著作者_Thomas_Leuthard

4-6.インプロ的物語 / W.Benjamin

ねぎぽんです。ワークショップのデザイナーとファシリテーターをしています。

このテキストの全体像は「目次」をご用意しましたのでご覧ください。


インプロは脚本のない演劇ではあるけれどストーリーがないわけではありません。むしろ、物語はインプロになければならないものです。その場で即興的にストーリーを作りながら進んでいくことにインプロのインプロたる由縁があるものです。

ストーリーのでき方にスパイスをかけるのもインプロらしさで、そのためにワンワードをはじめとしていくつものゲームが用意されているわけです。インプロの物語について書いていきたいと思います。


さて「物語」という言葉は多分に問題含みなものでもあります。たとえば、アーサー・クラインマンの影響を受けた一部の医療者には「物語」といえば患者の経験が表れでた善いものであるかのように無条件に受け取られている節も感じられます。

たしかに物語は患者の病いの経験を生々しく伝えてくれるものではありますが、しかし、ブリーフセラピーやミルトン・エリクソンから学んだように、患者の語る病いの語りが苦痛の色の一色に塗りつぶされて語られるべき他の色を語れていないことも往々にしてありえるものです。

大切なことは、物語には「語られたこと」とともに「語られなかったこと」もまたあるということであす。それを忘れて語られたことばかりに目を奪われていてはよろしくはないでしょう。

畢竟、物語は語ろうとする欲望と聞こうとする欲望が交差したところに生まれてくるものです。物語を語ろうとする欲望と物語を聞こうとする欲望にはつねに警戒を怠ってはなりません。さもなければ、自分の語りたいことだけを語り、聞きたいことだけを聞いてしまうことにもなりかねないからです。


インプロの物語についてはヴァルター・ベンヤミンを参照することにしましょう。ベンヤミンは物語に潜む暴力に敏感に気づいていた人でした。同時に救済と解放もまた物語によってなされるべきことを考えた人でした。

ベンヤミンは哲学者ではなくて文筆家だったので体系的な思想的著作を残していたわけではないし、彼の書くテキストには詩的イメージに富んだ抒情的なものが多くてその思想的エッセンスを汲みとるのにとても苦労するものですが、彼のテキストに浮かぶ「痕跡」「夢」「星座」「アウラ」「救済」「メシア」といった言葉はとても魅力的なものです。


以下17800字です。


4-6. インプロ的物語 / W.Benjamin


4-6-1. 瓦礫のメシア

英語の「history」に相当するフランス語の「histoire」やドイツ語の「Geschichte」には「物語」と「歴史」の二重の意味がある。ナポレオン・ボナパルトが「フランス革命の英雄」であるのか、あるいは「ワーテルローの敗北者」であるのか、彼の命の意味を決めるのは物語の終局に現れる言葉であるように、物語と歴史は終局から意味が決定されるという点で一致する。かつてヘーゲルは「ミネルヴァの梟は迫りくる黄昏に飛び立つ」と言葉を残した。梟は知恵の女神ミネルヴァの眷属である。知恵すなわち物語で語られるべき意味とは暮れ方、すなわち「終わり」においてやっと決められるのだ。

 畢竟、すべての物語は後ずさりしながら語られる。物語の筋は始まりから始まって終わりで終わるものだが、その生成は終わりから始まって始まりで終わる。すなわち、結末が定められてからその結末に沿うようにして物語は構成される。だから、すべての物語は「終わり良ければ総て良し」なのだ。

 では、物語が終わりから語られるものであるのなら、その終わりにおいて物語を語るのはいったい誰だろうか。ナポレオンの物語はナポレオン自身には当然語れない。死人に口なしである。彼の物語は彼が死んではじめて彼ではない誰かの口によって語られることになる。物語を語ることができるのはいつだって物語が終わる時点で生き残っている人間なのだ。物語は生者の視点によって語られる。物語はつねに生者の物語であって死者に語ることは許されない。


物語には「語られるもの」と「語られないもの」が存在する。生き延びた者によって語られるものが物語であるのなら「物語るに値するかどうか」という出来事の評価もまた生者だけに許されるものである。ナポレオンが「英雄」なのか「敗北者」なのか、それはナポレオンをどう語りたいかという生者の欲望の望むままなのだ。「英雄」として語りたければナポレオンの失敗や汚点は無視されるだろうし「敗北者」として語りたければナポレオンの功績は踏みにじられるだろう。

 「語られるもの」によって「語られないもの」は隠蔽され、抑圧されてしまう。死者の生きた痕跡を生きた者が好き勝手に語るのが歴史の物語であり、死者を好きなようにしてよいというのが生者の特権なのだ。

 だから、物語=歴史は抑圧と支配のツールとなる。日本と中韓の間で歴史認識が問題になるのも歴史の物語が政治的な性質をもつことの証左だ。「英霊」という意味づけにおいては日本兵の蛮行は認めがたいものであり、「鬼子」という意味づけにおいては日本兵の人間性はありえないものとなる。どちらが正しくてどちらが間違っているというのではなく、どちらも自分たちの都合のいいように語っているだけにすぎない。

 いずれにしても、すでに死んでしまった日本兵に「真実」を語る機会は残されてはいない。しかし、いちど語られた物語は生きている人間の認識を拘束する前提となる。物語を語る力をもった存在は自身の語る物語の意味に逆らう読み方を他者には許さない。


   ***


歴史の物語となるとスケールが国家的なレベルにまで大きくなってしまう。要するに物語とは意味の文脈を固定してしまうことである。「語られるもの」の語られ方を固定して「語られないもの」が語られることを抑圧する装置なのだ。これはすべての物語に共有される構造である。

 現在の時点で「失敗だらけの人生だった」「何をしてもダメだ」という意味づけで人生を振りかえれば、人生のいたるところに失敗やダメさばかりを見ようとしてしまう。そして、成功したことやよかったことの記憶には何も語らせようとはしないだろう。あるいは、この部下は能力がなくて使いようがないという文脈を手放さなければ、部下のやることなすことすべてに失敗やわきの甘さばかりが目について、部下自身が努力したり工夫したりしていることをまったく見ることができないだろう。


一般的に物語は文脈を固定してしまう。それに対して、インプロの物語は対極的な物語を語ろうとする。なぜならば、そこにイエス・アンドがあるからだ。ひとりのプレイヤーがどれほど「こうあるべきだ」と意味を決めつけてオファーしたとしても、そのオファーを受けた他のプレイヤーはいとも容易く別の意味でイエス・アンドしてしまう。物語の文脈はイエス・アンドの毎に切断され、また繋ぎなおされていく。

 イエス・アンドがある限りインプロは文脈を固定することができない。文脈をひとつに固定しえないこと、それがインプロの語る物語の特徴だ。それゆえに、インプロの経験は、文脈を固定しようとする物語の魔力に抗する力を教えてくれるものとなる。



廃墟の物語

物語が伏在させている支配と抑圧の問題について語るとしたら、それをぼくはヴァルター・ベンヤミンから学んだ。ベンヤミンは、生き残った勝者が死んでいった敗者を支配するための権力の媒介装置としての歴史=物語の本質を誰よりも早く見抜いて、そして、そこに潜む暴力性を批判しつづけた人だった。

 1892年のベルリンでユダヤ人の大資産家の家に生まれたベンヤミンは1920年代に文芸批評を中心に独自の知的業績を残した人である。その後、ナチスドイツの歴史=物語の台頭とともに生きる場所を追われていく。一時、パリに逃れて若かりしジョルジュ・バタイユと交友をもったりもしたのだが、アメリカへと渡ろうとした旅の途中、ピレネー山脈越えの際に検問に止められてしまう。将来に絶望したベンヤミンは非業の自死を選んだ。1940年のことである。

 ベンヤミンは哲学者ではなくて文筆家だったため体系的な思想的著作を残してはいない。そして、彼の書くテキストには詩的イメージに富んだ抒情的なものが多く、その思想的エッセンスを汲みとるのにとても苦労する。でも、彼のテキストに浮かぶ「痕跡」「夢」「星座」「アウラ」「救済」「メシア」といった言葉に魅せられて「歴史の概念について」をはじめ、彼の著作は幾度も繰り返して読んだ。

 いちばん影響を受けた哲学者といえばメルロ=ポンティだけど、いちばんかぶれた思索家といえばジョルジュ・バタイユかヴァルター・ベンヤミンだと思う。井筒俊彦に出会うのはもうすこし後の話になる。


   ***


ベンヤミンは歴史=物語への抵抗を終生考えつづけた人だった。物語は過去にあったことを物語るものだけど、しかし、物語に語られる過去そのものではない。というのも、過去を語る物語はすべて現在の物語であって、現在の視点から過去として再構成されたものが過去として物語られる過去なのである。

 だから、過去に死んでいった死者が現在の物語において語ることなど許されない。生者は自分の都合に合わせて死者を語る。生者の語る物語にとって不都合な死者の多様な姿はすべて忘却され、否認され、抑圧されるのである。したがって、物語を語ることのできる生者こそがつねに勝者であり支配者である。

 ベンヤミンの生きた時代は帝国主義爛熟の時代である。「進歩の物語」は絶対的な神話だった。産業と軍事の力による全世界の分割統治を西洋列強が果たすことができたのも弛まぬ進歩を遂げたからであって、それは西洋自身の努力による成長だった。進歩が人間の定めである以上すべて人間は進歩を遂げなければならない。現在は未開で劣った文明の諸民族もいずれ進歩していかねばならず、西洋諸国は後進諸国を啓蒙して進歩させていく歴史的な使命もまた背負っている。誰もがそう信じていた。

 こうして支配は進歩によって正当化された。進歩のプロセスにおいて滅ぼされ、殺され、破壊されてきたものも無数あった。輝かしい先進文明の光の陰には夥しいほどの死者と瓦礫が積みあげられていたのである。


ベンヤミンはつねに敗者の側に立とうとした人だった。語られた光は語られなかった陰をかならず伴う。ベンヤミンによれば、文明の語る物語はすべて文明によって破壊された「廃墟」の物語にすぎない。

 光の陰に隠された廃墟は語られずに消えていった敗者たちの痕跡である。現在には決して見届けられないという意味で廃墟の世界は絶対的に過去の領域にある。だから、陰の世界に眠らされたもの、読まれなかった痕跡、思い出されなかった記憶、そうした記憶と痕跡の救済をベンヤミンは願った。

 ベンヤミンにすれば物語=歴史こそ闘争の最前線だ。生きた支配者の語る物語=歴史を死した敗者のために奪い取ること、敗者のために物語=歴史を書き直すこと、物語=歴史を別様に語り直すこと、それはすべて激しい闘争なのだ。そこに彼の求めた救済と、そして革命があるはずだった。


   ***


敗者とは誰のことかもう少し補足したい。「進歩の物語」は終局(ゴール)がひとつに定められた物語である。進むべき道はひとつであって、誰もがみなそこを目指さなければならない。この道から零れ落ちた者が敗者となる。支配される定めを負わされる。支配の物語は物語の文脈をひとつに固定してしまう。他の文脈の価値を認めることはありえない。

 西洋近代文明にとって進歩とは、西洋近代文明を受けいれることであり、西洋となることだった。アジアやアフリカ諸国に根づいた、それぞれ固有の文化や価値観は蒙昧野蛮なものであって矯正されねばならない。要するに、勝者による支配の物語は一様であることや等質であることを求める。畢竟、敗者とは勝者の物語から零れ落ちてしまった多様性や異質さにほかならない。


歴史的に生起する出来事はどれを取ってみても個別で多様であるはずだ。繰り返されるものはなくて、すべて一回限りである。けれども、物語は起きたすべての出来事のなかから語るに値するとみなしたものだけを取り上げて同一的な意味づけのもとで語ろうとする。すなわち、進歩と成長を言祝ぐ物語であれば、過去の無数の出来事のなかから進歩と成長が成功したケースだけを反復して選び出して物語へと綴りなおしてしまう。

 つまるところ、物語とは出来事をそれが根づいている文脈から切り離し、根こそぎにして語りたい文脈にあわせて都合よく並べ替えることである。植物や昆虫をそれが生息している環境から引き剥がして、殺し、等質で無機的な保存ケースへとしまいこんで「モデル標本」としてしまうことに等しい。したがって、歴史の物語は脱文脈的で抽象的な観念の物語なのである。それは表象による暴力である。


ベンヤミンが抗おうとしたナチスの物語もそうだった。ナチスの歴史=物語は「アーリア民族」や「ユダヤ人」と一般化され抽象化された表象=言葉で語られていた。アーリア民族もユダヤ人もそのような一様な塊ではありえず、無数の個別性であったはずだ。単一の物語に回収されてしまわない多様性を備えていたはずである。それなのに、ユダヤ人はすべてアーリア人によって浄化させられる運命にあるとして物語は語られたのだった。

 だから、歴史=物語の暴力から多様性や一回性を救い出して回復させてあげなければならない。そうして歴史の物語の破壊することで、閉じこめられていた出来事を解放するのである。抽象的で「観念的」な物語に対して個別具体的な文脈の多様性は「物質的」である。だから、ベンヤミンは物語=歴史の解体による死者の救済を目論む自身の方法を「歴史的唯物論」と名づけた。

 この歴史的唯物論の視点からすれば、様々な歴史的事件は大事件と小事件との区別をされてはならず、かつて起こったことは何ひとつとして歴史から見て無意味なものとされてはならないとされる。救済の物語はそのようなものとして語られなければならない。そのときはじめて人間は支配の物語から解放され、過去を完全な形で手にすることができる。

 このとき過去のあらゆる時が、生きた瞬間のすべてが引きだされ、引用され、語られうるものとなる。このモーメントを、ユダヤ人ベンヤミンは「黙示録」に重ねて、最終審判の日、すなわち「メシア」の到来する時間として語っている。


   ***


起きたことすべてが隔てなく物語として語られるモーメント、ここにベンヤミンの物語とインプロの物語が交錯する。インプロはシーンに起きてしまったことを否定しない。肯定を続けて世界と物語を生みだす。シーンの最中にどれほど予想外のこと、どれほど不都合なことが起きたとしても、それをチャンスとしてイエス・アンドをすることがインプロバイザーの本懐である。

 優れたインプロのシーンには「無駄」がない。プレイヤーよって生みだされた数多くのオファーはすべからく結びついて、何ひとつ無駄にされずに物語を作っていく。反対に残念なシーンはせっかく生まれたオファーにプレイヤーが気づけずにアイディアを流してしまうようなケースである。

 インプロのゲームには強制的に偶然の出来事を引き起こして、それをシーンのスパイスにしてしまおうとするゲームがたくさんある。どれほど不測の出来事が起きたとしても否定せず、イエス・アンドをしなければならない。

 「ペーパーズ」というゲームは、事前に観客から好きな単語や好きなセリフを紙片にたくさん書いてもらい、その紙をステージ上に撒いておいて、プレイヤーはシーンを演じながら、その最中に紙片を拾ったならば、そこに書かれていた言葉やセリフを即座に口にしてシーンを演じなければならないというゲームである。どんな言葉、どんなセリフが出てくるかわからない。見ている側もドキドキするシーンが出来あがる。たとえば、実家の親が訪ねてくるのを待っている夫婦のシーンだとすれば、

A「まだ来ないな」

B「そろそろだと思うけど、お義父さん」

A「もう来てもいいころだけど、(紙を拾う)、『幼稚園』、幼稚園にまた寄っているんじゃないか」

B「最近、近所のお子さんと遊ぶのが楽しいって言ってたものね、(紙を拾う)、『法律』、法律を作る堅い仕事をずっとしてたから、意外ね」

C「遅くなって、申し訳ない」

B「こんにちは、お義父さん」

C「(紙を拾う)『ハワイ』、ハワイのお土産だ」

A「ハワイなんて、いつ?」

いまは紙の代わりにFacebookの新規アナウンスをランダムにクリックして出てきた言葉を使って作ってみた。案外、穏当な作りになった。けれど、すべての言葉は偶然にシーンにやってくる。「幼稚園」や「法律」といった言葉は父親のキャラクターを深めるのに活かされていて、対して「ハワイ」は幼稚園に寄るのが楽しみにしているという父親のストーリーを大きく転換する意外な要素として物語を動かしていく。


「ペーパーズ」では紙を開くたびにまったく脈絡のない言葉が登場して、それまで作ってきた、そして、これから作ろうとしている文脈をぶつ切りにしてしまう。偶発的な言葉の到来はきわめて外傷的な出来事でプレイヤーを慌てふためかせる。

 しかし、だからこそのイエス・アンドである。どんな出来事でもチャンスとして、シーンに特別な色彩を与えるものとして、物語へと織りこんでしまうのだ。どの紙を拾うかはまったくの偶然だ。同じ紙を使って同じメンバーで演じたとしても毎回出来上がる作品は違うはずである。

 一回きりの出来事を活かしきることに、このゲームの面白さがある。登場した言葉は大切なギフトであるから無駄にしてはいけない。ときに、あまりにバラバラで、まったくまとまりがつかないような言葉が並ぶこともある。どうしたらいいのかと混乱してしまう状況で右往左往することもある。

 でも、このゲームはそうなってからが本番なのだ。苦しみ、迷っているときに奇跡のようなアイディアが下りてくることがある。すべてのアイディアがひとつに結びついて物語をエンディングへと導いていくような奇跡が、だ。シーンに起きた出来事が、大きな出来事も小さな出来事も分け隔てなく、ひとつの物語へと結びつけられていく。それは、まさしく恩寵的な経験であり、メシア的な出来事である。大切なことは、イエス・アンドを止めないことだ。イエス・アンドこそ奇跡を呼びこむただひとつの方法であり、それゆえに希望の方法ともなるのである。


インプロの物語に終わりは定められていない。だから、瞬間に生まれた一回きりの出来事は着地すべき物語に回収されることなく、生まれたまま中空に乱舞することになる。しかし、一回きりの出来事は脆く、儚くて、放っておけばその場で掻き消えてしまいもする。だから、イエス・アンドをするのだ。イエス・アンドは、生まれたばかりの出来事をそのまま死なせることはせずに次のオファーへとつなぐことであって、その命を救う行為にほかならない。

 インプロのシーンに生まれたオファーに価値の軽重はない。意味も無意味もない。すべてのオファーは対等なものとして繋がれていく。すべてのオファーがイエス・アンドで結ばれたとき、決められていた結論には依存しない、物語ならざる物語が語られることになる。

 インプロの物語は誰か特権的なプレイヤーが語ったものではない。プレイヤー全員と観客が共同で生みだした物語であり、言ってみれば場の語る物語である。物語が救済の輝きをもって場を希望へと導くとき、それはまさしくメシア的なモーメントだ。



メシアの扉

起きてしまった出来事は否定せずに一回きりの出来事を組み合わせて作られる唯一の物語、それがインプロの物語である。それに対して、ベンヤミンの語る歴史的唯物論はすでに語られた物語を破壊して語られなかった者たちの物語を語り直すことにある。語られた物語を語りなおそうとするベンヤミンの物語と、語られていない物語を語ろうとするインプロの物語には確かに差異がある。

 インプロの物語が到来する未来と向きあっているのに対して、ベンヤミンの物語は過去に語られたものを見つめている。それでも、ベンヤミンの物語とインプロの物語が重なりえるとすれば、インプロの物語もまた過去の痕跡をつねに背負って語られるものだからだと考えている。

 インプロバイザーは未来を生きようとする。しかし、それはただの未来ではない。過去に浸食された未来である。インプロバイザーのオファーは未来に向けて投げられる言葉であるけれど、しかし、その言葉は発せられた瞬間に過ぎ去ってしまった痕跡として場に刻まれるものでもある。刻まれた痕跡として場に蓄積された記憶は次のオファーを拘束し制限していく。

 畢竟、インプロとは記憶の痕跡を場に徹底的に刻みつづけることにほかならない。過去を重ねに重ね、あるときふっと未来が訪れる。それがインプロの見せる奇跡の舞台裏である。過去に無縁でいられるインプロバイザーなどありえない。すべてのインプロバイザーは過去に憑りつかれた存在だ。


眼差しを未来へと向けながらも身体は過去に憑りつかれている。その矛盾した有り方こそインプロという表現の、ひいてはインプロバイザーという存在の本来的な有り方である。インプロのゲームには「タイムジャンプ」という象徴的なゲームがある。

 インプロバイザーはプレイヤーとしては未来に進むことしかできない存在だが、物語の役としては過去のシーンを演じることも必要だ。タイムジャンプは、ひとりがディレクター役となって任意のタイミングでシーンの時間軸をジャンプさせるゲームである。はじめのシーンを現在とすれば、その10年前、5年後、好きな時間の見たいシーンへと飛ばすことができる。家庭での夫婦のシーンで見てみよう。

A「あなたって、ほんとうに優柔不断ね」

B「慎重に進めたいだけだよ」

A「そんなこと言って、いつも決めるのはわたしじゃない」

B「そんなことはないさ。大事なことはいつも自分で決めてきた」

A「いつそんなことがあったのよ」

B「結婚の約束はぼくからだったじゃないか」

(タイムジャンプ! 結婚する前のふたり)

B「結婚の挨拶はちゃんとぼくからするから」

A「知ってると思うけど、わたしのお父さん、厳しい人よ」

B「わかってるさ」

(タイムジャンプ! 結婚の挨拶のシーン)

C「そうか、美紀と結婚をしたいというのか」

B「はい」

C「君は、美紀と妹の美香とは幼いころから仲良くしてくれていたな」

B「はい」

C「そういえば、以前、君は美香のことが好きだと言っていたな」

B「え、ええ」

C「本当のところ、美紀と美香と、どちらの方が好きなんだ」

(タイムジャンプ! 最初の現在のシーン)

A「結局、決められなかったじゃない」

B「そんなこと決められるわけないだろ、美香は、もう死んでしまったんだから」

このような具合で進んでいく。タイムジャンプのシーンではインプロバイザーは未来を向いて過去を語る不思議な語りをすることになる。過去を語れば語るほど、未来にあたる現在のシーンは色彩を深めていく。反対に未来にむけて語るたびに過去の出来事の痕跡は別の色彩で語りなおされていく。

 インプロのシーンにおいて、未来に影響を与えることのない過去は存在せず、未来に向けて語ることはつねに過去の文脈を揺るがせることに等しい。過去と未来の相互作用、過去と未来の往還がインプロのシーンにダイナミズムを生みだしていくわけだ。そして、忘れてはいけないことだが、過去と未来の交錯が起きるのはつねにシーンにプレイヤーが生きる現在においてにほかならない。


   ***


ベンヤミンが救済の希望と解放の期待を語るとき、その眼差しは過去に向けられていた。過ぎ去ったもの、消えていったもの、敗れていったもの、死んでいったもの、彼らの痕跡が余さず読み取られるときそれが救済と解放の時なのだ。メシアは「未」だ「来」たらざるものとして「未来」から訪れるものだが、しかし、かならず過去という門を通って訪れなければならないのである。

 読書家だった(読書家を超えてマニアだった)ベンヤミンにとって語られた痕跡とは書かれた本のことだ。本は誰かがどこかで生きた証を書きつけた痕跡そのものである。そこで彼、過去という本には「密かな索引」が付されていると言っている。密かな索引は過去の解放を仄めかす。だから、それを読むことのできるぼくたちにはみなひとしく過去を解放するメシア的な力が付与されている。

 すなわち、ベンヤミンにとって過去の解放や救済とは過去を繋ぎ止める文脈から切り離してやることだった。本や本に書かれた一節は現時点でそれを留めておく文脈の物語に拘束されている。ニーチェはドイツ的精神の象徴とされマルクスは共産主義の聖書とされる。でも、ニーチェもマルクスもその意味に定められるべきものではない。そこから逸脱して漏れ落ちる異質なものが彼らの著作には無数潜んでいる。

 だから、密かな索引のあるところをそっと開いて、書かれたことを別様に読み直してみるのだ。それこそ読書家としてのメシアである。過去はこの能力に期待しているのだ。ただし、あまりにささやかな過去の眼差しであるため気づくことはなかなか難しい。


救済を望む過去の呼び声に応じることは簡単ではない。というのも、ベンヤミンによれば、一回かぎり、さっとひらめくイメージとしてしか過去の真の姿は訪れず、ちらりと現れてすぐに消えてしまうものだからだ。

 過去を過去にあったように繰り返すだけでは過去の救済たりえない。語られた過去をいま語られているままではなく別様な姿として語りなおすことが必要なのだ。過去を縛りつけている文脈を断ち切って、解放された姿として、取り上げてやらなければならないのである。

 ベンヤミンが好む引用の比喩を使えば、過去を過去の文脈から引用して「いまここ」の文脈へと繋ぎなおすことである。そのとき過去は過去に与えられた意味から解放されて別の意味へと生まれ変わることができる。しかし「いまここ」は一瞬しかありえない。過去と未来との交錯は「いまここ」の瞬間だけに訪れる。だから、気づくことさえ至難なのだ。


メシアの役割は過去を別の姿へと導くことにある。ベンヤミンにとって救済と解放の対象はつねに過去にあったものたちである。ベンヤミンは左派知識人であり、当時マルクスを学んだ者として「革命」の可能性をつねに考えてはいたけれど(彼のメシア論は革命論と等価だ)多くの革命論が現在の救済と解放を求めていたのに対して、ベンヤミンの革命論はつねに過去の救済と解放を論じている。

 ベンヤミンは革命を脱文脈的なものとして考えたくはなかったのだ。過去の歴史や出来事をすべてなかったこととしていきなり未来に解放された世界を描くことは、彼には空疎な空論に思えたはずだ。あるいは、革命というゴールを定めてしまえばそれが進歩の代役として新たな抑圧の物語を生みだしてしまうことを懼れたのかもしれない。

 ベンヤミンは個物の存在、個別具体的な文脈にこだわった。過去の多様性を救い出すことはもちろん重要なテーマだったが、「いまここ」に生きている「私」もまた唯一で固有の名をもった存在である。だから、ベンヤミンのメシア論は、過去の声を聞き届けて過去のイメージをつかみとるメシアとしての役割を果たすことで、反照的に自分自身もまた救われうるという希望を描いたものだったのだ。それは、意志的で意識的な行為であるよりは、むしろ、気づいたときには過去に呼び止められ、選ばれ、憑りつかれてしまっていたという運命的な出来事である。


   ***


過去を救済する瞬間は未来として訪れる。未来の訪れを現在において受容することは「いまここ」でする過去との約束にほかならない。約束はそれが成就される未来からすれば遥か遠い過去になってしまうであろう現在において交わされる誓いである。

 しかし、未来はまったき偶然性として誰にも予見できない。予見できないものを約束するわけだから約束は本質的に不可能性を孕んでいる。「約束を破ってはいけません」と安易にひとは言うけれど、約束とは不可能なことを約束するから約束なのであって、狂気の沙汰に近しいものなのだ。

 「約束」がベンヤミンとレヴィナスの両人にとって重要な言葉だったことには触れておきたい。レヴィナスにとって、約束は他者への責任=応答可能性であった。理解を絶する他者の訪れを受け入れたことで「私」がぐちゃぐちゃに混乱して「私」がもはや「私」でいられなくなったとしても、この訪れを肯定することを意味する。ベンヤミンにとって、約束は「いまここ」に一回きりしか訪れないイメージとして過去を受けとめることで「いまここ」の姿として過去をいま一度生きさせることを意味する。

 ベンヤミンの約束とレヴィナスの約束、その双方をイエス・アンドとして同時に実践してしまうのがインプロバイザーなのだ。「いまここ」という現在にあって、いまだ訪れぬ未来と彷徨いつづける過去、その両者に我が身を供物として贈与するインプロバイザーの有り方はベンヤミン的であるとともに、レヴィナス的でもある。

 インプロバイザーに無限の力を与えるのはイエス・アンドという約束の力だ。約束には裏切られる可能性がつねに潜んでいる。しかし、それさえも怖れないイエス・アンドは、たとえ別様な形であっても約束はかならず成就させるという賭けにも似た狂気的な行為である。ただし、何もかも蕩尽させてしまおうとする跳躍のさなかにしかメシアは訪れてはこないのである。



4-6-2. 夜空のアウラ

ハンナ・アーレントの伝えるところには、読書家ベンヤミンにとって引用文だけからなる書物こそ理想の書物であったそうだ。自分で書いた文章の一行もない書物、すべて他者からの借用からなる書物、それは文章を書く存在としての作家に対する強烈なアイロニーだ。一般的に作家はオリジナルな文章を書くものと考えられているものである。

 人の真似をすれば盗作だと非難されるのが世間の常識だ。そこをベンヤミンは人の書くものなどすべて過去から引用にすぎないと言ってのける。いま「私」が書くことのできる文章は、過去に「私」が読んできた書き手たちの記憶の引用であり、反復であり、その積み重ねが「私」を通して現れ出ているにすぎない。その比喩的な物言いが「引用だけからなる書物」なのだ。記憶の交差点としての「私」、それは「オリジナリティ」の安っぽさと対極にある。

 ただし、引用はコピーや丸写しとは異なる。引用は引用される個所をもとあった文脈から引きぬいてくる行為だ。テキストを一部分だけ切り離して、元の文脈から遊離させ、別の文脈へと接木すること、それが引用である。

 ある文章から引きぬいてきたテキスト、別の文章から引きぬいてきたテキスト、それぞれ別々の意味で語られてきた痕跡が別の場所で出会わされ、繋ぎあわされ、まったく別の意味をもって語られるようになる。だから、引用は本質的に差異を生む出来事である。引用だけからなる書物には過去の痕跡に別の生を与えるという理想が忍ばされているのだ。


「引用だけからなる書物」にはベンヤミンのメシア的な希望が潜んでいる。引用による過去の救済には「破壊・収集・配列」の三つの要素がある。「破壊」とは、引用個所を引きぬいてきてそれまでの文脈から切り離すことである。文脈によって固定されていた意味が宙に浮く瞬間である。「収集」とは方々の引用個所を集めてくることである。それぞれ元の文脈は多様である。引用個所は過去の文脈の記憶を保ちながら元の文脈とは遠く離れてやってくる。「配列」とは、集めてきた引用部を出会わせていくことである。それまでまったく無縁であった記憶たちが未知の出会いを果たしていく。そして、元の文脈とはまったく違った姿でつなげられ、結びつけられ、形を作っていくのである。

 こうして多様な文脈から切り離されてきた別個の記憶たちが新たな文脈でひとつに出会わされて、新たな関係を結ぶとき、そこに新たな意味が訪れる。このときこそ過去が別様に読まれる「現在性」(アクチュアリティ)の瞬間であり、この瞬間に閃くイメージを逃さぬことでメシア的なモーメントへの扉が開かれる。


   ***


ベンヤミンは可能であれば永遠に本を読んでいたかったし、世界のすべての本を引用したかった人だったのではないかと思う。しかし、それは決して叶わない願いだ。人の命には限りがある。限られた命のなかで読むことができる本、触れることができる記憶もまた有限である。いつかどこかで区切りをつけなければならない。そのとき手元に集めることができた記憶だけが配列され結び直されることになる。だからだろうか、ベンヤミンは殊更に「星座」(コンステラツィオーン)の比喩を愛した。

 星座は漆黒の夜空に浮かぶ星々が作る形である。星々は個々独立に輝いていて、星座の形は決して領域を形成するものではない。そして、星と星を結ぶ線も夜空に書かれているものではない。人の眼差しが不可視の関係をそこに重ね見るだけである。だから、星と星が結びあう関係性は絶対のものでも不易なものでもない。いま結ばれている星座の形は(幼いころのぼくは星図の上に落書きをして新しい星座を作るような遊びが大好きだった)いますぐにでもバラバラにしてつなぎ変えることができるのだ。

 ベンヤミンにとって、引用されてきた個々の記憶は夜空に輝く星々に等しい。星座を作る星々は有限個の星だけど、しかし、同じ星々からは同じ形しか作れないということはありえない。繋ぎ変えることでいくつもの形を作りだすことは可能である。いつだって別様の形を作ることはできる。あたかもビーズを星のように詰めこんだ万華鏡がひと回転をするごとに無限に多様な組みあわせの光彩を見せてくれるように。だから、引用してきた記憶も何度でも並べ替えて別様の関係性を作ることができるのだ。

 ベンヤミンが「革命」(revolution)に万華鏡の「回転」(revolution)を重ねたのはただの言葉遊びではなかった。ひと回転するごとにまったく新しい組み合わせを万華鏡は見せてくれる。星座とはこのような組み合わせの形にほかならない。回転は何度でも反復する。その度に形は新たになる。だから、万華鏡の回転は永遠に差異を生成しつづける永遠回帰の円環だったのだ。


星座というイメージにベンヤミンは人間の有限さを託したのではないだろうか。限りのある人間にはすべてを語り尽くすことも、読み尽くすこともできない。しかし、いま手元にある記憶を並べ替えることで新たな意味をもたらすことはできる。記憶に新たな命を吹き込んで救い出すことさえも不可能ではない。

 しかし、星々は手元に残された記憶であって、近づくことを許された痕跡であることを忘れてはならない。目に見える星々は漆黒の夜空を背景に輝くものでもある。輝く星々の姿は地まで届いて目にすることができた光である。だが、夜空の暗闇の内には光を届かせることのできなかった無数の星々もまた潜んでいたはずなのだ。

 ベンヤミンは煌めく星の光に魅せられながらも輝くことのできなかった星々への思いを忘れることがなかった。彼の歴史的唯物論は輝けなかった星たちへと向けられたものだったはずだ。辿ることのできた記憶の陰には辿ることのできなかった記憶が隠れている。それもまた人間の有限さの定めであるが、そのことを忘れてはならない。いつか突然、見えないものの闇のなかかに記憶の灯を見いだすことがあるかもしれない。


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インプロバイザーのオファーは個々のプレイヤーのスタイルから生まれてくる。人間の感覚が新たに刺激された際、過去の記憶が感覚と結びついて知覚が形成される。スタイルは人間の身体に染み込んだ記憶の作用であって、刺激が知覚へと形づくられる過程で知覚に歪みや綾をつけていく。

 畢竟、新たに訪れた感覚と過去の経験の記憶がその刹那に取り結ぶ関係性の「星座」が知覚なのだ。インプロバイザーは自身のスタイルを通すことで、他者のオファーをイエスして自分のオファーをアンドする。オファーはその人の身体の文脈に深く根付いたものであって、その人の存在そのものとさえ言えるものである。しかし、オファーは他者へと送られたら即座にイエス・アンドされてしまうものである。こうしてオファーは元あった文脈を遠く離れていくことになる。

 ぼくのオファーは引用されうるぼくそのものだ。しかし、程なくぼくは引用されてしまう。すなわち、彼にイエス・アンドをされることで彼の文脈へ、すなわち彼の身体へと接木されていく。しかし、その彼の文脈さえも別の誰かからイエス・アンドをされて切り離され、その誰かの身体と結びついていく。

 インプロのシーンはそうやって文脈の離接と接合が反復される場である。とはいえ、永遠に運動を続けていられるわけでもない。芝居には「尺」がある。人生にいつか終わりが来るのと同じように物語にも必ず「終わり」が来る。終わりにおいて刻み込まれ送り交わされた出来事の痕跡たちが「いまここ」に生まれたひとつの「星座」として結晶することになる。


ベンヤミンは一回限りのものへの眼差しを忘れることのない人だった。そして、インプロバイザーもシーンに生まれてきた一回限りの出来事を肯定しようとする存在である。しかし、シーンにはそもそも生まれてくることのなかった出来事もまた潜んでいる。早すぎた一歩あるいは遅すぎた一歩のために成就しなかったオファー、一瞬の逡巡で発することのできなかったオファー、いくつかの選択肢のなかで迷って決断したイエス・アンド、そういった生まれてこなかった出来事がインプロの無のステージには数え切れないほど沈んでいる。

 インプロの場には、生まれてきたオファーの痕跡だけではなく、生まれてこなかったオファーの記憶できない記憶までもが積み重なっている。だから、インプロバイザーはシーンを終えた後に「あのシーンは、他にどんな選択肢があった?」とか「あそこでは、どんなオファーが欲しかった?」といった振り返りを共演者としたくなるのである。それは、観客も同じことで「きょうの世界はほかにどんな世界になる可能性があっただろう」や「自分がプレイヤーだったらこんなアイディアを出すのに」といったことを思い思いに語りあう。

 でも、きょう出会えた世界はただひとつだ。同じ場所、同じテーマ、同じプレイヤーで演じても同じシーンは二度生まれることはない。無数に有りえた世界のうち、たったひとつだけ、今日この場で生まれてくる世界となることができる。今日この場で生まれた星座はこの形だったのである。「いまここ」に結晶できる世界は唯一であること、それが否定しようのない真実である。

 だから、一回限りのものへの眼差しは、他にも無数の存在がありえた可能性のたったひとつの現実の姿を肯定する眼差しにほかならない。一回限りの唯一性とは「いまここ」の関係性の内に実現した唯一つの星座の姿かたちなのだ。


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ベンヤミンの時間感覚とドゥルーズの時間感覚には似たところがあると感じている。ドゥルーズ&ガタリが駆使した「アレンジメント」(agencement)という言葉はベンヤミンの「星座」に近しいものに思えてならない。ただし、ドゥルーズが星座が生まれ、解け、また生まれるという動的な運動に焦点を当てていたのに対して、ベンヤミンは「いまここ」にひとつの星座が生まれるその瞬間、時間の結晶、一瞬の静止に重きを置いているように思える。

 ドゥルーズからは、たとえ人が滅びても自然はそれ自体として動きつづけるのだといった感覚を覚えることがある。それに対してベンヤミンからは、この瞬間に生まれてくる形を結晶化させたいという願いを強く感じる。輝けなかった星々の輝きは「いまここ」の瞬間を逃しては永遠に失われてしまう。だから「いまここ」に認めることができたなら、この瞬間をずっと留めておきたいのである。

 しかし、彼の願いは時間に抗おうとする不可能な願いである。当然、次の瞬間には崩れてしまうものにちがいない。それでも、それが「いまここ」の瞬間の真理として生まれてきた「理念」(イデア)の形、一回きりの解放と救済の形なのだ。


「理念」を星座として論じた「認識批判的序説」の一節でベンヤミンは「理念」は規則を寄せ集めたものではないと述べている。「理念」は硬化した尺度などではなく、生成と解体の交錯から生まれてくる具体的な姿を備えたものである。ドゥルーズの「理念」が差異化=微分化する潜在的な力に満ちたものであるのに対して、ベンヤミンの「理念」は異化=分化した星々がこの瞬間に結びついて生みだした結晶のように思われる。

 この興味深い対比を、ぼくはインプロのシーンが生成していくプロセスとインプロのシーンが生成した瞬間の対比として考えてきた。インプロのシーンが展開しているとき、個々のプレイヤーのオファーは差異化=微分化の潜在性を最大限刺激している。インプロのシーンにはどんな世界もどんな出来事もありえる。しかし、シーンが終わりへ向けて収束していくときには異化=分化して現勢化されたオファーの痕跡がひとつの物語へと収斂していく。ここにシーンの星座が生成する。両者どちらもインプロに欠くことのできない要素である。


ドゥルーズは運動を愛した哲学者だった。個別な単独者であることを意味する「モナドロジー」と動きつづけることを止めない遊牧民を意味する「ノマド」をかけた「ノマドロジー」は彼を象徴する言葉にもなった。しかし、それでもドゥルーズは対談集『記号と事件』において「動きすぎてはいけない」「遊牧民とは動かない者たちのことである」と述べている。

 「動きすぎてはいけない」とは人間の有限性を意味する。人間は永遠に動いていることはできない。疲れてしまうこともある。足を挫いてしまうこともある。無限の差異化=微分化を続けることはできない。どこかで、異化=分化しいた姿に結晶せざるをえない。ドゥルーズにとって、他者に接続することで生成変化を生むことが「意味」だとしたら結晶化は「非意味」的な他者との切断である。

 しかし、それはドゥルーズにとって否定的な事態ではない。晩年のドゥルーズは英国の哲学者アルフレッド・N・ホワイトヘッド「セルフエンジョイメント」(self-enjoyment)という概念を好んだ。「セルフエンジョイメント」とは自分に満足することである。

 ホワイトヘッドの哲学は「有機体の哲学」と呼ばれる。世界に存在する個物が他の世界のすべての存在と結びついて一個の存在として現成するという宇宙観に基づいている。ホワイトヘッドはアインシュタインの相対性理論やボーアの量子論に学ぶことで独自に相互依存と偶然性に依拠する有機体の哲学を考案したのだが、それは大乗仏教の縁起に非常に近しい宇宙観であった。実際、ホワイトヘッドの有機体の哲学をキリスト教神学に取りいれた「プロセス神学」と称するグループは仏教との対話を盛んに行っている。

 ホワイトヘッドの「一即一切・一切即一」の哲学において無数にありえた関係性のうち偶然「いまここ」に生起した出来事としての個物として、その有り方を肯定することが「セルフエンジョイメント」である。だから、セルフエンジョイメントする個物は永遠不変の個物ではなく、世界に存在する無数の個物がひとつの関係性として縮約したものである。まさしく「星座」として。

 他に有り様もあったけれど「いまここ」にある関係性に満足すること、そして、いま自分の内にひしめく多様な存在を肯定すること、それがセルフエンジョイメントである。ドゥルーズはこの「自己に満足すること」と「動きすぎてはいけないこと」を同一視ししていた。いまある接続を肯定することはそれに繋がれない他者を切断することであるが、しかし、この有限性を認めなければ満足することはできない。さらなる繋がりを求めてしまえば満足は許されないはずだ。

 インプロのシーンは無数の星座を作る。もしかしたらこの物語=星座ではないものができたかもしれない。意味の深いシーンではなく意味のよくわからないナンセンスなシーンになってしまったかもしれない。でも「いまここ」に生まれたことはその意味も非意味もすべて肯定する。それがセルフエンジョイメントにほかならない。これはきわめてベンヤミン的なモーメントだと思う。



物語のアウラ

ベンヤミンの言葉に「アウラ」というよく知られた言葉がある。アウラは「複製技術の時代における芸術作品」というエッセイで印象的に使われた言葉で、映画や写真といった複製技術が芸術作品に与えた影響として「アウラの消失」を論じている。

 芸術作品がそなえる一回きりの感覚がアウラである。大画家の名画はそれが架けられた場の空気を相まって唯一の存在感を放つ。あるいは劇場で演じられるオペラやコンサートはその瞬間だけに感じられる感動を与えてくれる。しかし、写真や映画といった複製技術による芸術はどこでも何度でも反復することができる。大画家の名画も複製技術によって世界中のいたるところで見ることができるようになった。こうして複製技術は芸術からアウラを引き剥がしたのである。

 もっとも、ベンヤミン自身それを嘆かわしい事態だとは考えておらず、複製技術時代だからこそ可能となる芸術の有り方についても論じている。とはいえ、一回限りにしか閃かない過去のイメージにこだわって歴史的唯物論を語るときのベンヤミンは、やはりアウラ的感覚について語っているのではないだろうか。


人間の有限さはすべてを語ることも、すべてを読むことも、したがって、すべてを救うこともできない人間の限界である。人間は永遠でも無限でもありえない。しかし、だからこそ、一回きりのアウラを纏うことを許されるのではないだろうか。

 メシア的な瞬間がちらりと一回限りのものとしてしか訪れえないものであるのなら、それに応じるメシアも一回限りの存在でなければならないはずだ。有限さは地に生きざるをえない存在の悲しみであるとともにメシアとしての光輝を宿すものにもなりえるのではないだろうか。天上の神にはなれなくとも地上のメシアではありえるのだ。

 インプロの場が希望の光に満ちていくのはメシア的な輝きを招き入れるからだと思う。一回きりの出来事がインプロの場では許され贖われる。よくできたインプロのシーンは神々しくもアウラに包まれてプレイヤーもまたアウラを分有する。このときプレイヤーはグッドネイチャーな姿を余すところなく現している。グッドネイチャーとベンヤミンのアウラは一致する。インプロが個性を認めて唯一性を輝かせるという話は確かだけど、その個性や唯一性とは、一定の形をそなえた不変性では決してなく、唯一の瞬間に溢れ出るアウラにこそある。


   ***


ベンヤミンを読みながらインプロの物語について考えてきた。あらためて物語とは出来事に意味を与えるものである。だから、ぼくたちは誰一人として物語と無縁ではいられない。ぼくたちが何かを書いたり何かを語ったりしてそれが意味あるものとしてやり取りすることができるのなら、そのときぼくたちは物語を語っている。要するに物語が用意する文脈に依存しているのである。

 畢竟、物語は地平に等しい。地平がなければぼくたちは見ることができない。依って立つ地面がなければ視点を確保することはできないからだ。しかし、同時に地平があるからこそぼくたちの視点は限定されてしまいもする。同様に物語がなければ出来事を意味づけることができないが、物語は語られない出来事をときになかったことにしてしまう。限られた視点に固執すればそこで語られる物語の結論は固定したまま動きえない。結論の定まった物語こそ支配と抑圧の物語であるとベンヤミンは指摘していた。

 だから、引用によって物語はつねに切断されていかなければならない。断ち切られ、しかし、新たに接合されることで物語はいつでも語りなおされる。これはナラティブセラピーの理念にも大きく重なるものだ。それは不思議なことではない。ベンヤミンはナラティブセラピーの理論的源泉の一つである。もっともベンヤミンとマイケル・ホワイトの間には幾人もの介在者があるにしても。


結論が定まった物語の地平は安定している。安心感がある。あるいは、物語を身体に宿るスタイルと考えてみれば、自分のスタイルに留まっていれば心地よくいられる。だから、引用される瞬間はとても危うく感じられるのである。地平が切り崩される感覚がするし、身体が脅かされる感覚もする。突然、無重力空間に放り出されるような出来事だ。ときに目もくらむような恐怖を感じ、ときに痛みさえ覚え、できれば拒否したい経験である。しかし、拒みきれる経験ではないこともレヴィナスが教えてくれる通りだ。

 物語を棄て去ること、あるいは、物語を焼尽させること、それはまさしくバタイユ的な蕩尽の感覚だ。この感覚を知っているのと知らないのとでは、いざというときの心の有り方が違う。知らなければ恐怖としてしか感じられないだろう。しかし、知っていれば虚空の孤独のさなかであっても他者の声を聴き、他者の訪れを認め、他者の差し伸べた手をつかむことができるはずだ。かつて根を生やしていた地平を喪っても、その喪失のなかに別の意味を見出す力を認められるようになるはずである。それこそがメシアの訪れであり、救済の奇跡を起こすイエス・アンドの神秘なのだ。


【了】

画像著作者:Thomas Leuthard
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