7-5.状況に埋め込まれた学習
ねぎぽんです。ワークショップのデザイナーとファシリテーターをしています。
このテキストの全体像は「目次」をご用意しましたのでご覧ください。
学習が個人的な出来事ではなく他者との関わりのなかで生まれる出来事であることを見てきました。学習理論では「状況的学習」という考え方があります。
人は他者との関わりで学ぶのはもちろん、それは師と弟子のような一対一の関係だけに限らず、複数の人たちと同じくする場に参加することで状況のなかで学ぶという考え方です。場から離れた脱文脈的な世界で学ぶのではなく、場に没入した文脈のただ中で学ぶというわけです。
状況的学習の端緒となったレイヴ&ウェンガーの「正統的周辺参加」の概念をはじめに辿ります。正統的周辺参加の理論によれば実践の共同体に参加してくる新参者は古参者との関わりのなかで場に根づいた仕事を学び、次第に古参者へとシフトしていきます。
正統的周辺参加は安定した場が先在してそこに踏み込んだ新参者外貨に学んでいくかというプロセスを分析していました。しかし、学習のプロセスはそれだけにとどまりません。新参者が場に影響を与えて変化を生みだしていくこともありえます。そのプロセスをユーリア・エンゲストロームの「活動理論」を利用して書いていきます。
最後に共同体=組織の生成してくる様子と再度変容していくプロセスを組織心理学者カール・ワイクの仕事を使って考えていきます。
インプロも先輩や後輩のインプロバイザーたちと形成するインプロの場において学ばれていきます。そこは正統的周辺参加の理論と重なるところですが、同時にインプロバイザーは場を離れて得た学びを再度場にもちこんで場を変化させていくことのできる存在でもあります。
インプロの熟達のプロセスが所謂「組織学習」の文脈でどのような価値を発揮していけるのかも考えていきたいと思います。
以下13100字です。
7-5. 状況に埋め込まれた学習
7-5-1. 正統的周辺参加
すべての学びがそうではあるけれど、ことさらにインプロは独学が難しい。公式化されたマニュアルもセルフチェックするためのテストも存在しない、いや、しえない。そのため複数のプレイヤーが相互作用を重ねる場でしか学ぶことができない。
インプロは生身の身体のあり方を人前にさらす表現だ。ハイデガー風に言えば、自己の存在を明るみへと開示する行為である。心も体も含めた全人格的な関わり方を求められる表現なのだ。それはステージを降りた後でも続く。ステージの上では巧みにイエス・アンドをするけれどステージを降りるとぜんぜんイエス・アンドをしなくなるというインプロバイザーも滅多にいない。
インプロの教授は演出家や監督などの権威的な存在から一方的に行われるものではない。プレイヤー同士が相互にフィードバックしあう要素の色濃いものだから、互いのフィードバックにイエス・アンドを心掛ける姿勢が欠かせない。初心者のインプロバイザーは熟達者との関係性のなかで、インプロの「わざ」はもちろん、インプロバイザーとしてのあり方も学んでいくことになる。
学習は、学習者の個人的な内面だけで展開するものではなく、先達たちの形成する集団の場に参加することで生成する。そう主張したのがジーン・レイヴとエティエンヌ・ウェンガーだった。彼らは「正統的周辺参加」(Legitimate Peripheral Participation, LPP)の概念を用いて学習の集団性を分析している。
レイヴ&ウェンガーは著作『状況に埋め込まれた学習』において、ユカタン半島の産婆、西アフリカの部族の仕立屋、米国海軍の操舵手、肉加工職人、アルコール中毒者の当事者団体など、文化人類学的領域から社会学的領域にいたるまで、さまざまな集団において発生する学習を分析している。レイヴ&ウェンガーによれば、いかなる集団においても学習者の学習は「正統的周辺参加」のプロセスを辿ることになる。
ユカタン半島のマヤ族の産婆のケースでは将来産婆になるマヤ族の少女はほとんどの場合で母親や祖母が産婆をしている。家庭環境で身近に接することによって少女は産婆の実践のエッセンスを、教えられることなく、自然と学んでいく。はじめはお産をする部屋の隅に座っているだけかもしれない。お産のプロセスを見たり、お産に関わる人たちの話を聞いたりしているうちに徐々にお産の仕方を学んでいく。時間が経過するにつれて少女が一人前の産婆へと変容している。
ユカタン半島から遠く離れた米国海軍の操舵手の現場においても同様のプロセスが存在する。このときも初心者はより習熟した操舵手とともに実地で働くという現場への参加によって習熟していく。初心者の任務はかなり限定されたものから始まり、習熟するにつれて複雑な任務へと遷移していく。
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参加による学習のプロセスは学習者が先達の実践者たちの集団の場に参入したときに始まる。その場のことをレイヴ&ウェンガーは「実践の共同体」と呼ぶ。実践共同体に参加した初心者は以前から共同体に所属している先輩たちの下で知識や技能を身につけていく。先輩から直接指導を受ける場合もあれば「見て盗む」こともある。職場を離れた環境で研修を受けることはなく実地で仕事を覚えていく。
この営みは古くからある師匠と弟子との修行の関係に似ている。一般的にそれを「徒弟制」と呼ぶ。したがって、正統的周辺参加の理論には徒弟制を再評価しようとする側面もある。
マニュアル化することのできない身体知あるいは暗黙知の習得と継承には熟達者の目前でその「わざ」に接することのできる徒弟制的プロセスが効果的だ。はじめは部分的な仕事しか任されなかった初心者も徐々に実践共同体の一員としての立場を得ていく。最後にはかつて指導を仰いでいた先輩の地位へと辿りつく。正統的周辺参加とは動的なプロセスだ。
「正統的」とは共同体の正式なメンバーとして迎え入れられていることであり、「周辺参加」とは共同体の内部に自分の地位を得ているということを指す。古参には古参の地位が、新参者には新参者の地位があってどちらもが「周辺参加」である。レイヴ&ウェンガーの強調することには、正統的周辺参加は当初共同体の「周辺」に参加していた新参者が徐々に「中心」の古参へと進んでいくというような一方向的な運動ではない。
実践の共同体の内部には様々な役割があって、それぞれがそれぞれに適合した場所で機能することこそが正統的周辺参加の目指すところなのだ。そのような参加の形態を「十全参加」と呼んでいる。十全参加もまた周辺参加の形のひとつである。
正統的周辺参加とは、実践共同体との部分的な関わりで尽くされるものではない。すなわち、ある瞬間、ある時期だけ参加してすぐに離れてしまうというものではありえない。新参者は実践共同体に全人的に参加し、そして、時間をかけて十全的な構成員へと成長していくのである。全人格的な関わりだから、すくなからず「私=アイデンティティ」の変容を伴うことになる。正統的周辺参加のプロセスはトランジションのプロセスを伴うことになる。
正統的周辺参加の条件
欧米の社会は科学的な価値観をもっている。科学の本質は一般的かつ普遍的な形式知にある。形式知は仕事の実践においてはマニュアルとして使用されるものである。脱文脈的で合理化されたマニュアルの知はどんな文脈でも適合できる強みがある。
それに対して正統的周辺参加による学習は参加すべき個別具体的な共同体の文脈に取り込まれることで生成する。だから、正統的周辺参加で身に着けられる技能はショーンの評価する「わざ」と非常に近いところにある。
日本の伝統的な知識や技術は形式化できない暗黙知のまま継承されていく。大工や板前といった職人の世界も三味線や日本舞踊のような伝統芸能の世界もみな徒弟制の世界である。どの世界でも親方や家元に弟子入りしたものだ。雑巾がけのような知識とも技術とも直接的に結びつかない雑事から始めて徐々に仕事を任されるようになる。親方や先輩と場を共有することで、その直伝を通じて技術は身体的に習得されるのだ。
正統的周辺参加の学習は学校における学習とは性質を異にするものであることが理解できる。学校は脱文脈的な場である。子どもたちは様々な出自、様々な文脈に生まれてくるけれど、学校ではいちどその背景を切り離してすべての子どもを等質に扱う。学校で教えられる知識や技術も脱文脈化された科学的な知である。
それに対して、正統的周辺参加による学習はいわゆる社会人の仕事の学習に親和する。仕事の場面ではいかに完成されたマニュアルがあったとしてもマニュアルが運用されるのは個々の具体的な文脈だ。マニュアルを適切に運用するためにもそれぞれの場に独自に発生する状況に応じざるをえない。程度の差こそあれ、仕事の現場には必ず暗黙知が生成してくる。だから、正統的周辺参加の理論は仕事をする状況に不可避的に生成する身体的な側面に光を当てたものだと言える。
正統的周辺参加は新参者が古参者の「わざ」を習得していくプロセスであるとともに、古参者の「わざ」が新参者の身体に移植されていくプロセスでもある。正統的周辺参加においてハビトゥスとしての「わざ」は個人の身体に宿るスタイルであると同時に、実践共同体の場に培われてきたスタイルとしての側面を見せるようになる。
「わざ」としての暗黙知は年月をかけて場へと蓄積してきたものだ。場に生きる人間の身体へと浸透し、その実践を通じて命を与えられていくのである。場に根ざすスタイルだと言えるだろう。ある共同体のハビトゥスが他の共同体の視線から見れば不可解に感じられるのも、そういう理由があるからだ。
実践の共同体には先達たちが生みだした叡知が暗黙知として沈積している。その叡知は後進たちに受け継がれてその身体に宿っていく。亡霊的に憑りついていくと言ってもよいかもしれない。いずれにしても、そのためには共同体には持続性が必要だ。
新参者が学習しようとする熟達者の「わざ」は、その「わざ」の価値を担保してくれる文脈=共同体がある程度の時間を経過しても持続する見込みもなければ身に着けようと思えるものにはならない。せっかく身に着けた「わざ」が明日にも無価値なものとして捨てられてしまうようでは身に着けようもない。
というわけで、周辺的正統参加が効果を発揮するためには前提となる共同体が持続するものである必要がある。プリミティブな社会や伝統芸能の世界の分析に正統的周辺参加の理論が適合するのは、恒常的に継続することが確定した共同体だからであるという側面は否めない。だから、ぼくたちの生きる現代社会のように外部環境の変化の著しい世界では有効に機能するかどうかは留保しておく必要もある。
7-5-2. ラーニングフル・プレイス
インプロを習得していくプロセスは正統的周辺参加のケースによくあてはまる。インプロの初心者は熟達者たちの場に参加することで徐々にインプロに習熟していく。そして、イエス・アンドをわが身において実践するインプロバイザーへとアイデンティティを変容させていく。とはいえ、インプロの実践の共同体と伝統的な正統的周辺参加の実践共同体には相違もある。
インプロの指導者としてのキース・ジョンストンはステータスの考え方を重要視していた。一般的に指導者はステータスの高い存在である。だが、インプロの指導者はステータスが高いばかりではいけない。それでは学び手である初心者が委縮してしまうし、よりよくないことには指導者の評価を求めて振る舞うようになってしまう。
だから、ジョンストンは誰よりも低いステータスでワークショップに関わろうとする。つねにワンダウンのポジションを取るのである。すると、学び手は評価を気にせずに振る舞うことができるのでグッドネイチャーを生き生きと発揮するようになる。
伝統的な実践共同体において古参者はステータスが高くて新参者はステータスが低いという地位は不変の構造だ。マルセル・モースは威光模倣が共同体の存続には必要だと論じていた。共同体の持続には新参者が古参者のステータスの高さを模倣して徐々に自身もステータスの高みへと昇っていこうとするプロセスが欠かせない。ステータスの安定こそ共同体の安定を支えるのである。
しかし、インプロの実践共同体では熟達者と初心者の間でも頻繁にステータスの変化が起こる。教える側が教えられる側を一方向的に変化させるのではなく、教えられる側が教える側を変化させるケースも頻繁に発生する。この相互的な変化がインプロの場では学びの触媒として機能するのである。
インプロの実践共同体には絶対的な「L」はいない。家元や親方といった「L」が絶対的な権力をふるう日本伝来の実践共同体とも異なる。ジョルジュ・バタイユは「アセファル」という一風変わった共同体論を呈示していたが「アセファル」とは「頭のない人」という意味である。「頭」すなわち「L」(Leader)の存在しない共同体だ。
一般的に共同体は「L」を中心に組織される。仕事をする共同体ならば仕事の目的や方向を定めるのが「L」の役割である。「L」を失えば共同体は形を失って、その存続の危機を迎えることになる。だから、アセファル的状態は共同体の危機にほかならない。しかし、この危機的な瞬間にこそバタイユは共同体の場そのものが変化しようとする好機を見ようとする。
そもそも権威的な実践共同体は変化を受容しようとはしない。親方や家元が右へ倣えと言えば右に倣う文化である。きわめて同質性の高い共同体文化だ。それに対して変化を歓迎するインプロの共同体には多様性と異質性がひしめきあっている。実践共同体の内部につねに変化が生まれ、場自体が変化を受容するということもインプロのユニークさだ。インプロバイザーの共同体は潜在的なアセファルとして機能することになる。
アセファルは一定の形をもたない。それゆえに、つねに生成変化する「非-知」の共同体である。「非-知」は蕩尽の瞬間に生成する。だから、インプロバイザーの共同体は生のエネルギーに充満し、生成変化を絶やさない。「非-知」に覆われたインプロの場は節制できないエネルギーで溢れていくことになる。
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アセファル的なインプロの実践共同体は伝統的な実践共同体の目には脅威と映るかもしれない。レイヴ&ウェンガーは正統的周辺参加の過程において、古参者も新参者から学ぶことを注意深く指摘している。それにしても、古参者が有している技能が新参者の技能に対して優位にあるという共同体の前提が揺らぐわけではない。インプロの学びはその前提さえ揺さぶってしまう力を潜在させている。破壊的なパワーさえ秘めている。
インプロのときに破壊的な学習が実践共同体に必要とされる「機会」(チャンス)もあるはずだ。実践共同体に培われた伝統の「わざ」は、しかし、放置しておけば外的環境の変化に対応できない認識論的障害へと落ち込むリスクを秘めてもいる。激動する現代社会では個人のトランジションと変容的学習の価値が重くなることをここまで指摘してきたけれど、それは組織や共同体においても同じことだ。
熟達者が省察的実践者として自身をつねにリフレクションするように、変容的学習の局面において人は自身の過去の意味を変えていくように、それと同じアンラーニングが共同体の場にも必要となる。言わば組織の学びほぐしである。インプロの学びはその学びほぐしを起こす可能性を潜ませている。
ヴィゴツキーの強い影響を受けたスウェーデンの教育学者ユーリア・エンゲストロームは個人の学習と集団の学習を架橋する「活動理論」を唱えている。エンゲストロームによれば、ヴィゴツキーの先見性は学習に媒介の価値を見いだしたことにある。それまでの学習の理論は学ぶ主体と学ばれる対象との一対一の直接的な関係から学習が発生すると考えていたけれど、ヴィゴツキーは学ぶ主体は媒介を通じて間接的に学ぶことを強調したのであった。
ヴィゴツキーにとって象徴的な媒介とは言語である。「木」という言葉はここに生えている木と向こうに生えている木とそれぞれ別々の存在である両者を同じ「木」という記号で媒介する。同様にここに生えている木と向こうに生えている木が同じものであることを第三者に伝えるコミュニケーションの道具として人と人とを媒介する。そして「木」という言葉を知らない幼児に「木」という言葉の使い方を教える大人の役割もまた学習における媒介である。幼児は直接に「木」という言葉を学ぶのではなく大人という媒介を経由して学ぶ。
ヴィゴツキーの媒介とはハイデガーの道具的存在に相当する。ハイデガーは人間の生きる世界を合目的的に道具的存在の配置された場として呈示した。そして、世界のただ中に投げこまれた人間は、そこで出会われる道具の使い方を学び、世界の意味を了解していくのであるが、これこそ正統的周辺参加のプロセスにほかならない。
厨房には調理の道具が整然と配置され、手術室には手術の器具が揃えられ、新参者の料理人や医師にとっては、その場の道具たちは、はじめ余所余所しく何を意味しているものか判然と分からないものもあって自在に使えるものではない。しかし、共同体への参加が徐々に十全的なものに近づいていけば道具は親しみやすく、自在に扱えるものへと変わっていく。そして、道具という媒介を共同体の他の構成員と同等に扱えるということが他の構成員にとって信用の証となる。そうして彼を共同体へと強く結びつけ帰属させるのである。
媒介は学習の前提となるけれど、しかし、同時に学習の限界にもなる。現象学的に言えば人間は地平に立たなければ見ることはできないけれど、それとともに地平は視野を限定してしまう。共同体の活動を維持するために必要な媒介が徐々に活動を制約するようになる。共同体の当り前が共同体の外の出来事とずれていき不都合も生まれてくる。そのジレンマは当初とても微細なものとして生じてくる。はじめにそれと気づくのはやはりミクロな視線をもった個々人の構成員である。
「何かおかしい」と勘付いた構成員はまず個人的に解決を図ろうとする。しかし、媒介の歪みはその背景にある共同体の認識の歪みと通底しているから、個々人の努力だけではなかなか解決しきれるものでもない。そのとき、このジレンマはバラバラな個人的努力では解決することのできない共同体社会にとって本質的なジレンマとして再定式化されることになる。
この葛藤や対立は古い媒介=道具が否定されて新しい媒介=道具が生まれてくることでのみ解消されえる。要するに媒介=道具のリフレーミングが起こるのである。媒介=道具はそれ自体が社会的な人工物だから、新しい媒介=道具の誕生は共同体に影響を与えずにはいない。ここに共同体の変容が起こる。
エンゲストロームは新しい媒介=道具をつくることによって個人の学習と共同体の学習が結合する運動の形式を分析した。これが彼の「活動理論」のエッセンスとなる。このとき、発達の最近接領域は個人の現在の日常的な行為と社会的活動の新しい形態との間の距離として再定式化されていく。日々個人として生きることで気づいてしまう疑問や違和感とその疑問や違和感を解消してしまうような新しい社会的活動の形態の間にある距離のことである。
エンゲストロームの活動理論は、個人の活動と社会活動の変容がダイナミックに結びつく理論である。共同体の学習の歪みこそが次の学習の発火点を用意するわけであり、その歪みに気づく個人の眼差しこそが爆発的な変容への火種となる。最近接発達領域の距離を埋めようとする意志が学ぶ主体(エージェント)を内発的に動機づける。
要するに、個人による新たな創発が社会に影響を与えて変容を召喚するのである。ここに日常の一次変化を未来の二次変化へとリフレーミングしていくこととして発達を読み変えていくことが可能になる。だから、これは共同体にとって歴史的な出来事(ハイデガー的な意味においても)なのだ。
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共同体は同じに留まろうとする習慣に強く制限されるものである。だから、エンゲストロームの活動理論を実践の現場で有効に作用させるためには、古い媒介=道具に固執する古参者からの圧力を和らげる必要がある。そこに「L」と「R」を反転させるインプロの学びが輝く余地があるはずだ。
エンゲストロームはミハイル・バフチンの「ポリフォニー」の概念を高く評価していた。バフチンにとってポリフォニーはカーニバルの言語であった。カーニバルでは王の奪冠と道化の戴冠が、すなわち「L」の断頭が起こる。場を支配してきた王が倒れて道化たちの乱痴気乱舞が巻き起こる。あらゆる存在が一度死を迎えて新たな命へと生まれ変わる。それがカーニバルの時間だ。エンゲストロームの「活動理論」はカーニバル的な場においてこそ適切かつ有効に作用するだろう。
あるいは「通過儀礼」を分析したターナーは「コミュニタス」と「リミナリティ」という概念を提唱している。通過儀礼に際して人々が旅をするノーマンズランドは現世の文脈の一切から断絶した領域である。そこではあらゆる人が所属していた文脈から切り離されて対等な関係として関わることが許される。この場がコミュニタスとなる。コミュニタスには貴族も平民もない。そして、コミュニタスにおいて裸の存在へと回帰した状態がリミナリティと名づけられる。
ターナーによれば通過儀礼は死と再生の模倣であった。だから、コミュニタスは死者の世界であり、リミナリティは死者となることに等しいのだ。それはバフチン的カーニバルと通底する考え方であって、それゆえにエンゲストロームの活動理論を死と再生のプログラムとして見ることもまた不可能ではない。
だとすれば、活動理論とは共同体にいちど死を与えることなのだ。なんとバタイユ的なモーメントだろう。新しさの創造のためには死の世界、あるいは世界創造の原生的カオスに近接することが必要なのである。
しかし、死を与えるといってもおどろおどろしいだけのものではない。バフチンのカーニバルが笑いに包まれた時間であったことも忘れてはならない。笑いに包まれるのはインプロの場も同じである。生と死の境を軽々と跨ぎ超えて笑って楽しむことができる、その強さをインプロバイザーも分けもっているのである。
日本中世史家の網野善彦は室町時代を中心に発生した「無縁・公界・楽」をコミュニタス的空間として描いている。すなわち、そこに駆け込めば世俗の一切の縁やしがらみやから切り離される「無縁」、俗世の権力の一切から独立した「公界」、抑圧も束縛もされることなく売買ができる「楽」である。歴史学の分野では「アジール」と呼ばれる場だ。これらは網野が夢見た理想郷の姿かもしれないけれど、それだけに参照すべき価値があるものでもある。なぜならば、現代の学習理論はすべからく「無縁・公界・楽」の場を生みだすことを目指している。「無縁・公界・楽」が学習に欠くことのできない要素であることは間違いない。
7-5-3. 組織生成の神話
一般的に「わざ」の熟達のためにはひとつの実践共同体に長く参加することが必要だと考えられている。毎日のように先輩の「わざ」に接することで徐々に熟達していくものだからだ。したがってその共同体から離れることは考えにくい。
それに対してインプロの熟達には非常に奇妙な側面がある。インプロはひとつの劇団やカンパニーに長くいればそれだけ熟達するかといえば、そういうものでもない。学生だったインプロバイザーが就職を機に一度インプロを離れて、社会人として働き、恋愛をして、結婚をして、子どもを育てるようになったころに、もういちどインプロの場に戻ってくると離れる前よりもずっと表現が豊かになっていることが十分にある。ぼく自身がそうだった。
もちろん、瞬間の瞬発力や細かなスキルは落ちているはずだ。それは当然のこととしても、しかし、以前には出来なかった表現ができるようになってもいる。人間個人としての経験がインプロバイザーとしてのイエス・アンドを劇的に深めているのである。
外部の経験をそのまま持ちこめるところにもインプロの面白さがある。シーンで観客に見せる表現はプレイヤー自身の生き様なわけだから、演じる人自身の経験がインプロを豊かにするのも当然ではある。それでも、共同体内部の人間が共同体外部での経験を再度共同体の内部に持ちこんで活かすことができるのは、インプロの実践共同体の実にユニークなところだと思われる。実践共同体を企業などとの組織として見たとき、組織を外部へと開いて組織を流体化させていくインプロの実践は大きな強みとなるだろう。
組織心理学者のカール・ワイクは著作『組織化の社会心理学』において人間の構成する組織について興味深い指摘をしている。企業組織などを研究する経営学の世界では、組織とは意識的で計画的な目的を共有する人たちによる相互協働の集団と定義されるのがオーソドックスなところだが、ワイクにしてみれば、組織とは意識的な相互行動によって多義性を削減するプロセスでしかない。すなわち、一般的に組織は目的を同じくする人が目的達成のために合理的に構成するものと見なされているところ、ワイクは面倒ごとを避けようとする行動の結果として組織ができると考えている。
ワイクの考え方を使うと組織の誕生はこのような神話で描くことができるかもしれない。草原に人々が集まって暮らしていた。あるとき食料が必要になった。三人の男が食料を調達に草原へと出かけていった。帰ってきた三人が手にしていたものはAがネズミで、Bがウサギで、Cがオオカミだった。三人とも狙ってネズミとウサギとオオカミを獲ってきたわけではなく、その日たまたま出会えた動物がこの三種だっただけである。しかし、ネズミは美味しくなく複数の人で分けられるほど大きくない。オオカミは捕えるのに大きな危険がある。結果、ウサギが食料としていちばん都合よいものだった。
さて「食料」というだけではネズミかウサギかオオカミか曖昧で多義的である。この一件があって以来、この共同体では「食料」と言えば「ウサギ」を指すようになった。要するに、多義性が削減されたのである。
いちどウサギを狙うと決まれば、ウサギ用に罠を作ったり、ウサギの居そうな草むらに目星をつけたり、ウサギを捕えるために最適な仕事の工夫や割り振りが起こるようになる。こうして人間の組織は生まれてくる。
草原でネズミやオオカミを発見してももう捕えようとはしない。不合理な選択だからだ。でも、キツネを発見すれば駆除しようとするだろう。キツネはウサギを襲ってしまう害獣だから、それは合理的な選択だ。
従来の経営学ではすでに出来上がった組織の姿を分析するものだ。その視点から見れば、この組織はウサギをとる目的のために人が協働しているという解釈になる。だが、ワイクからすれば前後ろがあべこべなのだ。人びとが集まってあれこれした結果ウサギを獲ることになっただけにすぎない。
ウサギを獲ることには合理的な理由はない。偶々ウサギを捕まえてきたから食料がウサギと決まっただけで、必然のことではない。草原にはもっと適切な動物がいたかもしれないのだ。それでもウサギを獲ると決まれば、その捕獲のために合理的な選択が積み上げられていくことになる。つまるところ組織の合理性の根源には不合理な偶然が潜んでいるのである。
イナクトメント/淘汰/保持
ワイクによれば、個人であれ組織であれ、認識には「イナクトメント」「淘汰」「保持」の三つの要素がある。三要素の相互的なフィードバックによって認識の全体は構成されている。
「イナクトメント」とは注意と集中を囲い込むことだ。草がそよいでいるだけでは気に留めることもないけれど、草むらに動くウサギを見つければ注意を向けるだろう。草がそよいでいるように見えても陰で何か動物が動いているなと思わせる草の動きであればじっと見つめるはずだ。このようにして周囲の「地」から意識を向ける対象を「図」として切り取ることがイナクトメントである。要するに、アフォーダンスの知覚に等しい。
次にイナクトメントで切り取った情報を吟味して解釈する行為、意味を与える行為が「淘汰」である。淘汰の際、無意味だと判断された情報は捨てられて、有意味だと判断された情報だけが残る。草むらの動きが気になったけれど風が吹いているだけだと判断されれば、その情報は捨てられる。
最後に学習された記憶が「保持」される。風がそよいでいるだけだと気にしていなかったら大きなウサギが隠れていたという失敗、あるいは草むらにウサギの巣穴を見つけたという成功、それぞれが記憶されて、次のイナクトメントや淘汰に影響を与え行動を拘束することになる。
ワイクは楽団が初見の楽譜で音合わせをしていく過程を例えにしている。はじめに演奏家はそれぞれに楽譜を解釈する。「ここは音を伸ばすところ」「ここはすこし静かに」と楽団員はそれぞれに自身の感覚で楽譜を理解をしていく。これが個人としてのイナクトメントである。それで試しに合奏をしてみれば見事にバラバラでまるであわない。なぜならば、個人のイナクトメントがそれぞれに差異のあるものだからだ。そこで自分がしていたのとは違った解釈を皆がしていることに気づく。そうして徐々に解釈をあわせていこうとする。これが淘汰のプロセスだ。
淘汰が繰り返されることによって記憶が経験として保持されていく。同じメンバーと繰り返して練習していれば互いの癖やコツも分かってくる。次に初見の楽譜を見せられても「彼らならここをああいう風に演奏してくるだろう」と当たりをつけることもできるだろう。
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日々職場で日常的な仕事をしていても「あれ、これどういう処理をしたらいいだろう」と感じるマニュアル外の出来事は起こる。周りに確認してみてもそれぞれに違った考え方でいまいちまとまらない。仕方がないので調整をしながら今日のところの処理で済ませておくと、次に同じような事例が起きたときに前と同じやり方で処理しておこうということになり、いつの間にか間にあわせでしたはずの処理が公的な処理の仕方になってしまっている。そういうことはどこの職場にも起きる。けれど、ワイクによれば組織の成り立ちはそもそもそういうものなのだ。
問題なのは、その場の合意によってたまたま生まれた認識が自明で当たり前のものへとすり替わってしまうことにある。認識のフレームがそこに固着してしまうからだ。
たまたまウサギだったからウサギに焦点が当たったけれど、シカだったら一頭でより多くの人の食料を満たせたかもしれない。あるいはオオカミを食料として捕えるのではなく猟犬として飼いならせばより多くのウサギが獲れるかもしれない。そういう可能性はイナクトメントから排除されてしまうのだ。
ワイクによれば、組織とは合意された妥当性によって生まれるものであり、限定された合理性によって動く。その合意に歪みがあれば行く行くは組織にとって不利益となるはずで、学習されてしまった不合理な歪みや凝りを矯正して解きほぐす「学習棄却」(アンラーニング)が必要なのだ。
インプロの実践共同体は実践共同体外部の経験を内部の試行錯誤へと直結させることも可能な共同体だ。外部の視点がもたらされることで多視点的になり、既存の視点の問い直しと手放し、すなわちアンラーニングが促される。
サンキューゲームひとつをとっても、人にはそれぞれ多様な視点があってアイディアは無限なのだと分からせてくれる。固まってしまった認識のイナクトメントや淘汰をもういちど柔軟にして「これ、君には、そんな風に見えるのか」という意外性や驚きを回復すること、インプロが組織の学習に貢献できることはここにある。それは組織生成の瞬間を再度反復することにほかならない。
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伝統的な実践共同体には共同体の安定が前提にある。外部環境の変化が実践共同体の脅威となるのも、外的変化が共同体内部の力関係を変えてしまうこともあるからだ。それに対して外部の変化を内部の豊かさへと転換できるインプロの共同体は、変化をチャンスとすることができる。複数のプレイヤーが関係しあって形成するひとつの場でありながら、その複数性を窓にして外部の異質な要素を取りいれて、新たに変化を生みだしていくこともできる共同体なのだ。
このような特性をもつインプロの実践共同体を、ドゥルーズ&ガタリが『千のプラトー』にて展開した言葉を借りて「リゾーム」的と呼ぶことができるだろう。リゾームとは、語義的には地下茎のことである。根の一般的なイメージは主根と側根から形成される。しかし、それは逆様にされた樹状ツリーのイメージでしかない。幹としての主根があってそこから分岐していく側根があるイメージである。要するに、中心を軸にしたイメージであって、主根による支配の構図にすぎない。それに対して、リゾームは竹の根のように水平に広がり、所々で筍をはやして成長し、どこが中心なのか、それさえ定かではない、無限の繋がりと関係性のイメージだ。
ドゥルーズ&ガタリはリゾームに中心に拘束されるシステムとは違った運動のイメージを重ねた。どこも中心として固定することなく、動きつづけ、始まりも終点もなく、線を伸ばし、外的な他者と接続して、接続してすぐに離接して、つねに中間地点に居つづけるもの、それがリゾームである。
ここでリゾームはドゥルーズ&ガタリなりの学習理論だと理解できる。組織の文脈を固定しようとする力を軽やかに躱して、外へとすり抜けていき、新たな出会いをつないで、いつの間にか文脈を切断し、文脈を変容させてしまう。運動しつづけるリフレーミングの連鎖はまさに現代的な学習の行方を指し示す。
畢竟、リゾームは現代の組織学習の理論を陰で支えるイメージだ。変化に対応できる組織へと変容するためにいかに組織をリゾーム化するか、これが大きなテーマとなる。大なり小なり現代の学習理論はリゾーム化の方向を目指しているように感じられるのだ。
【了】
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