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4-1.インプロ的体験 / G.Bataille

ねぎぽんです。ワークショップのデザイナーとファシリテーターをしています。

このテキストの全体像は「目次」をご用意しましたのでご覧ください。


マインドフルネス瞑想とインプロについて書いてきました。ここからは哲学の領域に足を踏み入れていきます。これを書くことが最大の目的でした。

ぼくは哲学を長く学んできました。ときに文芸批評、社会学、人類学、心理学、美学芸術論だったこともありますが、その根はすべて哲学にあります。そして、インプロに出会ったとき、ぼくが学んできた哲学の実践がここにあると感じたのでした。

ぼくにとってインプロは哲学の具現化そのものでした。哲学の研究よりも哲学の実践を心に抱いていたぼくにとってインプロは理論と実践を繋ぐ唯一無二のインターフェイスになったのです。

なによりうれしかったのは、インプロなら誰にでもその価値が「分かって」もらえるということでした。哲学的な話はとても「ハードルが高い」もので、それが分かる人には通じても、そうではない人には興味さえもってもらえないことが多々ある。

でも、インプロを利用することで、哲学で語るのと同じことを誰にでも理解してもらえるようになる。対話の可能性が大きく開ける。これは大きな喜びでした。


いままでも東洋思想や現象学に即してインプロを語ってきたけれど、それよりももっと奥行きと深みをもったものとして語ることができます。

はじめに取り上げるのはフランスの思想家ジョルジュ・バタイユです。バタイユは「生の肯定」「いま生きている感触の強度」「沸騰する力の感覚」などにこだわって自身の思索を組み上げていった人です。

バタイユの思考を辿りなおすことで、インプロバイザーがインプロの瞬間に経験している体験の質について迫っていきたいと思います。


以下11000字です。


4-1. インプロ的体験 / G.Bataille


4-1-1. ゴドーを待ちながら

インプロはすべて即興でする演劇である。すべて即興でするとは事前に約束事が何もない、すなわち脚本をもたない演劇ということだ。事前に物語をもたないという前提で物語を即興で作って演じていく。畢竟、物語なき物語、それがインプロである。インプロは物語の物語り方に特徴がある表現の形式だと言うことがでるだろう。

 物語とは何かを語るものである。では、物語を語るとはどういうことだろうか。ナポレオン・ボナパルトの物語を例に考えてみれば、ナポレオンは「革命の英雄」としても「ワーテルローの敗北者」としても語ることのできる存在だ。すなわち、ナポレオンの熱烈な支持者であれば「英雄」として、彼を憎む者なら「敗北者」として彼を語ることになる。

 「英雄」としての結論で語れば革命や戴冠など彼の偉大なる功績を中心にして物語は叙述されるだろうし、「敗北者」としての結論で語ればエジプトやロシアやワーテルローでの失敗を軸にして語られることだろう。だから、彼の存在したことの意味は「彼を何者として語るのか」という物語の結論、その終局において定められることなのだ。

 ナポレオンが生まれたこと、革命に身を投じたこと、戦争を重ねたこと、皇帝に即位したこと、最後には帝位を追われたこと、セントヘレナ島に流されたこと、これらの出来事はすべてそれ自体で意味をもつことはない。個々の出来事は物語として語られてはじめて意味を有する。これは語用論の考え方に等しい。出来事は個別の言葉でしかない。それぞれの言葉の意味を定めるのは文脈である。個別の言葉の意味を定めるのは物語という文脈なのだ。


サミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』は不条理演劇の代名詞的作品とされている。一般の戯曲、その物語にはかならず「終わり」がある。ミステリーであれば、冒頭に事件が起こり最後に犯人が明らかにされる。ラブストーリーであれば恋人たちのあれこれがあってだいたいハッピーエンドで終わる。そして、悲劇ならば悲しい結末が訪れる。

 物語は終わりによって意味が与えられ、終わりにむけてすべての登場人物のセリフや行動が意味づけられていく。ミステリーを読んでいると結末近くになって「あの登場人物があの時あんなことを言ったのはこのための伏線だったのか」と気づかされる。終局に至ってやっとそれまでの出来事の意味が明らかにされるのである。

 『ゴドー』はふたりの浮浪者が道端でゴドーが現れるのを待ちつづけるという作品である。けれど、作中にゴドーは現れない。最後まで現れない。一般の戯曲であればゴドーはクライマックスに登場してくるはずだ。物語に「終わり」をもたらす役割を果たすためにゴドーは現れなければならない。しかし、ゴドーは現れない。

 現れるはずのものが現れないので、登場人物がなぜここでこれをしているのかが最後まで一切分からない。結果として、登場人物たちは意味の定かではない振る舞いを延々と繰り返すことになってしまう。それがこの作品が不条理だと評される所以である。


『ゴドーを待ちながら』は物語を終わらせるゴドーを拒否する。そのため登場人物たちのセリフや振る舞いはたちまち意味を失っていく。その結果、何が生じたかといえば舞台上でいま起きている出来事、すなわち役者の身体の躍動や役者どうしの相互の生々しい関わりといったものが、結末からの意味づけから解放されて前景に出てくることになった。結果として『ゴドー』は役者の身体へと強く焦点を当てたのだった。

 役者の身体こそ脚本に支配されていた旧来の戯曲では長く抑圧されていたものであった。旧来の戯曲は意味を明瞭に決定するセリフに圧倒的な優位が与えられていたのだった。それをベケットは脚本と身体の地位を逆転させて身体に優位性を与えたのだった。

 意味あるセリフから無意味なアクションへ。この『ゴドー』に強い影響を受けた戯曲家が、実はキース・ジョンストンで、ジョンストンはベケットを演劇上の霊感源としてインプロを考案したのだった。インプロにはその形式上『ゴドー』は現れえない。なぜなら、終局が決められていないことが絶対的な前提だからだ。そのために「いまここ」のインプロバイザーのアクションが絶対的な輝きをもって光りだすのである。



4-1-2. 人と獣を分かつもの

インプロと脚本のある演劇にはやはり差異がある。脚本演劇には演出家がいて10回演じたら10回とも同じように再現するために稽古を重ねる。舞台セットや衣装は念入りに準備されて完成度の高い舞台芸術を観客に提供する。

 それに対して、インプロの芸術的な完成度はやはり劣る。熟達したインプロバイザーはあたかも脚本があるかのように演じてみせることができるけれど、それでも豪奢な劇場で演じられる完成された演劇とは密度に違いがある。そうだとしてもインプロは見る人を惹きつける。魅了してやまない。

 では、観客はインプロのいったい何を見て、そこまで心を動かされるのだろうか。インプロが観客に見せているのもの、観客がインプロのシーンに見ているものは何だろうか。それこそ「いまここ」で演じているインプロバイザーの生である。命の輝きである。

 この秘密を紐解くにはジョルジュ・バタイユの思索に学ぶのが妥当だろう。インプロの瞬間はきわめてバタイユ的なモーメントだ。



知と死と労働

ジョルジュ・バタイユは文学と哲学と人類学の間を自在に渉猟して、禁忌と侵犯、聖性と汚辱、エロティシズムをテーマに論じ、一般的にはアンダーグラウンドな雰囲気で語られることが多い人だ。しかし、後年「エロティシズムとは、死におけるまで生を称えることだ」とさえ定式しているように、彼の思索の主題は一貫して「生の肯定」にあった。

 バタイユによれば生と死の別は動物と人間が分かたれたときに生じたものである。したがって、動物には生死の別がないのだ。では、人間と動物の差異はどこにあるのか。人間と動物の差異はバタイユの思考の絶対的な前提になるので、人間と動物の差異を理解せずに彼の思想を理解することはできない。ここでバタイユは動物と人間の差異を「連続性」「非連続性」の差異に求めている。

 動物とは絶対的な連続性のなかで生きている存在だ。ここで連続性とは自然の大いなる「循環」のことである。季節が春夏秋冬を巡るにように動物は生まれ、食べて、子をつくり、死んでいく。動物にとって自然の循環は絶対だ。そこから逸脱することはありえない。

 満ち足りたライオンが目の前を通る草食獣を襲うことがないように動物は食べることが必要であれば食べ、食べずに済むのであれば食べず、食べるものがなければ飢えて死んでいく。それだけである。サケは長く海を回遊した後に生まれた川にもどってきて、川を遡上し、産卵を遂げれば、そこで死んでいく。そこに望むも望まないもない。そのように本能がプログラムされている。

 個体としては確かに動物も生まれては死んでいく。けれど、そこに個体としての意志があるわけではない。たとえ個体は滅んでも種としては存続していくわけで、そのように存在しているにすぎない。だから、動物にとって生と死は等価だ。これが連続性の意味するところである。


しかし、人間が連続性のなかで生きていくことはできない。サケのように子どもを産みっぱなしのままで定めを終えたと死んでいく生き方は難しい。このようにして人間は個体としての生を捨てられないものとして生きている。個体としての生をなんとかして維持しようともがき足掻くものなのだ。

 食べるものがあれば食べられるだけ食べるけれど、食べるものがなければ飢えて死ぬしかないという生き方も当然人間にはできない。だから、将来食べるものに困らないようにいま食べる必要がなくても食べるものがあるうちに蓄えておこうとする。さらには、食べるものを生産するために環境に手を加えて田畑を作ることさえする。農業や畜産はそうして始まった。人間は与えられた自然の連続性を否定して生きるための世界を作る。この「否定」の力こそ、人間を動物から分離する決定的な分水嶺なのだ。

 もっとも、どれほど努力を積み重ねて世界を作りあげたとしても、嵐や旱魃に晒されれば暮らしはたちまち危うくなり、病気に見舞われれば為す術もなくバタバタと死んでいく。圧倒的な自然の力に対して人間はどこまでも無力な存在である。だから、この自然の猛威に打ち勝つために人間は次なる力を開発した。すなわち、自然や天文の真理を読み解く科学の知を高め、病気を克服する医学の知を磨いていったのである。畢竟、人間の「知」の力の本質も自然の威力を殺して支配するための否定の力にある。

 こうして人間は自ら作りだした不連続性のなかに生きるようになった。この知と否定による不連続性こそ脆弱な生を保存するために人間が編み出した知恵なのだ。「知は力なり」とはフランシス・ベーコンの言葉だけれど「知」こそ人間が自然を支配するために編み出した唯一の武器なのだ。


   ***


科学の知識がそうであるように知は普遍的なものでなければならない。時や場所が違えば変わってしまうものは知とみなすことはできない。今日と明日で変わってしまえば人間の生存の役には立てられない。したがって、知はマーヒーヤ的な本質に属するものである。知は言葉によって記録されるものでもあるので、言語とも一致することになる。したがって、知と言語は一体のものとして人間の生きる世界を構成する。

 ハイデガーは世界の内に存在するものを道具的存在と名づけた。道具にはそれぞれ使用する目的がある。だから、世界は目的に適ったものとして、すなわち合目的的なものとして意味づけられ構成されている。家は人間が暮らすものとして、椅子は腰かけるものとして、コップは水を飲むものとして、ハンマーは釘を打つものとして、この世界のなかに有らしめられている。

 合目的的な世界に関わる人間の行動もまた目的に拘束されている。目的は人の欲望を起動させる。すなわち、暮らすために家を欲し、腰かけるために椅子を欲する。そして、家が欲しければ家を作り、椅子が欲しければ椅子を作る。ここに「労働」が生まれる。労働とは目的にあわせて周囲の環境を変えていくことにほかならない。畢竟、世界を作ることである。


バタイユにとって言葉と知と労働は否定の力として等価だ。すなわち、知の本質的な力は未来の予測にある。自然のただなかで未来は予測不可能である。いつどこで嵐や地震が起きるかわからない。かつて風だけが船を走らせていた時代、風が吹かなくても、風が吹きすぎても船を出すことはできなかった。しかし、いまでは誰でも天気予報で未来の天気を事前に知ることができる。出航か欠航かを事前に決めることができる。

 知は自然の真理を解明することで自然の未来の予測を可能にした。さらに、蒸気機関の発明によって風が吹こうが吹くまいが船を自在に走らせることも可能になった。これで予定した時刻に船を到着させることも容易になった。未来というまったくの偶然性を否定して支配可能な必然性へと変えたのである。自然の生々しさは人工の確かさへとその座を譲ったのだ。

 不確定な未来を確定した未来へ。未来は予定通りにコントロールできる。知は目的を実現するためのプランを人間に与えてくれた。だから、プランは未来を描く物語にほかならない。そしてプランを着実に実行することこそ労働の本質なのだ。ここから言葉と知と労働が「時を殺す」ためのものであることも理解できる。


人間はかつて自然に翻弄されるだけの脆弱な存在だった。見えない未来に怯えて、起きてしまった災厄に震えるだけの弱い存在だった。しかし、知を得ることで事態は一変した。こうして人間は自然を征服したのであった。もはや見えない明日に戦くことはない。未来は現在から固定できる点でしかなくなったのだ。

 こうして人間は自然と未来を殺したのだった。バタイユは人間の備える否定の力を死を与える力と同一視している。人間と動物とを分かつ唯一の能力はまさに「死を操る能力」にある。

 死と知の力が結果として人間に「第二の自然」を生みだす力を与えることとなった。いくら動物的であっても自然の連続性は安定した循環である。自然の連続性のなかには生きられないのが人間の宿命とはいえ、連続的な安定は生存を維持して文化を安定させるために必要不可欠なものでもある。日々の労働をするぼくたちは一日の仕事を終え、ひと月を終え、一年を終えるとまた新たな一年が始まる、そういう循環のなかを暮らしている。その安定がなければ日常生活を営むことができない。

 結果として未来を支配する死と知の力が、非連続にしか生きられない人間の時間に連続性をもたらすことにもなったのだ。自然の連続性から外れた人間は疑似的な連続性を創造することではじめて自然の支配を完成させたのである。こうして人間は「第二の自然」の創造者となった。ここに人間存在の根源的な逆説がある。すなわち、死を与えることでしか人間は自身の生を保証することができないのだ。


   ***


産業革命以来、人間は地球を遍く支配するようになった。科学技術の名の通り知は産業と一体化して地球を覆いつくしていった。そして、世界の至るところその環境を変えていった。科学万能の世紀である。文明は人間に幸福をもたらすはずだった。しかし、そうとはならなかった。知と労働による支配は人間にとってもっとも価値の高いものを喪わせてしまったとバタイユは指摘している。バタイユによれば、人間が喪ったもの、それは生そのものである。

 知は目的(ゴール)を設定する。タイムラインの線上ではゴールはつねに未来にあり、現在はつねにゴールへの途上に置かれる。だから、現在の意味は未来において目的を実現することによってのみ充たされる。現在の障害を克服して目的を達成するという物語は成長の物語と同一視され、近代的な貨幣経済の物語が必ず成長を求めることからも分かるように、成長の物語は近代社会絶対の神話となる。

 こうして現在は未来を実現するための手段へとなりさがる。しかも、その実現は永遠に訪れえない。近代的資本主義は企業に成長を求めるわけだが、成長の証である利益はさらなる成長へとつぎ込まれる。つねに成長へと追い立てられて、資本の運動に終わりはない。


成長の物語は否応なく人間の生にも押しつけられる。達成された目的はさらなる目的のための手段にされ、いつか来るであろう幸福な未来は先延ばされたまま、いつまで経っても手にすることが許されない。大学に入るために勉強をして、就職をするために大学生活を送り、仕事の評価をされるために働きつづけ、目的はどんどん遠ざかって、定められたタイムラインから外れることもできなくなる。

 しかし、人間は未来に生きることはできない。人間が活きられるのはただ現在においてのみである。その現在の価値が果たされることのない未来によって否定されまま生き続けなければならない。そうこうしているうちに「何のために生きているのか」という生の感触は希薄になっていく。


バタイユに従えば成長の物語は未来のために現在を犠牲に捧げる空虚な虚構にすぎない。この物語がはじめに自然を殺して得られたものであるなら、最初に死を与えられた対象は、実は人間自身だったわけだ。以来、人間の生は未来の目的を果たすための現在の手段でしかなった。

 だから、この物語に依存しているかぎり「いまここ」の現在に生きているという生の感触、生の強度は摩耗する一方だ。働きづめで精神や身体をボロボロにしていく人たちをいくらでも見ることのできる現在、自身の命を安全にするために死を与えたはずがそのために自身の生を喪うことになったのである。人間とはあまりに皮肉な生き物だ。



禁忌と侵犯

バタイユの知的挑戦は人間に再び生の実感を取りもどすためにあった。未来に支配された生を投げ捨てて、いま生きている現在、「いまここ」の一点に生の全エネルギーを注ぎこむ方途を考えつづけた。

 未来が目的に等しいのならあらゆる目的もまた破棄しなければならない。未来の意味など放り棄てて、ただ有るだけの現在の「強度」を称えるべきなのだ。とても難しい挑戦だ。なぜなら、現在を否定して未来のために生きることでやっと人間は人間となったのだ。未来を放棄することは動物へと戻ってしまうことさえ意味しうる。

 だからこそ、現在のためだけに生きることは人の知がはじめに禁じた「禁忌」だったのだ。「近親相姦」のタブーも手近な対象で性衝動を満たすことの禁止である。クロード・レヴィ=ストロースが教えてくれたように、人間は直接的な衝動を禁止することで家族システムという世界を作りだしたのだ。それを知ったうえで、バタイユは未来のために生きる不連続な人間の生に現在の瞬間だけに生きる動物的な連続性を戻そうとしたのである。

 バタイユは禁忌と侵犯について語りはじめる。動物のように、食べ、性行為をして、死んでいく、その瞬間、ただ生きるためだけに生きる。人間の世界では無駄遣いや淫らな行為と断罪される行為だとしても、人に禁じられた領域に足を踏み入れる侵犯が皮肉にも生の称揚には必要不可欠なことを知っていたのだ。


バタイユは禁忌と侵犯について論じる際、プリミティブな社会においては侵犯の価値が正当に認められて文化として取りこまれているケースがあることを文化人類学の業績から引用して示している。北米太平洋岸のネイティブアメリカンの社会で広く行われていた「ポトラッチ」という祭礼がそれである。

 ポトラッチは子どもの誕生、成人、婚礼、葬祭など様々な機会に開かれる祭礼である。ポトラッチの場で主催者は盛大な宴会を開いて客に蓄積してきた財物を惜しみなく振る舞うことをする。それは莫大な浪費だ。そして、次の機会に招かれた客がポトラッチを主催する際にはこれ以上の浪費をして見せつけるという浪費の応酬がなされる。ポトラッチは現在の瞬間にありったけを消費し尽くす行為だ。未来はそこで度外視だ。ポトラッチは見返りのない贈与、贈与のための贈与である。節度を求める禁忌を正面から破る行為だ。バタイユはこのポトラッチに目的のない行為の原像を見てとった。

 未来の予期を打ち棄てて見返りを目的に求めず、それゆえに不確実なものを支配しよともせず、現在の瞬間に生のすべてを注ぎ込む、だから、ポトラッチは熱狂と狂乱の瞬間となる。かつて生の安定を手にするために自身の命に死を与えた人間は、ポトラッチの祭礼において、その死を再度否定することで逆説的に生を肯定するのだ。命のエネルギーが逆巻く瞬間、ただ現在にあるだけの瞬間、この「蕩尽」の瞬間の経験こそ、生そのものが最高の強度で肯定される体験なのだ。

 人間の生みだした死と知による文化は疑似的な連続性、すなわち「第二の自然」となったのだが、人間の生みだした文化の生は根源的に自然の生を否定することで担保されていた。文化の円環を切断しようとする「蕩尽」の瞬間は、だから、今度は擬似的な死の瞬間として経験されることになる。しかし、それは根源的な自然性へと近づいていくことなので逆説的に生の絶対的な肯定へと反転するのである。



4-1-3. 蕩尽するインプロ

インプロこそバタイユ的な「蕩尽」の経験を手軽に体験させてくれるものではないだろうか。インプロはあらゆる物語を退ける。いくら未来をコントロールしようとしても、その企てのすべては打ち砕かれる。それが宿命だ。「桃太郎 その後」の話を語ったワンワードのゲームは以下の通りだった。

A「犬は」(桃太郎と)

B「キジと」(話しあって)

C「キビ団子を」(食べていて)

D「売り出そうと」(準備していました)

A「夢見ていました」(サルは)

B「桃太郎が」(そこに)

C「話を」(ききつけて)

D「したいと」(……)

オファーまるで思い通りにならず、意図しない方向へと彷徨いだしていく。そうだとしても、インプロバイザーは果敢にオファーを繰り返していく。自身の目的が充たされないとわかっているのに。

 未来の予測ができないことや自分の思い通りにならないことは通常の人間の意識には苦痛であり恐怖である。人間の根源的な前提は未来を支配することで自己の安定を保証しようとする素振りなので、その前提がグラグラに揺さぶられてしまうことが心地よいはずがない。

 しかし、そのような場でもインプロバイザーは力に満ち溢れた状態で行動することができる。現在の瞬間に蕩尽してなお笑っていられる、それがインプロバイザーなのだ。


インプロバイザーは予測不能な未来に踏み出す危険を自ら冒すことのできる存在である。言うまでもなく不確実な未来に「イエス」と言うことは禁じられた領域に飛びこむことに等しい。しかし、この未知への跳躍がインプロバイザーに圧倒的な魅力を与える。というのも、禁じられているからこそ、禁じられたものはそれに触れたいという欲望を呼び起こすものでもあるからだ。

 ポトラッチは蓄えたものを消費し尽くす破壊の祭礼だが、そもそも祭礼にはときに生贄を捧げるなど、暴力的な性質が潜んでいるものだ。岸和田のだんじり祭りや諏訪の御柱祭のように死者が出るほどの危険な祭りがいまも日本で受け継がれているように、どれほど危険であっても、いいえ危険であればあるほど、祭りは人を魅了してやまない。

 禁じられた領域に触れることは、ときに危険に身を晒すとしても根源的な生の衝動を突き動かす。「死におけるまで生を称えること」とエロティシズムを定式化したことの意味がここにある。要するに、バタイユが危険や侵犯といった言葉を使ってでも実現したかったことは近代人の社会に失われてしまった自然の力を再度流しこむことだったのだ。


人間の否定の力は自然を人間の支配できるものへと飼いならそうとするものだった。しかし、自然の本来の力は人間など遥かに凌駕する。太陽の降り注ぐ光の力は人間に利用できる量に収まるはずのない過剰なエネルギーだ。人間は自分に使用可能な分だけを調節することに汲々とするけれど、自然は調節など考えもしない。圧倒的な過剰として力をまき散らしている。

 自然の暴力的なまでの過剰な力を人間に取りもどす。それがバタイユの狙いだった。その自然の力を手にしたとき、人間はフリードリヒ・ニーチェの言う「超人」となって崇高な力さえ身にまとうはずである。インプロバイザーこそ超人であるとは言っては、言い過ぎだろうか。しかし、インプロバイザーほど蕩尽の力を身体的に理解した存在もなかなかないはずだ。


   ***


「いまここ」の瞬間に輝くインプロバイザーは生のきらめきを纏わせて崇高な魅力を放つ。そして、その魅力は同じ場に居合わせたすべての人を包みこんでいく。祭礼が集団的な興奮を巻き起こすように蕩尽の経験は強力な感染力をもっている。インプロバイザーの放つ魅力はもはやインプロバイザーその人だけがもつものではない。シーンが演じられる場それ自体の魅力となって「そこ」(Da)に関わる人すべてに生のエネルギーを分け与えるのだ。

 畢竟、蕩尽の経験は個人的な経験には収まらない。個人の内面で完結してしまうものではない。内面で完結するとは、自分から発したものが円環を描いて自分に戻ってくることであって、それではコントロールされた未来にいることと変わらない。インプロの経験は自分で発した還帰の企てがすべて途中で挫かれる経験である。途中に必ず他者のイエス・アンドが介在して強制的に分岐させられてしまう。「私」の意図は決して「私」に帰ってこない。だから、インプロはつねに「私」が崩落していく経験なのだ。

 インプロを演じることで「私」は崩れて「私」ではないものへと開かれていく。限られた有限の「私」が限られない無限へと開示されていく。それは疑似的にでも「私」が死ぬ経験だ。

 しかし、インプロバイザーはこの死を怖れない。なぜなら、この死はただの否定ではなく「私」ではない誰か、その他者へと開かれ、他者と結ばれる肯定の瞬間でもあるからだ。死の局面には蕩尽のエネルギーがきらめきだす。生まれたエネルギーは他者と結びついて他者を巻き込み他者に巻き込まれ、全体を包括して命のうねりと化す。


バタイユは禁じられた領域について語っている。禁じられた対象、すなわち侵犯の対象やエロティシズムの対象は淫らなもの、汚らわしいものとして忌避の対象になる。それと同時に触れてはならない聖なるものとしても認識される。したがって、バタイユにとって「聖性」とは禁じられた不可触なものとして、限られた人間の意識を超越する無限性の感触のことにほかならない。

 聖性に与る瞬間、人間はその有限性を破られて無限へと開かる。近年の日本では「スピリチュアル」の言葉ばかりが独り歩きしているけれど、スピリチュアリティとしての聖性は本来、蕩尽の感覚とセットであるはずだ。自己を超越する他者とともに有ることを肯定する感覚でなければならない。

 インプロの場において閉ざされた「私」の死は他者に対して開かれていく生の肯定を意味した。このとき、「私」はもはや「私」ではありつづけられない。「私」はもとの「私」ではありえず、別の何かへと転生変化しているのだ。蕩尽の瞬間はハイデガー的な「脱-自」(エクスタシス)の経験なのだ。

 このときインプロバイザーは「聖性」を身に纏う。誰よりも崇高な存在として聖なる威光を周囲にまき散らす。蕩尽は集団的な経験だと書いたが、インプロの蕩尽のその中心には必ずインプロバイザーが存在する。彼は比類ない聖性を発散して場のすべてを包み込んでしまう。そうして、更なる蕩尽の強度を沸騰させるのだ。


インプロのオファーはつねに未来に関わる行為だが、その仕方は未来を予測してプランニングする「知」の仕方とはまったく別の仕方である。バタイユの言葉を借りれば「非-知」の行為だ。知に基づく未来への関わりは予測される出来事に対処するためにエネルギーを配分して無駄が出ないようにする。それに対して非-知は一切を「いまここ」の瞬間に一切をつぎこむ行為である。まさしくプランとは対極にある。だから、バタイユは「賭け」という言葉を好む。

 蕩尽は賭けの瞬間に生まれる。未来の必然をプランニングする知とは真逆に未来に起こる一切の偶然を肯定する。インプロバイザーは自身のオファーがどのような未来を拓くのかオファーの瞬間に知れるものは何もない。でも、この瞬間に賭けるのである。知を超脱した非-知はもはや理性的あるいは意識的な作用ではありえず、身体的かつ無意識的な跳躍なのだ。

 インプロは危険な賭けだ。どうなってしまうのかわからない。プレイヤーも観客もハラハラする。でも、それが恐怖を呼ぶだけのものではないこともみな理解している。なぜなら、インプロはただ否定するものではなく絶対的な肯定に開かれているからだ。インプロの魅力は肯定する命の力の魅力にほかならない。


【了】

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