったものや「私」が欲望していた自分の姿とは、一致しないかもしれないということだ。

 「強み」という言葉に思い描いている姿は大概の場合輝かしい社会的な自己としての姿、すなわち「ミー」としての欲望の対象である。しかし、それを追いかけているかぎり、皮肉なことに「強み」は遠ざかってしまう。その逆説に気づけたときに「私」ではない誰かになろうとするD動機を手放して「私」自身の姿を認めようとするB動機を受容できるのだ。この断念はとても大きなトランジションだ。でも、ここを経験しないかぎり「私」は誰にもなることはできない。いちど死を受容するノーマンズランドの旅を経ないかぎり「私」の幸福を手にすることはできないのだ。

 結果、手にした幸福は思っていたほどのものではないかもしれない。収入に反映されるものではないかもしれない。たとえば、家の裏手にある川の河川敷を毎朝きれいに掃除することに落ち着くかもしれない。毎朝掃除をしながら出会う人とかわす挨拶が他に替えることのできない自身の存在感を与えてくれるとしたら悪くない。

 社会的地位や大きな収入をもたらすものではないけれど、それを受容できたとき誰かを追い求めていた「私」は「いまここ」に存在する唯一無二の「私」へと変わることができる。セリグマンのテーマは世界にたった一つの自分だけの幸福を探すことにあったのだけど、この「私」へとたどり着くことこそ、その幸福「Authentic Happiness」へと至る道だというわけだ。


セリグマンのポジティブ心理学が教える「幸福」はマインドフルネス瞑想や東洋哲学の教えにきわめて近しいものだ。東洋の叡智はこの世界が無常であること、色即是空であることを教える。この世界に絶対の喜びもなければ絶対の苦しみもなく、苦しみは受け取り方を変えれば苦しみではなくなるのだ。

 「いまここ」に有るものではないものにはなろうとしてなることはできない。そうではなくて、むしろ「いまここ」に有ることの価値を肯定することを東洋の叡知は教える。井筒俊彦の論じたマーヒーヤとフウィーヤの差異で言えば、フウィーヤの絶対的な肯定こそ「幸福」へ至る道なのだ。


インプロのシーンは無限の可能性に満ちている。空を飛びたければ空を飛べるし、宇宙に行きたければ宇宙にも行ける。何でもできるし、どこへでも行ける。プレイヤーの望むままだ。でも、誰かになることだけはできない。インプロのシーンに持ちこめるのは自分の身体それきりだから、自分以外の何ものかになることだけはできないのだ。

 インプロを演じていていつも思うことは「もっと奇抜なアイディアが出せたらいいのに」「もっと笑いを取れたらいいのに」「もっと主役を演じられる花があったらいいのに」ということばかりで、要は「ないものねだり」をしているわけだ。だからこそ、それが自然にできてしまう他のプレイヤーがとても輝かしく見えたりもする。でも、これが自分なのだ。彼らにできることがある代わりに自分には自分のできることがあって、そこに差異があるからそれぞれにすべきことが違って分かちあえるのである。それを分からせてくれるのもインプロだ。

 自分にできることとできないことがあることを、自分が限られた力しかもちえない有限な存在であることを、インプロは痛いくらいに見せつけてくれる。しかし、だからこそ、自分にしか埋められない役割があることもまた教えてくれるのだ。後は与えられた役割を自ら引き受ける勇気があるかどうかにかかっている。その勇気ある一歩を踏み出せたときプレイヤーは自身のグッドネイチャーを顕わにするのである。



帰ッテオイデ! スベテ赦ス!

儒教の伝統には「分限」あるいは「分際」という言葉がある。人それぞれに与えられた持ち場や役目が「分」であって、自身の「分」を弁えるとはその任を守ること、その責務を果たすことである。

 この「分」の概念はあまり評判がよろしくない。封建的な社会秩序と表裏一体のものであった歴史の長いものもあり、人間の人生を威圧的に抑圧して決めつけてしまうというニュアンスもある。

 しかし、人には限りがあることも確かなのだ。能力にも限りがあり、命の長さにも限りがある。その限りを弁えることなく「あれもやりたい」「これも欲しい」「あれは嫌だ」「これはやりたくない」と言い続けていたのでは肥大した欲望の奴隷であるだけだろう。


ジャック・ラカンは存在の内部に欠損を抱えたものとして人間存在を考えている。そこから不安定な欠損の空虚を埋めて安定させてくれる他者を求める運動が生まれる。それが欲望の運動である。

 欲望の働きによって人間は欠損の空虚、その空白のスクリーンに自分を充たしてくれるだろう対象の姿を投影する。何も無いところに何かが有るように見るわけで「見えるもの」の彼岸に「見えないもの」を見ようとする欲望の運動は、こうして幻想を生むのである。こうして「あれが手に入ったらもっとよくなるだろう」と欲望する。欲望したものはすぐ手に取りたくなる。そして、飽きたらまた別のものを欲望する。この幻想のサイクルを無限に続けることになる。

 資本主義のサイクルは人間の欲望の本質を深く利用したもので、次から次へと新しい商品を生みだしては人の欲望を刺激する。むしろ、次から次へと対象を求める人の欲望が新しい商品を求めると言うべきかもしれない。結局のところ、キャリアについて「あれもやりたい」「これも欲しい」「あれは嫌だ」「これはやりたくない」と迷いつづけるのも欲望と幻想が織りなす無限のスパイラルに嵌りこんでいるに等しい。実際「資格商売」や「学習商売」ほどきらびやかな夢を煽る商法もない。

 ネット環境とSNSが発達した現在、永遠に幻想に浸っていられるインフラは非常に充実している。情報は絶えまなく流れていき、輝かしく生きている人たちのキラキラしたキャリアをずっと追っていることもできる。ブログやSNSでその姿を配信する行為自体がビジネスなのだ。

 だから、気をつけなければ無限に膨張していく幻想に取りこまれて身動きが取れなくなってしまうこともある。「分」を弁えることの意義は欲望の無限の運動に有限な歯止めをかけることなのではないかと、ぼくは考える。


   ***


人間は「見えるもの」に決して飽き足らず、それ以上の「見えないもの」を見ようとしてしまう。「いまここ」にある世界の遥か彼方に未知の世界があると思いたくなるのである。そうして「見えないもの」を見ようとする欲望が幻想を生みだしていく。恋愛でさえいま目の前にいる「あなた」に「あなた」以上の理想的な何かを望み見てしまうから胸が躍るのであって、だから、幻想を夢見る力は想像力と同じ力なのだ。

 人間の認識にはどこかでかならず幻想の作用が働いている。そして、それこそ人間が人間である理由でもある。というのも、動物はいま生きている世界に外の世界があるなどと思いだにしない。

 人間は幻想と無縁ではいられない。幻想ゆえに生の苦しみを覚えたとしても幻想なき生を生きることは難しい。だから、無限に肥大していく幻想に振り回されることを止めるためには自分自身の有限さを自覚する必要があるとぼくは思う。幻想が幻想を生む状態から幻想を生みだしている自分自身の欲望を引き受けることへと態度を変容させることが、そのスイッチになるはずだ。D動機からB動機への切り替えである。

 それをぼくはインプロで学んだ。インプロのイエス・アンドは見ることのできないものがぼくと相手の間にはかならず存在すること、ぼくが見ようとしていることが相手には見えないものであること、ぼくの見たいものを相手が挫くことがあること、そういったことを理解させてくれた。

 実人生に反映させてみれば、夢は夢でしかなく、夢は共有されるものではないこと、夢にはかならず限りがあることをインプロは教えてくれた。でも、それは愚かな夢など見るなという禁止では決してなく、愚かな夢を見ようとする愚かさは自分自身に引き受けなければならないということを分からせてくれたのだった。

 畢竟、愚かさの穴埋めを他者に求めることはできない。自ら愚かであることしかできないのだ。ここで愚かさとは根源的な欠損を意味している。だけど、愚かさは絶望を呼ぶだけのものではなく、引き受けることができたならばかけがえのない魅力を与えてくれるものでもあることを忘れてはならない。なぜなら、グッドネイチャーは「非-知」の愚かさに宿るわけなのだから。


インプロは自身が限られた存在であることを嫌というほど経験させてくれる。自分の嫌なところもたくさん見ることになる。反面、魅力的なところ、それこそ「強み」といえるものにも気づかせてくれる。そのとき、インプロが実践のスキルであることを改めて思わされる。

 インプロバイザーとして熟達していく過程で、来し方としての過去の時間をしっかりと見つめ、現在起きていることに責任をもって関わり、到来してくる未知の未来を歓待するという、時間への歪みのないアプローチができるようになっていく。それが幻想による屈折なく自身を見つめること、ラカンの言葉を使えば「幻想を横断する」ことだと、ぼくは実践してきて思う。インプロを学べば誰もが幸福になれると請け合うことはできないにしても、しかし、インプロから学べることは幸福になるために確かに力になるものだと信じている。


   ***


ぼくたちに潜む記憶のひとつひとつがビーズ細工のビーズだと想像してみたい。生きていれば経験とともに日々記憶のビーズが増えていく。バラバラにしたままでは思い出すこともままならないから、ぼくたちは記憶のビーズを一本の糸で結んで、ひとつの形にしていく。丸であったり、三角であったり、四角であったり、もっと複雑な形をしているかもしれないけれど、こうして出来あがった形のことを、ぼくたちは自身の性格や個性、アイデンティティとして普段は認識している。そして、この形の枠組みを通して外の世界を覗き見ているのだ。

 さて、枠組みは認識の縁、要するに限界なのでこの枠組みに入ってこないものを見ることはできない。だから、いまの枠組みではよく見ることのできないことが突然起きたりすれば、正常に認識できずに意識は混乱してしまう。苦しい経験である。その苦しみは枠組みの限界が原因として生まれてくるものだから、それをなくそうとすれば枠組みを結んだ糸を一度断ち切って、記憶や経験をもとのバラバラに戻してやる必要がある。

 この糸を切るということは手にしていたものをすべて手放してアイデンティティをも喪失してしまう経験なのだから、痛みを感じるのも当然のことである。でも、心配しすぎることはない。また結びなおして新しい形を作ることはいつでもできるのだ。

 レヴィナスが語るように人は傷つきやすい存在である。「私」を結ぶ糸はとても細くて切れやすい。だけど、たとえ切れたとしても何度でも新しい糸で結びなおす力もまた人には備わっている。治癒への力を信じること、それはたとえ傷ついてもそこから回復する力が自身にはあると信じることだ。いわば「傷つく勇気」をもつことなのだ。その勇気こそ唯一無二の学びを導くのである。

 トランジションの本質はここにある。トランジションを経て、積み重ねてきた過去は根底から揺さぶられて新たな形へと再結晶していく。それが奇跡的なシンクロニシティへと着地させることができたなら、死からの再生であり、本来的な自己への変容であり、ヴァルター・ベンヤミンに倣えば、メシア的な時間なのだ。


数多あるベンヤミンのテクストのなかでも最愛のテクスト『一方通行路』の一編「帰ッテオイデ! スベテ赦ス!」を最後に引いておきたい。

鉄棒で大車輪をするひとのように、誰しも少年のときには、みずから回転式抽籤器となって回転するものである。すると、ひとにより速い遅いの差はあっても、そこから当たり籤が落ちてくる。じっさい、ぼくらが十五歳ですでに知っていたか実行していたかしたことだけが、やがてぼくらの魅力を形成するのだ。だからこそ、両親から離れる機を逸してしまうと、このことはけっして取り返しがつかない。あの年頃に四八時間ほど見棄てられた状態を経験すれば、そこからは、ある種のアルカリ液のなかからのように、生の幸福の結晶が析出されてくる。

この詩的なテクストをいまの文脈で読み解くとすれば、まず「籤」の意味するところは偶然である。いま有るようにしか有ることはできず、他のように有ることはできず、そして、訪れるものにも逆らうことはできない。そのような偶然である。しかし「幸福」という当たり籤は運命のまわす偶然の回転からしか落ちてこないものなのだ。

 そして、その「幸福」は「少年」の経験からしか生まれてはこない。世間ずれした親=大人の価値観からではありえない。親の象徴する大人の世界は偶然などそもそも許さない。逸脱することさえ認めない。畢竟「幸福」は親を拒むことなしには見出せないのである。すなわち、親から「見棄てられた」状態、その寂しさの経験をしないかぎりには、手にすることはできないのだ。だからこそ「幸福」にはひとりの時間が必要なのだ。大人の語るマーヒーヤを離れて唯一なるフウィーヤへと辿りつけるのは子どもの孤独がなければならない。

 それゆえの「帰ッテオイデ! スベテ赦ス!」なのだ。偶然は必然からの逸脱を導く。思ってもみなかった出来事に未来の道筋は狂わされていく。他の大勢とは遠く離れることになり、苦しい時間をひとりで過ごさなければならないこともある。運命を呪い嘆くこともあるだろう。それでも、そのすべての経験を「赦ス」のである。自分のものとして認めて、自分のもとへと再度「帰ッテ」くるように自身の声で呼びかけるのだ。

 ベンヤミンの詩的な言葉で彩られたテクストは多様な読解を許すものだから、ぼくの読み取りは、ぼくの欲望に導かれた偏りあるものであって、決して正しい読み方ではないかもしれない。けれど、ここにある「籤」「少年」「見棄てられた状態」「幸福」という言葉を反芻するにつれ、これほどまでにインプロ的トランジションをリリカルに描き出したテクストも他にないと思うのである。


【了】

画像著作者:andrewXu
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