著作者_lwpkommunikacio

8-5.物語るヴィジョン

ねぎぽんです。ワークショップのデザイナーとファシリテーターをしています。

このテキストの全体像は「目次」をご用意しましたのでご覧ください。


ここではイノベーションに欠かすことのできない未来を指し示すもの、つまり「ヴィジョン」について書いていきます。

ピーター・センゲの『学習する組織』やオットー・シャーマーの『U理論』といった著作に代表される「組織開発」(Organizational Development)に関わる研究や実践の現場では「イノベーション」「リーダーシップ」「ヴィジョン」は三位一体、分けることのできないものとして流通しています。

ヴィジョンはリーダーが見せるものであり、まだこの世界に存在しないもの、新しさ、それゆえに希望を宿すものとして呈示される未来の世界の姿です。とはいえ、クリステンセンのイノベーションを経過した今、それが達せしなければならない未来のゴールであると考えることはできません。

そこでヴィジョンを「デザイン思考」の文脈に迂回することで考えを膨らませていきます。ヴィジョンもまたデザインであり、デザインとは人工物によって世界の意味づけを変えるテクノロジーのことです。ヴィジョンをスタートを設定するテクノロジーとして考えてみたいのです。

そこに欠かせないのが「物語」(ナラティブ)です。視覚的なデザインに語ることが実は重要な意味があります。デザインによって設定されたスタート地点に皆が集まることで生まれるダイアローグ、そこに宿るものこそナラティブだからです。


ドナルド・ノーマンやクラウス・クリッペンドルフらのデザイン思考の研究に支えを見いだしながら、デザインをナラティブの相互触発として考えていきます。そこから「縁起」の装置としてのデザインについて書いていくことになるでしょう。

力あるナラティブがリーダーとフォロワーを共に触発して勇気づけていく様を描いていければと思います。


以下14900字です。


8-5. 物語るヴィジョン


8-5-1. 学習する組織

「イノベーション」「リーダーシップ」「ヴィジョン」といった言葉はどれもみな「組織開発」(Organizational Development)の現場で頻繁に用いられている。組織開発の文脈では硬直化して成果の出ない組織に有効なイノベーションを起こそうとする必要性が頻繁に語られる。その際、数多く参照される著作がピーター・センゲ『学習する組織』であり、オットー・シャーマー『U理論』である。双方とも論旨の展開はよく似ている。ここでもやはりグレゴリー・ベイトソンの一次変化と二次変化の理論が下敷きにされている。

 「U理論」は「U」の文字の形に準えて、左半分で下降して右半分で上昇するイメージで形象化される方法論だ。要するに、硬直化した悪循環から離脱して凝り固まったビリーフを手放し、底にあたる存在の根へと沈降していく。存在の深部において新しいビリーフを見いだしたなら、その実現へ向けて上昇するという「物語」の枠組みを呈示するものだ。

 U理論において、組織開発とは凝り固まった一次変化のルーチンから遠く離れて変容へと至る二次変化を促すことにほかならない。畢竟、組織のトランジションの生成が主目的なのだ。その過程で不要なものの「手放し=レティンゴー」があり、運命の「受け容れ=レティンカム」が生起する。

 「Let it go」はディズニー映画「Frozen」(邦題「アナと雪の女王」)のタイトル曲として世界的に有名になった言葉だけど、ここで「it」は精神分析学的に「エス」(es)を暗示する言葉としても読める。とすると「Let it go」には暗に「エスを行きたいようにさせる」という意味が伏せられている。「有りのまま=自分らしくあること」とは異なるのだ。

 フロイト以来の精神分析は無意識の暴露するものこそ意識がずっと見ないようにしてきたものであることを語りつづけてきた。「Let it go」の結果、認めたくないことが起きたとしてもそれが本来的な在り方なのだと認めなくてはならない。「U理論」の「レティンゴー/レティンカム」には、イノベーションのためには、手放したくないものを手放して見たくないものを見る、そういう覚悟が必要だということが秘められている。


   ***


「U理論」にはフッサールやハイデガーに言及しながら存在への下降のプロセスを語る件がある。ビジネス書にいきなり哲学者の名前が出てくるのに驚きを覚えもする。けれど、シャーマー自身マインドフルネス瞑想の実践者でもあるので、どこか神秘的な色彩濃い著作なのも頷ける。そこがセンゲとの差異だろう。

 ピーター・センゲは学習のシステムにより重点を措く。センゲによれば組織開発は組織学習を促進することで達成される。組織が意義ある学習を果たしてイノベーションを起こすために『学習する組織』においてセンゲは五つの「ディシプリン」(規律=訓練)を示している。「自己マスタリー」「メンタルモデル」「共有ヴィジョン」「チーム学習」「システム思考」の五つである。その五つのディシプリンのエッセンスは、実はすでに言及してきたことのなかにある。

 「自己マスタリー」は学習者がそれぞれのスタイルを「わざ」にまで磨き上げようとする営みのことである。「メンタルモデル」は自己のパースペクティブを手放して別の見方ができないかとつねに意識するマインドフルな意識の有り方を指す。「共有ヴィジョン」はスタイルを磨き上げることで得たヴィジョンを他者に投げかけて関係を新たに結びなおしていくことである。「チーム学習」はダイアローグによってパースペクティブやヴィジョンを変容させていくことを意味する。最後に「システム思考」は語用論的な文脈やオートポイエティックな関係性から思考することだ。五つのディシプリンが目指すところもまた、慣れ親しんだ文脈を離脱して新たな文脈を設定しなおすということであり、ベイトソン的二次変化の変奏なのである。

 あえてインプロの用語を使わずとも、シャーマーやセンゲの議論が他者との出会いやミクロのイエス・アンドを肯定するものだとすぐに見て取れるはずだ。もっとも、五つのディシプリンのなかで「ヴィジョン」についてはこれまですこし言及が薄かったかとも思われる。


ヴィジョンも曖昧な言葉だ。多様な文脈で都合よく使われている感は否めない。それでも、ヴィジョンが未来に関わる言葉なのは確かである。まだ存在しないものに関わる言葉であって、より善いものや希望を暗示する言葉であり、視覚的な意味の言葉である。

 ただし「私」に見えるだけのものがヴィジョンとも言えない。誰からも見えるものでなければイノベーションに関わるヴィジョンではないだろう。ここで現象学的な見地からすれば、すべての人が共有できる一つのものこそ「世界」である。したがって、ヴィジョンとはいまだ見えないものとしてのより善い世界や希望の世界を誰にも見えるものにすることではないだろうか。

 センゲもシャーマーもヴィジョンの共有こそ組織にイノベーションを起こすために必要だと考えている。他者にヴィジョンを示すこと、あるべき世界を見せること、それこそリーダーシップの本質を構成するものにほかなるまい。

 サーバントリーダーシップのグリーンリーフも述べていたが、場=状況に変化を生みだすために、周囲の力を巻きこむために、未来の姿を顕わにしてみせるヴィジョンを欠くことはできない。最後にヴィジョンを未来のデザインという文脈で考えてみたい。



8-5-2. 未来のデザイン

イノベーションに不可欠な「ヴィジョン」を考えてみるのに「デザイン」という概念を援用してみたい。イノベーションに関わる界隈では「デザイン思考」という言葉が花盛りである。もとは美術や美学の領域で、ついで工業的な商品企画の領域で使用されていたデザインという言葉は『誰のためのデザインか』ドナルド・ノーマンの業績などを経由して、現在ではひろく人間の経験に影響を与える仕組みをつくる言葉として用いられるようになっている。

 「デザイン思考」と呼ばれる領域も具体的なデザインの方法を呈示するものから、そもそもデザインとは何かと思想的基礎を問うものまで幅広い。具体的なデザインのメソッには教室のように横一列にいすを並べるよりは輪を描くように椅子を配置した方が議論は弾みやすいというような、きわめて実践的な指南も含まれる。それに対してデザインの哲学的背景を論じた著作としてはクラウス・クリッペンドルフ『意味論的転回』がある。

 ぼくの友人にはウェブデザインの仕事をしている人たちもいる。彼らは仕事としてデザインに向きあっている。「UI」や「UX」という言葉を日々実務的に使用している人たちだ。ここで彼らの領分に踏み込んでまでぼくがデザインについて語るつもりはない。技術としてのデザインについては本職の彼らに譲るべきだろう。したがって、ここではクリッペンドルフの『意味論的転回』に依拠してデザインの哲学的な可能性とインプロを繋げる試みをしていきたい。


クリッペンドルフによれば、デザインとは「物に意味を与えること」である。物の世界は生々しくも不定形で偶然に支配された世界である。まさしくカオスだ。そのカオスに形を与えることがデザインなのだ。無意味なカオスに意味あるコスモスを生みだすのである。

 森に落ちている枝を拾ってみる。枝の形や太さや長さはバラバラで偶然の産物そのものだ。しかし、もとは偶然でも人は新たな意味をそれに与えることができる。長く太い枝を選んで体の支えにすれば杖にできるし、細い日本の小枝を組み合わせれば箸にもできる。これが原始的なデザインだ。

 こうしてデザインは世界に新しい「形=意味」を与える。デザインを通じて物に新たな形を与えれば(木切れを箸とするように)物の意味が変わるのである。ものづくりに限定することもない。法律を新たに制定すれば世間の形は一変する。いまある現実に別の切り口から見方を与えて形を新たに与えることはすべてデザインである。したがって、デザインとは、有形無形を問わず「人工物」(アーティファクト)によって人間の行為に影響を与えることにほかならない。

 デザインの生みだす人工物は、それを通して人と物が接点をもつ、あるいは人と人が接点をもつ「媒介=インターフェイス」として機能する。杖のデザインは人と木の関係を取り持ち、法律のデザインは人と人の関係を規定する。人間の行為は周囲の環境や他者との相互的な関わりから生まれてくるものだけどデザインはそれをアシストするすべての媒介である。



人間中心のデザイン

クリッペンドルフによればデザインには二つの別がある。「技術中心のデザイン」「人間中心のデザイン」の二つである。技術中心のデザインは近代の工業化時代のデザインだ。でも、先進諸国では遅くても20世紀までのデザインである。それに対して人間中心のデザインは情報化時代のデザインで、現在デザインに関わる人は避けて通ることのできないデザインの考え方である。クリッペンドルフは、近代的な技術中心のデザインから現代的な人間中心のデザインへのシフトをデザインの「意味論的転回」として定義している。

 技術中心のデザインはユニバーサルな規格化=標準化が徹底されたデザインである。ひとにぎりのデザイナーによって決定され、万人に対して使用の方法や意味を一義的に限定する。だから、世界中のどこの誰に対しても一律の使用法を要求することになる。乗用車やパソコンは世界のどこに行っても同一の規格で作られている。そのために使用者はその規格にあわせて使用する術を身につけなければならない。

 それに対して、人間中心のデザインはデザインの意味はそのデザインを使用する人間によって決められるという立場を取る。使用する人の立場が違えばデザインの意味も当然変わってくる。デザインを受容する場の文化の差異によってもデザインの意味は差異化されてしまうのだ。

 もとは旅行用のカバンからスタートして、丈夫で何世代も続けて使用できる革製品を製造するメゾンとして知られていたルイ・ヴィトンの製品が、いつの間にか日本の女性たちの間でモノグラムが「カワイイ」と評価されるアイテムに変容していたということもある。発信された際の意味と受信された際の意味が大きく異なっているのだ。これも人間中心的な需要のされ方と言えるだろう。

 要するに、人間中心のデザインはきわめて間主観的な価値に立脚している。物の意味は、物そのものが保持するのではなく受容された文脈が決定するという語用論的な見方をする。だから、当初のデザインには思いもよらなかった意味が生成してくる可能性もある。

 コンビニエンスストアの24時間営業の営業形態は、はじめ買う人の利便性を考慮してのデザインだった。ところが、24時間明るい光があって人がいてくれることから防犯に役立ったり、駐車場スペースが若者の交流の場として利用されるようになったりしている。このようなことは前々からあったことではあるが、これを意識的に取り入れる点に現代的な人間中心のデザインの特徴がある。

 畢竟、使用者(ユーザー)すべてに同一の意味を強要するのが技術中心のデザインであるのに対して、ユーザーの主体的かつ積極的な参加を促すものが人間中心のデザインだ。ユーザーに使い方を学習するように強制するのが技術中心のデザインであり、ユーザーの使用の仕方に寄り添って、デザインの側が学習して変化をしていくのが人間中心のデザインである。こうして人間中心のデザインは人と物、人と人のインターフェイスをユーザーへと開放する。人間中心的デザインのインターフェイスはデザイナーの手を離れて、人と物、人と人が自由に相互交流をする場として機能するようになる。


   ***


デザインとは物に新たな形を与えて新しい意味を与えなおすことだ。新しさには「いままでになかった」という意味が必然的に含まれる。「いまだない」(ノッホ・ニヒト)を「希望」の原理として考えたのはドイツの哲学者エルンスト・ブロッホだった。全三巻の分厚い『希望の原理』はブロッホによるユートピアの百科全書だが、全編が「いまだない新しさ」への希望に貫かれている。だから、まだ見ぬ「善さ」や「望ましさ」、あるいは「希望」を志向するものとして新しさは機能するのである。

 デザインはつねに未来を志向するものであり、未来にはいまだ実現されてはいないあるべき姿が期待されている。だから、デザインには現在の望ましくない世界に対して望ましい姿かたちを与えた未来を描く野心が込められている。もちろん、デザインとはまずは物の形である。他者に対して知覚可能でなければならない。あるべき未来の形を現実化可能な人工物として提案することで他者にも知覚できる共有物にすること、そこにデザインの革新的な力がある。

 望ましい未来を知覚可能な人工物として見せ、未来への道筋を創造すること、それがイノベーションに直結するデザインの可能性だ。このような「デザイン」の力こそ曖昧模糊としていた「ヴィジョン」という言葉をクリアにするものではないだろうか。すなわち、ヴィジョンとは望ましいけれどいまだ「見えないもの」である未来を他者にとって「見えるもの」にするデザインのことである。


見たい未来の姿をヴィジョンとして指し示す誰かがいれば、誰かがそれを見て興味や反応を示して、それに関わろうとするだろう。ヴィジョンは一方向的な押しつけではなく、人と人が相互作用を生みだしていく縁になるものだ。相互作用があれば新たな未来のデザインは必ず生成してくる。ひとりの見たい未来ともうひとりの見たい未来には差異があるはずなので、両者が影響を与えあえば新たに変容を遂げるからだ。

 ヴィジョンの場は人の巻き込み巻き込まれていく場へを創造する。ヴィジョンの示す未来のデザインとは現在と未来のインターフェイスとして人と人、人と物が関係を作る場を形成するものとなる。まさに人間中心のデザインそのものだ。


   ***


純粋に自由なデザインは存在しない。デザインには何かしらの制約や制限が存在する。家具をデザインしようにも木材、石、金属と素材が違えば、可能なことと不可能なことの別が生じる。色をつけようにも赤、青、黒、それぞれの色が意味するものは文化によって異なるからそれを無視するわけにもいかない。物質的にも精神的にもデザインは所与の制限を受容するところから始めなければならない。

 しかし、ただ与えられたものを追認するだけではデザインではない。そこに変化を導くことが新たなデザインの役割である。デザインとは来るべき未来への試みにほかならない。一次変化から二次変化へ向けての跳躍である。そこには断絶と切断が起こる。現在と未来の間に生じた「断層=ギャップ」、ヴィジョンはそこに宿る。

 デザインは現状に差をつくり、未来に変化を導く、決断的な行為である。現状に甘んじていればせずに済んだ挑戦ではある。成功するか失敗するかも定かではなく、それはある種の「賭け」である。


ハイデガーを振り返れば人間存在の本質は「被投性」にあった。否応なく状況へと投げ込まれて逃れることのできない人間存在の有り方のことである。しかし、人間はただ状況に投げこまれているだけのものでもない。所与の状況を我と我が身に引き受けながらも現在の有り方から超え出ようとすることもできる。「被投的投企」を果たすこともできるのだ。だから、デザインに「被投的投企」の側面を認めることはできないだろうか。

 なによりも「投企」は英語で「プロジェクト」(project)だ。デザインに「プロジェクト」的な性質があることはクリッペンドルフも認めている通りである。企業や官公庁でプロジェクトチームが組まれる場合、一般的に目下の課題を解決するために現状では確立されていない解決の枠組みを模索して構築することがその目的とされる。そもそも「プロジェクト」は、語義的に「前」(pro)へ「投げる」(ject)を意味する。プロジェクトが未来をデザインするためになされることに間違いはない。

 畢竟、プロジェクトとは未来のヴィジョンを投影機(プロジェクター)のように前方に投影して、その絵を周囲に見させることにほかならない。複数の人間が同じ絵を共有することで、互いに刺激され、共に行動を起こしていく。したがって、プロジェクトの場は複数の人間が関係するインターフェイスであり、創発するエネルギーに満ちた可能性の場なければならない。理想のプロジェクトはそういう場であるべきなのだ。


世界は多様な形に溢れている。それゆに混沌として形のない世界でもある。この混沌とした世界を「地」に新しい形をあてはめて「図」を作ることがデザインという行為である。

 デザインも人間のするひとつの行為である以上、行為をする誰かによってされなければならない。すなわち、純粋な自由ではないデザインはデザインする誰かという文脈に根ざさなければならない。「私」がデザインをするのなら、そのデザインは「私」に見えた世界を形作るものであるはずだ。それは「あなた」が見る世界とは相違する。

 だから、デザインする「私」は「私」だけに見える形を世界にあてる。そうしてカオスからコスモスを浮かび上がらせるのだ。メルロ=ポンティに従えば、世界という差異化=微分化しつづける「地」に対して、異化=分化した形を与えて「図」という知覚へともたらすものは身体の機能である。

 現在という「地」に未来という「図」をどのように描くのか、そのデザインは描く人によって大きく異なる。それはもちろん身体に根ざした経験や記憶が相違するからだ。そして、その人の身体に根づくデザインだからこそその人自身が見せる価値のあるものとして輝くのである。さもなければ、その人が見せる理由がない。他の誰が見せてもよいものになってしまう。だから、デザインもまた身体的な「わざ」なのだ。



物語るデザイン

 現在はまだ大多数の人にとって「見えないもの」であるけれど、「私」には「見えるもの」であるものがヴィジョンであって、そのヴィジョンを形にすることがデザインである。だから、ヴィジョンもデザインも、本来的に視覚的なものである。しかし、クリッペンドルフは、人間中心的なデザインの本質を、「ナラティブ」、すなわち、物語ることに措いている。しかし、それは意外なことではない。デザインが身体的なスタイルに根ざすものであるならば、それは当然のことである。

 技術中心的なデザインには身体性は関係なかった。デザインは普遍的で画一的なものでなければならず、それゆえに、誰もがそのデザインを受け入れて使用せざるをえなかった。デザインとはそういうものだったので、問い直すこともなかった。しかし、人間中心デザインの場合は、発信側がどのように使ってほしいかを、受信側がどのように使いたいかを、それぞれ表現して、そこに対話が生まれる。

 技術中心のデザインが一切の文脈を無視するものだったのに対して、人間中心的なデザインは個別の文脈がすべての意味を握る。だから、「私」が何を思ったのか、「あなた」が何を感じているのか、という個々の身体的な体験が語られなければならないのである。

 畢竟、「私」が見たい未来を他者に見せることがデザインなのだ。だから、どうして「私」がこの未来を見せたいのか、どうして望ましい未来の形がこれなのか、それを自身のナラティブとして、自身の経験に紐づけて語らなければ、誰にも伝わらない。デザインは「私」の希望が色づけ、綾どり、形づくっていくものなのだ。他の誰でもない「私」自身のものでなければならない。さもなければ、入れ替え可能なものとなってしまうからだ。


   ***


未来のデザインとしてのヴィジョンは「私」の身体に宿るスタイルから生まれてくる。デザインは他の大多数の人にはまだ見えていないけれど「私」には見える未来として、要するに「私」の見たい未来として語られるべきものである。視覚的なものであるはずのデザインにおいて「ナラティブ」(物語ること)が重要性を帯びるのも、ひとえに人間中心的なデザインが人と物、人と人との対話に基づくものであるからだ。

 人間中心のデザインにおいて人工物の意味はユーザーの経験によって決定される。したがって「関係者」(ステークホルダー)がそれぞれ「何を思って使用したか」「使用して何を感じたか」を、受信者側から発信側にフィードバックできることが重要だ。発信側が受信側に対して一方向的に意味を押しつけるのではない。デザインに対話が組み込まれていなければならないのだ。だから、受信側にもデザインに参加しようとする構えが求められる。文句の言いっぱなしや要求のしっぱなしではない。対等な関係としてデザインに責任をもつ当事者となるのである。


相互的なナラティブやダイアローグによってはじめて意味を生成する人間中心的なデザインは、したがって、つねに「リ-デザイン」の可能性を孕む。人間中心のデザインは完成されたデザインではありえない。はじめデザインする「私」によって発信されたデザインは、受信したステークスホルダーの多様な文脈によって多様に解釈される。そして、受信者のフィードバックが発信した「私」に返されるとき、もはやもとのデザインからは遠く離れてしまっている。

 人間中心のデザインは変容を受容せざるをえない。たしかに、デザインは未来を描くものではあるけれど、しかし、ゴールを決めるものではない。ゴールはいつだって書き換えられてしまう。だから、人間中心的デザインのみせる未来はつねに「いまここ」から出発するためのスタートなのだ。



8-5-3. ヴィジョナリーリーダーシップ

人間中心的なデザインとしてヴィジョンはゴールを見せるものではなくスタートにつかせるものである。したがって、ヴィジョンを見せるリーダーもまた人々をゴールに導く存在ではなく人々をスタートにつかせる存在なのだと理解すべきだろう。だからこそ、インプロのリーダーシップを顧みる価値がある。なぜならば、インプロのリーダーシップは「L」と「R」が反転するリーダーシップであり、スタートを作るリーダーシップであるからだ。

 すべてのインプロバイザーは共演者を必要とする。ひとりで芝居をしているときでさえ観客という共演者が必要だ。どれほど「L」であろうとしても「R」がいなければ「L」にはなれない。助けがいるのである。インプロのリーダーは助けを求めざるをえない。インプロのリーダーシップはひとりでは何もできないリーダーシップだ。依存のリーダーシップである。

 しかし、助けを求めたはいいものの、その助けは欲しかった助けとは違うかもしれない。イエス・アンドとはそういうものだ。求めたように与えられることはなく、与えたものは別のもので帰ってきてしまう。だから、求めた側が変わらないではいられない。インプロのリーダーは求めたはずの助けによって自分が変化させられてしまう。きわめて脆弱なリーダーである。

 インプロのリーダーシップは依存と傷つきやすさのリーダーシップである。しかし、イエス・アンドを約束することで、たとえ自分がどんなに変わってしまっても他者には必ず応答するという責任を約束するものでもある。こうして依存と傷つきやすさのリーダーシップは同時に共にいてくれる他者を絶対的に肯定する応答のリーダーシップへと変容するのである。


弱く変化させられてしまうインプロバイザーを観客は愛さずにはいられないとキース・ジョンストンは語っていた。リーダーは強くなければならないと思われがちだ。たしかに、そういう面もあるだろう。しかし、リーダーとしてのインプロバイザーはとても弱く傷つきやすい存在である。でも、その弱さや傷つきやすさが周囲の人の力を巻きこんで、さらに大きな変化を促すことがあることも知っている。

 オファーもとても弱いものだ。次のイエス・アンドでいかようにでも変えられてしまう。でも、変えられてしまうからこそ、人は関わろうとする。どれほど見当はずれで失敗したと思えるオファーでも関わってくれるプレイヤーのイエス・アンドで生まれ変わることもある。

 インプロバイザーは未来の誰かに依存している。誰かがいてくれなければ自身の見たい未来が決して叶わないことを知っている。だから、誰であっても関わってくれる人を受容しようとするのだ。それがインプロバイザーの傷つきやすさとしての強さである。


古典的なリーダーシップは他者を従わせる強さのリーダーシップだった。しかし、インプロのリーダーシップは他者に弱さを見せるリーダーシップである。強いリーダーシップは周囲の人を撥ねつけてしまう。近寄らせはしない。たしかに、弱さはつけこまれる隙ではある。しかし、隙があるから人が近寄ってくる。隙をつい見てしまえば他者は関わらずにいられなくなってしまう。助けてあげたいと思うだろうし、自分にもできることがあるのではないかとも思うだろう。そのようにして隙や傷つきやすさが周囲の人間を内発的に動機づけることもあるのだ。

 完全で隙のないリーダーシップは、言うことには従っておこうと思わせはしても、自分から何かをしてあげようとは思わせない。けれど、不完全さを許すリーダーシップは知らぬ間に周囲を巻きこんでしまう。

 人間中心のデザインを提唱したドナルド・ノーマンは人間中心のデザインの概念を推し進めて、優れたデザインはユーザーの肯定的な感情を刺激して深い愛着を感じさせるという「エモーショナルデザイン」という概念へと辿りついた。「関わってもいいよ」というアフォーダンスを見せることは、さらに関係を深めたいという動機を刺激することになる。

 だから、インプロの優れたオファーはエモーショナルデザインとして良質なのだ。思わず人を引きつけて関わらせてしまう。どんどん関わっていきたいと思わせ、そのために何かをしたいと思わせてしまう。ひとりが「ここに山があります」とスケッチすれば、次の誰かが「一面の緑です」と続け、そして、次々にスケッチが描きこまれていく。誰が強制したわけでもない。誰がお願いしたわけでもない。誰もが思わず一歩踏み出してしまったのである。純粋なスポンタネイティとして。

 しかし、スポンテニアスにでも関わってしまえば、もはやこの場と無縁ではいられない。いつの間にか「L」と共に未来を生みだす責任を分けもつ当事者になっている。未来をデザインする責任はもはや「L」だけのものではない。「R」もまた対等な関係で未来をデザインしていく仕事に関わっているのである。


   ***


シーンに生まれたオファーは「L」として誰かが呈示した未来の可能性のひとつにすぎない。しかし、この可能性をインターフェイスにして他のプレイヤーも場の未来に関わりはじめる。しかも、スポンテニアスに。インプロバイザーが純粋に内発的に動機づけられて場に関わるときグッドネイチャーでいることができる。インプロに脚本というゴールがないことがそれを可能にさせるのだ。

 ゴール不在という余白が「自分にも関われる余地がある」「自分にもできることがあると」プレイヤーを動機づける。余白は好きなように好きなものを書き込むことを許す場だ。誰であってもいいし誰でなくても受容される空無の場である。

 インプロバイザーの居場所は余白にこそある。インプロバイザーの存在は余白において肯定される。余白がプレイヤーとプレイヤーを場に強く結びつけ、その責任を分けもたせ、愛着や親しみを強めていく「縁起」となるのである。


人間中心的なデザインであるヴィジョンは未来に余白をもつデザインでなければならない。リーダーがはじめに見せる未来の姿が周囲の人たちに影響を与えていく。ヴィジョンに興味を引かれて周囲に人が集まってくる。こうしてヴィジョンは「ご縁」を繋ぐ「縁起」の装置となる。

 ヴィジョンに関わりたいと集まってくる人たちがヴィジョンの余白に次々と新たなヴィジョンを書き加えてヴィジョンは次第に豊かになっていく。そして、関わった人たちは自身の痕跡のあるこのヴィジョンに愛着を覚えていく。そして、ますます関わっていきたいと思うようになる。

 優れたデザインはその周囲に人を呼び寄せてコミュニティを生成する。だから、デザインは本質的にコミュニティデザインなのだ。ハイデガーやマルクスが指摘するように、人間は他者との関係性のなかでのみ自己の存在を定立できる存在である。だから、被投的投企としてのヴィジョンは関係性の「リ-デザイン」、いま有る関係性をいったんほどいて新たな関係性を結びなおすことにほかならない。



感染するナラティブ

ヴィジョンは言語と理性から発した抽象的な形式ではない。「いまここ」に生きている人間の具体的な過去と経験に根ざすものとして身体的な陰を伴うものである。これまでを語り、それゆえのあるべき未来を語り、いまここで懸命に生きている、その語りがヴィジョンに力を与える。だから、ヴィジョンは「誰」が語るかがとても大切なのだ。人の身体に宿ることのないヴィジョンは空疎である。生々しい身体から生成した語りであればこそ、他者の身体の感応力を刺激する。そこに共鳴と共振が生成する。

 ヴィジョンは未来を垣間見せる隙間だ。終わることのない日常の繰り返し、この循環に切れ目をいれて別の道を仄めかす。その先にある未来は希望「いまだない」ものとしての希望である。しかし、希望への道は慣れ親しんだ地からの離脱だ。どこへ続くものか誰も知ることのない道筋である。辿りつくべき場所を知らない遊離と漂着の旅となるだろう。

 だから、いまここにヴィジョンを携えて不確かな未来へと歩を進めようとする人にはいまを生きる生のきらめきが宿るのである。非日常のカリスマ、蕩尽の魅力である。その輝きがまた他者の身体を揺さぶるのである。


ヴィジョンは「物語」(ナラティブ)であるからこそ力を宿す。ナラティブの力を宿して唯一無二の輝きを放つ。ポール・リクールは「私」の有り方を「同一的自己」「物語的自己」に分けていた。「同一的自己」はいわゆるアイデンティティを意味する概念で、時間や場所、関わる人、そのような文脈を離れてさえ変わることのないものとしての自己である。それに対して「物語的自己」は物語が語られる文脈と関係してその場で生成する記憶と経験の編み直しとしての自己である。

 リクールは「同一的自己」を他者を支配して自己を抑圧する形式であるとして退ける。反対に他者と共に存在することを認めて自己の変容も許す「物語的自己」こそを倫理的な主体であるとして支持する。物語的自己は「いまここ」で過去と未来を共に待ち受ける。すなわち、過去の記憶や経験を語りなおす主体として過去の他者との関わりを肯定する。そして、未来の他者と関わって新たな物語を共に紡いでいこうとする主体として未来の他者との関わりを肯定する。物語的自己は絶対的な現在の「主体」(エージェント)である。


リクールの物語もまた未完の物語である。たしかに主体はここまでの物語を語りはする。けれど、その語りもまた語りなおされる可能性を許している。

 ただし、未完であれ物語は物語だ。人間の人生に意味を与えるのは彼の人生の物語以外にはありえない。いままで生きてきた生を肯定する物語は(それが喜びにあふれた人生であっても、苦難と格闘してきた人生であっても)その物語を聞く/読む他者に確かな痕跡を残すだろう。

 それゆえに物語は「模倣」(ミメーシス)の形式となる。物語において人間は自己の生に意味を与え、物語を通して他者の生の意味を模倣するのである。物語は「あんなふうに生きてみたい」「あんな人生を送ってみたい」と他者の欲望を引き出していく。ひとつの物語が無数の物語へと離散していく。人の命、人の存在は物語において多数の人に語り継がれ、拡散していくのである。


   ***


秋山正子さんのマギーズへの「物語」(ナラティブ)は、彼女が39歳のとき2歳年上の姉を肝臓がんで亡くしたことに始まる。主婦として家事を誇りにしていた姉のために秋山さんはベッドを台所が見える場所に置いた。そのおかげで、彼女はベッドの上から夫に料理の指示を出すことができた。家に帰った子どもたちもベッドの周りで遊ぶことができた。最後まで自分らしく人生を暮らすことができたのだった。この経験が「がん患者が最後まで自分らしく安らかな人生を送れる場所を」というマギーズへの思いへと結びついて「暮らしの保健室」というヴィジョンを秋山さんに見させたのだった。

 「秋山正子」という物語を読んで勇気づけられた人は数多くいる。ぼくもその一人だ。「暮らしの保健室」を自分の暮らす地域にもと触発されて活動している人は全国にいる。そこに鈴木美穂さんの物語が訪れる。二つの物語が出会って「マギーズセンターを東京へ」というヴィジョンが生まれた。ヴィジョンは「そんなことが実現できるのか」という希望の明かりとなって日本全国の人の心を動かした。その結果が2000万円を超えるファンディングである。物語なき物語を歩いてきた二人の現在を生きる力が生みだした蕩尽の物語である。

 未来を語るナラティブとして蕩尽の力を宿すヴィジョンは聞く人の情念を強く刺激する。強力な感染力や拡散力をもって人と人を繋いでいく。力あるヴィジョンは本質的にエモーショナルデザインであり、コミュニティデザインである。

 もちろん、ナラティブが誰にどのように届くのかはまったくの偶然である。聞く人それぞれ身体に宿る記憶と反応させて受け取るものだからだ。多様な受け取り方が許されるのもまた未来がまだなにも決められてはいない余白だからだ。この余白、この遊びの領域を欠くことはできない。その隙間が人に関わりの余地を与えて関わりたいという情動を触発するのである。



物語の余白

ハイデガーは「時間-遊動-空間」(Zeit-Spoel-Raum)の運動を存在に本質的なものとして考えていた。過去の記憶は歴史の物語として文脈を設定する。しかし、到来する未来に向けてその文脈を離脱するとき、文脈に縛られていた意味は無時間的な空間のひろがりへと繰り広げられてバラバラと遊動を開始する。遊動することで古い意味は新たな意味へと生成変化を遂げていく。生成する微細な差異の意味をすべて肯定すること、それでいて優劣上下の別はないこと、遊びが遊びたる由縁である。ハイデガーはここに意味が新たに生成する契機を見た。

 ハイデガーの「遊び」の概念を継承したジャック・デリダは、生成する意味を「差異の戯れ」として語った。デリダによれば差異は「間」において生成する。人と人の「間」やものと人の「間」、あるいは、ものとものの「間」、この「間」にである。間はつねに空白の領域、余白であって、差異の生成にはこの余白がなければならない。デリダの語る「間をつくること」(エスパスマン)と差異の戯れを生みだすことは等価だ。


人は余白に生きた痕跡を残していく。語ったこと、動いたこと、喜んだこと、泣いたこと、すべて痕跡となって余白に書き込まれていく。痕跡には読む人もいる。書き方にもスタイルがあれば読み方にもスタイルがあって、痕跡は書かれたときとは異なったスタイルで読まれていく。別様に読まれることで痕跡は別の文脈へと接木されることになって、その都度、痕跡の意味は変容する。別様の新しい痕跡へと化すのである。

 余白において関係は生まれ、余白があるかぎり意味が同一性を保持することはできない。ひとつの痕跡が無数の読まれ方において無数の意味を生成すること、その運動をデリダは「散種」と名づけた。

 人間は自己の生の意味を物語っていく。他者と「間」において出会い、その出会いを過去から未来へと続く「時」の流れに接合することで物語っていく。だから「間をつくること」は「時にすること」(タンポラリザシオン)と絡みあっているわけだ。しかし、出会いはある時まったく偶然に起こる。デリダ好みの比喩を使えば、誤配されてきた手紙をたまたま開いてしまったかのように、知るはずのないことを知ってしまったかのように。

 知ってしまったからには後戻りはできない。意図しなかった出会いや予想外の経験が人生をまったく別の意味へと配送していく。「どうして私なんだ」という当惑こそ、戯れの瞬間なのだ。届いてしまった手紙、受信してしまったメール、受け取ってしまったメッセージがどうにも拒むことのできない運命(ミッション)へと転じるのである。


【了】

画像著作者:lwpkommunikacio
画像は著作権フリーのものを使用しています

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?