著作者_Gruenewiese86

4-2.インプロ的運動 / G.Deleuze

ねぎぽんです。ワークショップのデザイナーとファシリテーターをしています。

このテキストの全体像は「目次」をご用意しましたのでご覧ください。


インプロによる哲学の素描はジョルジュ・バタイユを終えて、ジル・ドゥルーズに入ります。ドゥルーズは生涯を通じて動きつづけることを思索の中心にしました。

ドゥルーズの哲学は差異と反復の哲学です。差異が反復して反復が差異を生む運動の哲学です。オファーの度にイエス・アンドの度に、その反復の度に差異が生まれてくるインプロの運動を描写するのにドゥルーズはうってつけの存在です。

また、微細な差異を徹底的に肯定するドゥルーズの思想は細かく気づいていくマインドフルネス瞑想とも近しい思想です。両者に共通するのは「いまここ」の一回きりの経験を肯定する姿勢です。


余談ですが、ジル・ドゥルーズは1980年代にフェリックス・ガタリとのコンビで一世を風靡します。そのときドゥルーズ&ガタリが強調したイメージが「機械」という言葉なのですが、キース・ジョンストンが最初に旗揚げしたインプロ劇団は「シアター・マシーン」でした。それは偶然の一致なのでしょうか。


以下12500字です。


4-2. インプロ的運動 / G.Deleuze


4-2-1. 賭けと遊び

ジョルジュ・バタイユは「賭け」を自身の思索の中心に置いた。「賭け」はフランス語で「jeu」(play)だが、同時に「遊び」を意味する言葉である。遊びの研究としてはヨハン・ホイジンハの『ホモ・ルーデンス』やロジェ・カイヨワの『遊びと人間』がよく知られているけれど、遊びの哲学的な考察は、フッサールやハイデガーに学んだオイゲン・フィンクやギリシア生まれの哲学者コスタス・アクセロスらによってもなされてもいる。

 人間存在の本質を存在の遊戯として考えたのはそもそもハイデガーだった。すなわち、人間存在は被投性である。ある日、否応なく世界に投げこまれたけれど、この世界に生まれ落ちて生きることに理由などありえない。まったくの偶然。まったくの無根拠。世界の実相は無根拠である。根拠のない戯れに翻弄される存在としてハイデガーは人間存在を描いたのだった。


フィンクはハイデガーの存在の戯れの考えを継承して自身独自の遊戯論を展開した。フィンクによれば、遊びとは虚構を操ることである。子どもは拾ったただの木切れを次の瞬間に刀にしたり釣竿にしたりして遊ぶことができる。刀や釣竿の実物を作ることは簡単にはいかない。それは物を扱うからだ。鉄を打ったり竹を削り出したりする作業、物を否定して我が物にする行為、すなわち労働が必要になる。遊びは労働のプロセスをスキップする行為だ。

 無根拠な世界に否応なく放りこまれ右往左往する存在でしかない人間は世界に生きていくために地歩を固める必要があった。道具的な意味に充たされた世界はそのために作られた。だから、世界は道具的存在で溢れている。それぞれの物には道具としての意味があって、その意味を実現するために人は労働をしなければならない。

 遊びはこのルールを軽やかに逸脱する行為だ。遊びは世界に再度戯れを差しこむ。遊びは本質的に無根拠で無目的だ。だからこそ、遊ぶことは存在の根源的な戯れを再演することでもある。遊びこそ世界の存在の真理(無根拠としての真理)を開示するものとフィンクは考えている。


ジグムント・フロイトは「ユーモア」について論じた一節で、ある死刑囚の話を取り上げている。月曜日のことだった。ひとりの死刑囚が絞首台にひかれていくところだった。これから首を吊るされるというのに、その死刑囚は道すがら通りかかる人に「今週も幸先がよいぞ」と言っていたそうだ。

 フロイトはこの逸話をきわめてユーモアのある話だと考えていた。死刑囚がこの日に首を吊られることは定められた未来である。でも、その未来があってなお、彼は「幸先がよい」と笑い飛ばしたのだった。ユーモアが笑いを起こすとともに強いられた運命に決して屈しない人の強さを示すものであることをフロイトは描いている。バタイユは常々蕩尽と笑いを重ねていたけれど、超人の強さとはいかなる現実に対しても笑うことのできる強さなのではないだろうか。

 インプロバイザーは無の空間に手をかざすだけで刀も、釣竿も、家も、山も、好きなように存在を与えることができる。しかし、まったくの無であるインプロのシーンに約束されたものは何もない。偶然の戯れに呑みこまれればインプロバイザーには為す術もない。人間が人形を使って戯れるように、神が人間の運命を戯れに翻弄する、そのドラマの原像をインプロバイザーはシーンで演じているのである。ただし、ただ運命にもてあそばれるだけの悲劇としてではなく、それを笑い飛ばす力によって演じるのだ。


ハイデガーやフィンクが開いた遊戯の空間をアクセロスは時間的な運動として考えている。アクセロスにとって、遊戯は彷徨いの時間であり、無定形で無方向な漂流の時間である。どこに進むかも分からない、どこにたどり着くかも分からない。しかし、もとにいた場所からはつねに遠く離れていく運動である。そうして存在の戯れは存在を固定化したり、根拠づけたり、同一のものと定める一切を拒む。

 アクセロスの思考はひとつの意味やひとつの真理を定着させるものではない。つねに運動して、つねに変化する「遊星的思考」を志向する。ハイデガーやフィンクやアクセロスに共通する遊びの感覚は静止ではなく遊動にある。固定された到着点を目指すものではなく、彷徨い逸脱し道草をして偶々出会ったもののところに落ち着くという偶然の出会いを肯定し、そして、もといた道筋とは遠く隔たっているという差異もまた肯定するのである。

 さて、賭け、偶然、差異と言葉がそろったところでジル・ドゥルーズに触れないわけにはいかないだろう。



4-2-2. 差異と反復

インプロの体験がバタイユ的ならばインプロの運動はドゥルーズ的である。フランス戦後思想の巨星ジル・ドゥルーズはヒューム、スピノザ、ライプニッツ、ベルクソン、ニーチェ等々、多数の哲学者の著作に学びながら、バタイユとは違った視点から自然の哲学を構築しようと模索した。ドゥルーズはフェリックス・ガタリとのコンビでなしとげた大活躍で一世を風靡したのだけど、ここではジル・ドゥルーズ単独で書かれた第一の主著『差異と反復』を導きにしていきたい。

 ドゥルーズの哲学は『差異と反復』の書名に象徴的なように「差異」と「反復」から自然を称えることにある。ここで差異とは反復する差異であり、反復とは差異の反復を意味するのだけど、自然は差異と反復に満ちている。

 風は幾度となく繰り返し反復して吹くけれど、その都度、違った風として差異を生じさせる。あるいは一本の桜の花に咲く無数の桜の花はすべて桜の花として反復するものだけど、すべての花は同じではなくてそこには差異がある。すべての風は風であり、すべての花は花だけど、反復があるごとに差異が生じるのである。ドゥルーズの語る差異と反復はそのようなものだ。

 自然は無数の差異と反復で溢れている。反復して生まれる出来事は、すべては一回きりで同じ出来事は決して二度起こることはない。「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」の仏教的な無常観に通ずる自然像がドゥルーズの思考の根底を流れている。


自然はその本来的な相において無限なる差異そのものだ。しかし、人間には差異をそれ自体で認識することはできない。世界を認識するために人間は自然から差異を抜き取らなければならない。

 モンシロチョウの姿を知りたい場合、標本として保存された一匹のモンシロチョウがあれば、その標本を参照すればよいわけだけど、しかし、このモンシロチョウはあくまで一匹のモンシロチョウであって、他のモンシロチョウとは違う。さらに、このモンシロチョウのある瞬間を殺して止めたものだから、その前の姿でもその後の姿でもない。

 でも、このきわめて限定された姿が「タイプ標本」として、他のすべてのモンシロチョウを「代表」(representation)することになる。これが「代表=表象」(representation)ということだけど「表象」は人間の認知機能の本質的な特徴である。

 表象とは認知機能のカテゴリーのことである。多様な個物を普遍的な表象に統合することで同一なものとして認識できるようになる。したがって、概念に等しくマーヒーヤ的本質に相当するものだ。モンシロチョウには紋のないモンシロチョウもあれば、翅の破れたモンシロチョウもあるはずで、それぞれフウィーヤとしてのモンシロチョウだ。

 しかし、認識の際にはすべて同一のモンシロチョウとして認識される。ということは、「タイプ標本=表象」(representation)としてのモンシロチョウの姿がその都度立ち現われいるのである。かつて死んでしまったはずの標本があたかも生きているかのように立ち戻ってくることから、表象を字義どおりに「再現前化」(re-presentation)と読むこともできる。こうして一回きりの差異は無化されて同一のモンシロチョウとして認識されるのである。

 自然の生命の力が多様なる差異そのものであるのなら、表象はその多様性を殺してしまう否定の力にほかならない。表象の力は死を与える力であって、バタイユの指摘したように知の力に等しい。ここでマーヒーヤとしての概念を退けて多様な差異に満たされたフウィーヤとしての自然、自然の生を肯定しようという姿勢がバタイユとドゥルーズに共通した基本的な姿勢であることを確認しておきたい。


   ***


ドゥルーズは一回きりの感覚、いわばフウィーヤの感覚を重く見ていた。しかし、人間の意識的な知覚は表象なしには成り立ちえない。対象を意味づける行為は言語的な反省をつねにすでに織りこんでいるからだ。

 そこでドゥルーズはライプニッツにならって「微小知覚」という考えを取り上げる。海のざわめきを耳にしているとき、波の音は一定のまとまりをもって聞こえてくる。本来であれば波の動きは無数の細かな渦や波動であって、それぞれの動きが局所で細かな音を発生させているはずのものである。人間はそのひとつひとつの細かな波の音を聞き分けることはできない。けれど、微小知覚として感覚はしていて無数の細かな知覚をまとめあげることによって総体的な知覚(波の音という意味)へともたらしているのである。

 表象の理論に立てば多様な個物を一様な表象で塗りつぶしてしまわないことには知覚は成り立たない。しかし、微小知覚の理論からすれば人間の知覚には知覚されないだけで細かな差異が蠢いていると考えることができる。

 微細な個々の波のざわめきは、示しあわせたように一致するわけではない。偶然発生した幾千幾万の運動が、それだけでは混沌としたノイズであるはずなのに、人の耳には調和をもった音の律動に聞こえてくるのである。このような出来事としての知覚は、人間の身体が意識にはあがってこない自然の無数な差異と調和のある関係を無意識的に取り結んでいることで生まれてくる。


ドゥルーズは差異とは「概念なき差異」であると語っている。微小知覚としての波の音は意識化できる「波の音」という概念からは漏れ落ちていくものである。畢竟、意識はすべて言葉と概念によって侵蝕されたものだから、概念なき差異は無意識の領域に関係する。意識では判明にその別を分けることはできないけれど、身体的そして無意識的に感じ取ることのできる差異である。

 概念なき差異は一回きりの出来事として生まれてくる。だから、この風はあの風と異なり、この花はあの花と異なる、その違いを感じ取る感覚こそ、その瞬間に身体が知覚対象と取り結ぶ唯一無二で一回限りの関係性を顕わにしているのである。マインドフルネス瞑想を微細な差異を感じ分ける瞑想、要するに「微分する瞑想」だと書いたけえれど、それはこのドゥルーズの考えを下敷きにしてのことである。


   ***


差異をまるごと肯定するのはインプロも同じである。イエス・アンドがイエス・アンドとして価値を発揮する瞬間は一回きりの差異を受容した瞬間にほかならない。インプロはプレイヤーがオファーを反復することでシーンを作りあげていくけれど、オファーがイエス・アンドされるごとに差異が生まれていく、その生成の様子を見せてくれる。

 テキストではその面白さが伝わりにくいのだけれど、同じセリフを文脈を変えて何度も演じるというゲームがインプロには複数存在する。たとえば「エモーショナルリプレイ」は感情を変えて複数回シーンをリプレイ、つまり「反復」する。「レジで買い物」のシーンだとしたら、

A「これください」

B「鶏肉が一点、卵が一点、牛乳が一点、チョコレートが一点、、、」

A「あ、チョコレートは買わないので、もどしてください」

B「わかりました。ぜんぶで800円です」

A「1000円札で払います」

B「レジ袋は使いますか?」

というようなフラットで当たり障りのないシーンを最初につくっておいて「悲しみ編」「喜び編」「ときめき編」「怒り編」などを演じていく。

 「悲しみ編」ならセリフをひとつ話すごとに悲しみがどんどん膨らんでいくように演じていくのである。セリフだけで感情を表現することはできないので、セリフを話すのではなくて表情や体の動きを目いっぱい使って感情を表現することが大切だ。セリフはまったく同じなのに現れるものはまるで違うのだ。

 エモーショナルリプレイはインプロがいかにセリフの意味ではなく非言語的で感覚的なものに関わる表現であるかを教えてくれるゲームである。ちなみに、エモーショナルリプレイでは感情を変えたけれど、セリフは同じで「時代劇」「サスペンス」「オペラ」「シェイクスピア風」などとジャンルを変えて演じる反復の仕方も考えられる。


   ***


バタイユの思索のテーマは生の肯定にあり、ドゥルーズの哲学のテーマもまた生の肯定であり、インプロはバタイユとドゥルーズの考え方をそれぞれの仕方で見せてくれる。バタイユは同じものが同じでいられなくなる瞬間を蕩尽と表現して、ドゥルーズは蕩尽の瞬間に生まれてくる差異の肯定を主張したのだけど、そこに「ノー」と言う人は安全を手にして「イエス」と言う人は冒険を手にするというキース・ジョンストンの言葉を反響させることに無理はないはずだ。

 「イエス」と言うことで踏み出していくインプロバイザーの冒険は未知の領域に踏み出していく冒険だが、それは同時に禁じられた領域、あるいは自身に禁じてきた領域に踏み出していく冒険、したがって、どうなってしまうかわからない、自分が自分でなくなってしまう、そういう冒険でもある。要するに、自分が同じでいられる領域を超えて変わっていってしまう冒険、差異を生んでいく冒険なのだ。


人間はややもすると差異を抜き取ろうとしてしまう。Aがあった後にはいつもBがあるからAの後にはBがあるだろうと予期してしまう一般的な「習慣」の力があり、個人的に前に経験していたことを次の経験にも当てはめて理解してしまう「記憶」の力がある。習慣も記憶も差異を抜き取ってしまう。否定の力なのだ。

 同じに感じられる経験にも無数の差異が当然ひしめいている。ドゥルーズによれば、微小で局所的な自我が外的な差異の刺激に反応するごとに生じて無意識の位相にうごめいている。しかし、経験の「質料」(材料)としての自我を経験の「形相」(主体)としての「私」が意味づけることで、差異と変化を拒絶する同一性が生成してしまう。すなわち、経験は無数に多様で差異に満ちているのに、それを意味づけることで「私」という塊へと統合してしまう。統合してしまえば、そこには不変の「私」があるだけなので、微細な差異は一切否定されてしまうのである。したがって、「私」に縛られた人間の意識が単独で差異を肯定することはとても難しい。

 だからこそ、外的な他者からの働きかけが重要な契機となる。インプロの場合はオファーがそれだ。インプロバイザーが受け取る他のプレイヤーからのオファーは突然で意味不明で理解困難なことの多々あるものだ。ワンワードで見たように「私」の期待は次々と裏切られていく。「どうすればいいんだろう?」と混乱のさなかに突き落とされたようにさえ感じる。オファーは自分にとって異質な他者の現れそのものだ。このような他者の訪れをドゥルーズは「シーニュ」(しるし)と呼んでいる。



シーニュ

シーニュはただのしるしやそこら辺に書き散らされた落書きとは違う。何が書いてあるのか意味が理解できない点では落書きと同じだけど、読めても読めなくても関係ない落書きとは違って、いちど巻きこまれては逃れることのできないものがシーニュだ。だから、シーニュとは投げ込まれた状況そのものなのだ。

 シーニュの現れは暴力的で否応ない。しかし、シーニュの不法侵入こそが「思考」を駆動するスイッチになるとドゥルーズは考えている。ドゥルーズが使用する「思考」である以上、理性的に理解する行為ではあるはずがなく、反対に異質さの不法侵入を迎えいれてカオスの蓋を開けてしまうことを意味する。

 「私」をひび割れさせて、ひしめいていた微小な自我の運動を解放すること、外界の差異を身体をもって理解させること、それが「思考」だ。だから、「思考」とは異質な他者としてのシーニュを肯定して関係を新たに作ろうとする試行錯誤にほかならない。


シーニュとの出会い、そして、シーニュとの関わりをつくっていくこと、それをドゥルーズは学びのプロセスとして考えている。たとえば、泳ぎを学ぶとは陸上で泳ぎ方を概念として学ぶことではない。そうではなくて、海のなかに飛びこんで水の動きと身体で関わることに始まるのである。

 波の動きは一定ではない。ときに大きくときに小さく不規則なうねりや渦が瞬間ごとに生まれてくる。思い通りにはならず、前に進まないこともあるだろう。水を飲んでしまうこともあるだろう。それでも次第と泳げるようになっていく。それは身体が波の不規則な動きと「関係=比率」(ラポール)を結ぶことができるようになったからである。

 シーニュとの出会いはただの混乱で終わるものではない。はじめは衝撃的で滅茶苦茶でも徐々にひとつの関係が浮かびあがっていくものだ。インプロのシーンも同様で、はじめのオファーは意味不明でも、そのオファーと関わりあうことで次第にシーンが動きはじめる。カオスがコスモスへと転じていくのはそこにラポールをもたらすイエス・アンドがあるからだ。

 ラポールは奇しくも臨床心理学ではセラピストとクライアントとの信頼関係を指す言葉として使われる。要するに、異質な存在と取り持つ関係のことなのだ。ドゥルーズならば「他者とは他なる世界である」と語るところだけど、他者に出会うことで「私」の世界にまず亀裂が入る。「私」の世界は「私」の習慣や記憶で構成された世界だけど、他者なるシーニュの侵入で完全に失効してしまう。しかし、この瞬間に差異が生じる。「私」は新たな差異として存在しなおすことになる。だから、差異としてのシーニュを受容すること、それがドゥルーズの指摘する学びなのだ。


   ***


学習理論としてのドゥルーズ哲学は独特だ。通常の学習理論にとって学習は覚えたり、身に着けたりすること、要するに記憶して習慣づけることなのに、そこをあえて習慣を手放して記憶を忘却することに力点を置く。

 とはいっても、記憶がまったくなくなってしまうわけでもない。それまで「私」の世界の土台となってきた記憶はたしかに記憶として有りつづけるだろう。でも、他なる世界と結びつくことでもはや過去と同一ではありえない。「私」と共にまったく違った姿へと生成変化してしまう。

 かつて存在した過去であっても、まったく別の仕方で存在しなおすことができる。生成と変化の可能性はつねに潜んでいる。これがドゥルーズ哲学の根幹を為す「潜在性」の概念である。



4-2-3. 潜在性の場

インプロには脚本がない。シーンは無からスタートする。しかし、この無はただの無ではない。どんなシーンでもここから生み出すことのできる。力に満ちた無だ。

 たしかにインプロのシーンはいかなる世界でも生み出すことができる。でも、実際に生み出される世界はたったひとつだ。他にどんな世界を生み出すことができたとしても「いまここ」の瞬間に生み出すことのできる世界はひとつだけなのだ。たとえば、

A「これください」

B「鶏肉が一点、卵が一点、牛乳が一点、チョコレートが一点、、、」

A「あ、チョコレートは買わないので、もどしてください」

B「わかりました。ぜんぶで800円です」

A「1000円札で払います」

B「レジ袋は使いますか?」

これはまったく変哲のない日常的なシーンである。でも、このようなシーンでもオファーの積み重ねでできていているわけで、このシーンではなかった可能性もつねに孕んでいるものだ。いくつかの可能性を挙げてみれば、

A「これください」

B「鶏肉が一点、卵が一点、牛乳が一点、チョコレートが一点、、、」

A「、、、いいから、金を出せ」

B「え、ええ、、、」

あるいは、

A「これください」

B「鶏肉が一点、卵が一点、牛乳が一点、チョコレートが一点、、、」

A「毎日、こうしてレジで会いますね」

B「そうですね」

A「きょう、仕事が終わったらいっしょに食事をしてくれませんか」

B「はい?」

このような可能性もありえる。すべてのオファーはインプロのシーンを分岐させる切換ポイントとして機能する。その瞬間、シーンの進行は宙づりにされて次の方向を決める無限の進路が浮上する。インプロのシーンは常に別様である可能性があるのだけど実際に現実化されるシーンは常にひとつだけである。無数に存在した可能性のうち、たった一つだけが選ばれて現実となる。


   ***


ドゥルーズは「可能性」を「潜在性」へと読み換える。可能性はアリストテレス哲学以来の伝統の概念だ。たとえば種子がその実現としての花へと推移する可能性を有しているというように可能性という語には実現されるべき未来が定められていることが暗に前提されている。

 それに対して、潜在性は現に存在するものは偶々いま有るように有るけれども別様にも有りえたということを意味する。行く先の定められた可能性とは対照的に潜在性の行く先に定めはない。潜在性とは差異のひしめきあう力場、すべての差異の総体であって、潜在する無限の差異からひとつの差異が選ばれて現実のものになること、これを「現勢化」と呼ぶ。

 フランス語で「方向」は「sens」だが、それは同時に「意味」を意味する言葉でもある。だから、ドゥルーズにとって、意味とは潜在的な差異が現勢化して行き先を方向付けられることにほかならない。畢竟、意味とは潜在的な差異が現実のものとなる生成の運動そのもののことである。


インプロバイザーの発するオファーは差異の潜在性を開く。「これください」の言葉ひとつだけで、いや、言葉さえなくても身振りひとつをするだけでイエス・アンドを導く無限の分岐が浮上する。このオファーをアクセプトしたインプロバイザーは無限に開かれた差異から世界をたったひとつだけ現実にすることができる。イエス・アンドは差異を現勢化する行為にほかならない。

 そのとき現勢化されなかった世界は有りえた世界として潜在性の底へと沈んでいく。しかし、失われた潜在性は永遠に忘却されたままというわけでもない。次のイエス・アンドの瞬間、有りえた世界の陰として再び蠢きはじめる。もちろん、過ぎ去ってしまった過去の姿で浮かびあがるのではなくて、次の瞬間のシーニュと結びついて転生を遂げた姿として、である。


   ***


インプロの場を潜在性の場として考えてみたい。インプロバイザーのオファーは場に潜在する力を刺激する。潜在するものが運動して差異を生成することをドゥルーズは「差異化=微分化」と呼んだ。そして、生成した差異が現実のものとして現勢化されることを「異化=分化」と呼んでいる。異化=分化は次なる差異化=微分化の引き金を引く。この絶えざる反復が差異の運動にほかならない。

 ここでドゥルーズは、差異的=微分的な関係のすべての変化性とすべての出来事の配分を含んでいる純粋な多様性、まったき潜在性を「理念」(イデア)と名づけた。一般的なプラトン主義の「イデア」は超越的な普遍者だが、ドゥルーズにとって「理念」はむしろ偶有的で一回的ものに関係する。


インプロには「タイムショック」というゲームがある。ひとつのタイトルから連想されるシーンを制限時間以内にできるだけたくさん作る(したがって、ひとつのシーンは10秒程度)というゲームである。「冬」「海」「愛」「よろこび」「東京」「ヒーロー」、タイトルは何でもよくて、観客から頂くことも多いのだけど、たとえば「よろこび」というタイトルではどんなシーンが想像されるだろうか。

 「合格発表」「結婚式」「宝くじ」「プレゼント」「金一封」、いろいろな場面が生まれてくるはずだ。タイムショックをすることで実に多様な「よろこび」のシーンを見ることができる。どれもこれもまったく違うのに、すべて「よろこび」を表している。ドゥルーズの視点からすれば「よろこび」の「理念」とはそういうものなのだとぼくは思う。

 タイムショックに現れるシーンは、すなわち、演じられる「理念」の姿はきわめて多様である。同じ「よろこび」で10回、タイムショックをしても、その都度見られるシーンには差異があるだろう。演じるプレイヤーを変えてみればなおさらだ。

 それぞれのプレイヤーにはそれぞれの経験があって、同じ言葉から思い浮かべる光景もそれぞれに差異がある。プレイヤーそれぞれの身体に潜んだ潜在性には偏りがあるわけで、その偏りがあるからこそ、シーンは差異に溢れていくのである。「この人と一緒でなければ思い浮かばなかった」というアイディアももちろん存在する。インプロの表現はすべて関係性の内で生まれてくる。他者からの触発に突き動かされてオファーは生まれてくるものだ。


   ***


プラトン主義の伝統において「理念」は脱文脈的な超越者だ。しかし、差異として生成するドゥルーズの「理念」はつねに文脈に依存している。タイムショックに現れる「理念」は、それを演じるインプロバイザーたちの相互作用に結びついている。だから、このシーンではこの姿に「理念」は結晶して、あのシーンではあの姿に「理念」は結晶する。畢竟、演じられるシーンごとに「理念」は別の姿に異化=分化して結晶することになる。

 だから「理念」はつねに複数形の諸「理念」であって、諸「理念」が異化=分化した複数の結晶が結びついて作りだす付置の形、いわば「星座」として「理念」は生成するのである。きょうの「よろこび」の「理念」は、きょうのインプロバイザーたちが演じた「合格発表」「結婚式」「宝くじ」「プレゼント」「金一封」の星座として生成したとして、明日の「よろこび」の理念はまた別の星座を描くはずだ。

 だから「理念」は、本質でもなければ概念でもなく、ドゥルーズがしばしば演劇の比喩で語っているようにドラマ化され、演じられることで、現れ出てくるものなのだ。そして、演じられる場の差異に応じて、その度ごとに別様の現れ方をするものである。かつて演じられたように二度演じられることは決してない。そこにはかならず差異が生じている。

 ドゥルーズが潜在性に賭け金を置くのは、潜在性が再生の力そのものだからではないだろうか。人間は生きていれば日々選択をしている。「あれか」「これか」と迷うこともあるし、後悔することもある。でも、それが最終的な決定ではない。潜在的に有りえた差異はつねに別様に有りえる余白を担保している。さもなければ、起きてしまったことは絶対的な事実となってしまう。失敗や後悔や絶望は永遠にそのままだ。でも、そうではない。つねに別様でありえるのだ。新しく生まれえる差異があるのである。そこに生命の力を、命の肯定を、ドゥルーズは見たかったのだろうと思う。



骰の一擲

インプロバイザーは何度でもチャレンジを繰り返す。タイムショックは時間の制限の厳しいゲームなので躊躇していてはすぐに終わってしまう。考えずに次々とシーンに飛びこんでいかなければならないのだけど、それゆえに出来の良いときもあれば不出来なときもある。そこで不出来や失敗を恐れてよりよいものを考えだしたら、もう体は動かない。不出来でもよいのだ。失敗してもよいのである。そこで「よし、もう一度」と思える。それがインプロバイザーだ。

 「よし、もう一度」を反復すること、ドゥルーズも愛したニーチェはそれを「永遠回帰」と呼んだ。ドゥルーズによれば、永遠回帰とは何ひとつとして同じでいるものはないことを意味する。成功も成功したままではないし、失敗も失敗したままでもない。成功したからこれで終わりということはなく、失敗もまた回帰してくる。それは避けられない。東洋的な無常の考えである。

 それでも「よし、もう一度」と起きたことを肯定して起きたことと共に生きる命を肯定する力が差異を肯定する力なのだ。永遠回帰は絶対的な未来の時間だが、未来に何が起きるかは誰にも予測はできない。その意味で未来は絶対的偶然の時間である。


ドゥルーズは骰子の比喩を語る。骰子はもちろん偶然の象徴であって、何度も繰り返し振られる骰子が偶然の反復としての永遠回帰を指している。骰子は何度でも振られえるわけだけど、しかし、そのときに出る目はつねに唯ひとつだ。そのとき出てしまった目を否定することはできない。だから、骰子の一振りを肯定するということはそれだけで偶然の全体を肯定することなのだ。

 しかし、賢さを身に着けた大人は偶然を確率で処理しようとしてしまう。骰子の出る目の確率が6分の1ならば6回振れば歩留まりするだろうなどと考えてしまう。だが、それは「いまここ」に出た目を無視する素振りにほかならない。「いまここ」を否定するものでしかない。そうではなくて「いまここ」で出た目に一切を集中するのだ。ここで出た目の現在だけに集中できる存在をニーチェもドゥルーズも「子ども」というイメージで形象化している。


   ***


子どもは無心で骰子を振る。無心の遊戯である。そのとき骰子の出た目に善いも悪いもない。起きたこと、生まれたことは、このときすべて善悪の彼岸にある。だから、ニーチェは「生成の無垢」を語り、無垢すなわち無罪なるものとして子どもの遊戯に生の肯定の一切を賭けたのだ。

 ドゥルーズにとって永遠回帰は差異を生成する反復そのものである。永遠回帰は到来する差異であり、あらゆる文脈を切断して、あらゆる前言を撤回する力を秘めているとされる。そのときあらゆる過去が潜在性としてもういちどやり直す賭けに晒される。

 ドゥルーズは「理念」を指して卵、胚、幼生の比喩で語る。卵や胚は分化して機能を複雑化していくものであり、幼生もまた成体に向けて変化していくものである。しかし、その一方向的な変化にも「待った」をかけることはできないか、異化=分化したものにでも再び差異化=微分化する力はいつだって宿るのではないのか。ドゥルーズはその潜在性に賭けたかったのだろう。だから、成体でありながらも成体になり切れない未分化で未完成な部位を残すネオテニー的な有り方こそ、ドゥルーズの求めていたものではないかとぼくは思う。


キース・ジョンストンが「大人は委縮した子どもである」と語るとき、差異化=微分化する力を怖れることのない子どもに対して社会的自己で身を固めてあらゆる差異化=微分化を撥ねつけようとする大人の姿を思い浮かべることができるだろう。ドゥルーズは繰り返し無意識は「否」を知らないと語っているけれど「否」と言うのはいつだって大人の意識なのだ。だから「然り」と言う無意識に逆らうことのない子どもはスポンテニアスに生成と変化を果たすことができるのである。

 気づいたら変化している、気づいたら生まれてしまっている、その意味でスポンタネイティはきわめてドゥルーズ的な出来事である。スポンタネイティは社会的自己はもちろん、ありとあらゆる境界を超えていく運動であって、他なるもの、外なるもの、異なるものとの出会いと接続である。ドゥルージアンとしてのインプロバイザーは、定住民族がいつの間にやら拵えた国境も城壁もすりぬけて無限の曠野を駆け抜けていく「遊牧民」(ノマド)の魂を分けもった存在だ。


【了】

著作者:Gruenewiese86
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