4-3.インプロ的応答 / E.Levinas
ねぎぽんです。ワークショップのデザイナーとファシリテーターをしています。
このテキストの全体像は「目次」をご用意しましたのでご覧ください。
インプロのワークショップは「コミュニケーション力を高める」という触れこみで開かれることが多いようです。ぼくが開催するときもそういった看板で告知することがあります。けれども、インプロで本当に「コミュニケーション力」が高まるかは正直微妙なところです。
インプロは確かに人が人と関わる行為ではあるけれど、それが一般的に使用される意味での「コミュニケーション」なのかといえば、そうではないように感じます。
すくなくともインプロは「分かりあう」ことを求めてはいない。オファーをいくら重ねても「分かりあう」ようにはならず、むしろ「分かりあえない」ことの方が多く、そして「分かりあえない」からこそのインプロなのだと気づく。
インプロのコミュニケーションは「分かりあうこと」をそもそも放棄しているので、一般的な意味でのコミュニケーションとは別物です。しかし、それゆえに人と人とが関わるうえでの根源的かつ本質的な運動を見せてくれます。
このインプロ的なコミュニケーションならざるコミュニケーション、他者との応答の出来事をエマニュエル・レヴィナスの考えに寄り添いながら考えを進めていきたいと思います。
レヴィナスは他者の肯定に一生の思索を捧げた人でした。まったくの異質さとしての他者、何を考えているかもわからない他者、受け入れがたい他者、そのような他者にさえ肯定の言葉を投げかけることがレヴィナスの倫理でした。
このレヴィナスの思想をインプロのイエス・アンドで読み解こうというのです。
以下12800字です。
4-3. インプロ的応答 / E.Levinas
インプロには前もっての脚本がない。プレイヤーたちはその瞬間の相互作用で関わりあってシーンを作っていくことになる。けれど、最初の前提としてインプロは芝居である。ということはそれを見ている観客が存在する。
脚本のある芝居なら事前の稽古でいくらでもセリフや演技の段取りを修正することはできる。しかし、シーンを演じている最中にどんなに分からないことがあっても、観客の前で「ちょっと待って、いまのどういう意味?」と確認することはできない。シーンを演じていると、シーンの途中でいきなり、
というようなオファーを受けることは日常茶飯事。「あれって、何?」「見てってどこを見ればいいの」と内心つぶやくのだけど「見えないよ」と正面からブロックするわけにもいかない。共演者は目の前にありありと見ている風なので「何が見えるの?」と聞き返すのもシーンの流れを停滞させてしまいそうだ。
となると、受け取ったオファーだけが宙に浮かんで、あたかも何が書いてあるのやら意味不明な暗号のようにも見えてくる。それでも、この意味不明を受けいれて、ここに関わるのがインプロバイザーだ。
4-3-1. 到来する他者
インプロの相互行為は「相手が何を考えているか」「相手が何を求めているか」が瞬間的にはさっぱり分からないということを絶対的な前提にしている。だから「分かりあう」ことは目的になりえない。共演者のオファーが自分に届くときに書き手不在の痕跡としてしか届かない。「やりたいことがあるようだが、これはいったいどういうことだろう」と届いてしまったオファー、しかし、何を意味しているか分からないオファーを受け取って、それでもイエス・アンドをしなければならない。
オファーを発する側と受け取る側がきれいに反転できるなら「分かりあう」ことも可能である。しかし、インプロではそうはいかない。両者に絶対的な非対称性と不可逆性が存在する。これがインプロに特徴的な「コミュニケーション」だ。
そもそも「分かりあえない」のだから、コミュニケーションならざるコミュニケーションとでも言うべきなのかもしれない。いずれにしてもインプロは他者との関わりのエクササイズではあるけれど、他者との関わり方はきわめてユニークである。そのようなインプロのコミュニケーションについて語るためにエマニュエル・レヴィナスに言及したい。
***
エマニュエル・レヴィナスは1906年にリトアニアに生まれたユダヤ人だ。後にフランス国籍を得て第二次世界大戦時にナチスドイツとはひとりのフランス兵として対峙することになる。
ナチスドイツの虜囚となるもフランス国籍であったために収容所送りを免れたレヴィナスは、ナチスの起こした惨劇を知らぬまま終戦を迎えた。解放されてはじめてレヴィナスはホロコーストの事実を知ることとなる。ユダヤ人として捉えられた家族はみな命を奪われていた。同胞たちが次々と存在を消されていくなかでひとり生き残ってしまった。この外傷を出発点に彼は戦後の思索をスタートさせる。
レヴィナスの哲学的原点は現象学にある。フッサール現象学をフランスに初めて紹介したのはレヴィナスであった。そして、彼の師は奇しくもハイデガーだった。『存在と時間』ほどレヴィナスに影響を与えた哲学書もない。しかし、師ハイデガーはナチス党員であり、対ナチス協力を戦後厳しく批判されていた。運命の悪戯というにはあまりに皮肉な話だ。以来、現象学の鬼子レヴィナスはハイデガーの存在論に徹底的に抵抗することを自らの使命としたのだった。
レヴィナスの著書といえば『実存から実存者へ』『全体性と無限』『存在の彼方へ』などが知られた作品で、ぼくはどれもよく読んだ。身体性への関心から身体的な記述の豊かな『存在の彼方へ』が好みで、この本は副題の「存在するとは別の仕方で」(存在するとは別様に)がまたひときわ格好良い。
レヴィナスの思想といえば一も二もなく「他者」である。レヴィナスの語る他者は理解することの決してできない絶対的な異質さとしての他者だ。レヴィナスにとって理解とは他者が「私」と同じであると認識することに等しく、他者と「私」の差異を抹消してしまうことを含意する。そのとき他者の他者性は失われてしまう。レヴィナスはよりはっきりと「殺人」と呼んでいる。畢竟、理解するとは他者への暴力そのものなのだ。レヴィナスを読むときこの視点を忘れてはいけない。
したがって「私」と他者との関わりは目と目をあわせてというわけにはいかない。「私」と他者が一致することはありえない。「私」と他者の間にはつねにズレが存在するのである。まずは時間的なズレとして。
他者はあるとき突然に「私」に訪れる。しかし、訪れるとともに消えてしまう。結局、他者からの呼びかけは「痕跡」として残るだけである。「私」と他者が時間的にすれ違ってしまうことをレヴィナスは「隔時性」と呼んでいる。すれ違うのだけど訪れてしまうのだ。気づいたときにはもういない。なのに呼びかけられているのである。他者の到来とは、そういうものであって、はじめてインプロを経験したとき「ああ、これはレヴィナスだ」とぼくは思った。それはまさにインプロバイザーのオファーなのだ。
インプロバイザーがオファーを受け取ったら「イエス」と言うか「ノー」と言うか、二つに一つである。「ノー」と相手を否定することは他者を殺してしまうことに等しい。他者を殺すことは簡単なのだ。「ノー」と言いさえすればよいのである。
他者は即座に否定されてしまうほど弱く傷つきやすい。しかし、まさか殺されることを求めて呼びかけてくるわけではない。ユダヤ人のレヴィナスは、モーセの十戒に即して他者はすべて「汝、殺すなかれ」と呼びかけてくると述べている。
他者には「傷つきやすさ」(vulnerabilite)がある。他者は弱く貧しい。しかし、同時に「私」にとって他者は「汝、殺すなかれ」と呼びかけてくる厄介者でもある。「私」は自由でありたい。思うように振る舞いたい。そのとき、他者が到来して「私」の行動に制限を加えてくる。それを否定することは容易い。容易いけれど「殺すなかれ」との呼び声をむざむざ踏みにじることができるだろか。
ひとりのインプロバイザーがどれほど自分の思った通りにシーンを動かしたいと思っても共演者はまったく思い通りにはならない。思い通りにしようとすればブロックが生まれ、コントロールが生まれ、シーンはたちまち崩壊してしまう。思い通りどころか本末転倒だ。かといって「イエス」と言えば、思い通りどころか思っていたこととはまったく違った方向へと転がっていく。
このように他者は「私」を徹底的に制限する。だから、レヴィナスは強迫者としての他者の姿も描いている。他者は「私」の自由を審問し、問い詰め、吊し上げにしてしまう。このとき他者の経験はまさに受苦の経験である。
「ある」のざわめき
どうして、苦しい思いまでして他者と関わらなければならないのだろうか。もちろん、ナチスによる圧倒的な「同」の暴力が「他」としてのユダヤ人を抹消しようとしたホロコーストの暴力に抗うことをレヴィナスが自身の使命としたことは理解できる。でも、そこからさらに他者と関わるのは他者を救うためだけではなく「私」自身を救うためでもあるとレヴィナスは踏み込むのである。
レヴィナスは師ハイデガーの存在論に対抗するために独自の「ある」の理論を生みだした。ハイデガーの喩えによれば「有る」(存在)とはドイツの黒い森のただなかにすっと差しこむ光である。暗がりのなかに開かれた明るみ、穏やかな気配、それがハイデガーの「有る」である。それに対してレヴィナスは「ある」を絶対の 暗闇として喩えている。ありとあらゆるものをその暗さのなかへと溶かしこんでいく絶対的に匿名的で無意味で等質の暗黒の塊そのものである。
要するに、ホロコーストに死んでいった者たちが消えていった闇、他者を呑みこんで消し去った闇、生存の意味を根こそぎ無きものにする無意味の闇、それがレヴィナスの「ある」だ。存在することを意味する英語の「there is/are」が、ドイツ語では「es gibt」(それが与える)であるのに対して、フランス語では「il y a」(それがそこでもつ)と表現されるわけだけど、存在に「もたれる」ことの行き場のなさをレヴィナスは語っている。
「ある」本質的な無明性である。明けることのない夜、不眠のざわめき、出口なしの閉塞だ。「ある」のただなかでは決して安らぎを得ることはできない。だから、人は安心して眠れる場所=住居を必要とする。レヴィナスにとって人間の意識=自我とは住まうことができる場所にほかならない。こうして「私」という自我、「私」という同一性が「ある」の片隅に生まれる。「私」という内面の安定性を得ようとするのである。
「私」は自我を完結した領域として定めて、安心して眠れる場所として確保する。しかし、その安心はけっして永続しない。なぜなら、その安らぎを乱しに来るものがあるからだ。「ある」を超えてやって来るもの、それこそが「他者」である。
「私」は「ある」に生まれた安らぎの場である。しかし、そもそもが「ある」のなかに生まれた場である以上「私」は内に「ある」を隠しもっている。それゆえに他者の到来はその隠していた「ある」をつつく出来事なのだ。「ある」の無限の暗闇を限ってつくった領域を、他者はその内部から揺り動かして、その有限の境界を切り崩して、再度「ある」の無限へと開いてしまう。だから、他者の訪れは苦しみの経験なのだ。
しかし、他者を否定して「私」の境界の内側に閉じこもってさえいれば安心でいられるのかといえば、そういうわけにもいかない。インプロバイザーなら誰もが経験しているはずなのだが、というのも、インプロの無のステージは日常的な情景から荒唐無稽なファンタジーまでありとあらゆる世界を生みだすことができるハイデガー的な存在の場ではあるけれど、同時にレヴィナス的な「ある」の場でもあるからだ。
インプロバイザーはシーンの最中、孤独である。次の瞬間に何が起こるかわからないし、共演するプレイヤーも何を考えているかわからない。たったひとりでシーンに関わらなければならない。だから、思い通りにならない展開はとても不安で苦しいものなのだ。
しかし、ここで思い通りにならないからといって他者のオファーをすべて拒否していてはなお一層苦しくなるのは自分である。他者を拒否すればするほど、孤独は募り、出口なしの行き詰まりに窒息しそうになる。この行き場のなさから救いだしてくれるもの、それもまた共演するプレイヤーとしての他者なのだ。
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レヴィナスの他者論を振りかえっておきたい。「私」の同一なる安息は他者の到来によって終わりを迎える。他者の訪れに対して「私」が取りうるのは、他者を殺すことか、他者を受け入れるかだ。他者を殺してしまえば、そのときはまた安らぐことができるかもしれない。けれど、否定をつづけるかぎり、他者は何度でも到来してくる。その不安が絶えることはなく苦しみは続くのである。
「私」の同一性が出口のない苦しみに行きつくのは「ある」の片隅に場所をこじ開けて作ったものとしての「私」が、本質的に「ある」を内包したものだからである。畢竟、同一性としての「私」は抱えこんだ「ある」を必死に否認することで存続を保っているわけだ。だから、他者が触れてくるたびに、その「ある」がざわめいて古傷のように痛むのである。他者の訪れが苦しいのは自身の「ある」の無意味さや空虚さに直面させられるからにほかならない。
それでいて「ある」の暗闇を引き裂いて光明の一筋をもたらしてくれるものも、「ある」の圧迫から解放してくれるものも他者の訪れである。他者はいつでも「外」から訪れる。行き場のない「ある」の閉塞感の「外」へ、そうして裂け目を作ってくれるのが他者なのだ。たしかに、他者を受けいれてしまえば、もはや「私」は「私」のままではいられない。けれど、そこにしかざわめき、疼いてやまない「ある」からの救済の可能性はありえないのだ。
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レヴィナスは他者を「顔」という言葉で形象化している。ぼくにはぼくの顔があり、君には君の顔がある。顔はそれぞれ個別で、それゆえに複数である。だから、他者一般はありえない。他者はいつでも「いまここ」に到来した固有で唯一の他者である。
顔として他者は、一般者ではなく、代替不能な唯一者である。だから、他者は「ある」の絶対的な匿名性や等質性に一筋の切れ目として到来する。あらゆる個別性や差異を抹消してしまう「ある」の闇に唯一なるその名前という痕跡を刻む。いままさに「ある」によって掻き消されようとする「傷つきやすさ」として訪れる。
他者は他に換えることのできない唯一な他者だ。そして、その唯一の他者に呼びかけられた「私」も他の誰でもない唯一なる「私」である。唯一な他者と唯一な「私」との間で関係が取り結ばれること、それをレヴィナスは「責任=応答可能性」(responsibilite)と呼んでいる。他者の呼びかけに応答することこそ、他者の「汝、殺すなかれ」の戒めに責任を果たすことなのだ。
そのとき「汝、殺すなかれ」の呼び声は「ある」の匿名性に消されようとしている唯一なる顔の苦しみを代わりに苦しむように求める呼び声へと転じる。レヴィナスは他者の「身代わり」になることについて語っている。他者の代わりに他者の苦しみを苦しむこと、それが責任=応答可能性の行為に等しい。
レヴィナスは責任=応答可能性こそ「ある」からの救済の道だと考えている。唯一の他者の身代わりになれるのは「私」だけだという意味で「私」もまた唯一さを得る。レヴィナスにとってこの唯一さこそ「ある」の無意味さを切り裂いて無意味な生に意味を与える輝きにほかならない。この世界に唯一であること、代替不能であること、それが生の意味である。だから、生の無意味を生の有意味へと転じるのもまた他者なのだ。「私」は他者を救うことで他者に救われるのである。
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レヴィナス的な他者への応答がイエス・アンドであることをすべてのインプロバイザーは身体で理解している。受け取ってしまったオファーには「イエス」と言うこと、それが正しい応答の仕方かは分からなくても、応答できる能力が果たして自身にあるかわからなくても、それを無かったことにはしないと未来に向けて約束することである。
もしここでオファーをブロックしてしまえば、このオファーは「ある」の無意味のなかへと雲散霧消してしまう。なんとかオファーをつないで「いまここ」にしか生まれてこない唯一無二のシーンとして、この世界に確かに生まれたものとして、その痕跡を残そうとするのである。生まれた出来事の記憶のほかに、このシーンが生まれたことの意味などありえない。それはこのシーンに関わった一人としての「私」がこの場に生きた意味でもある。
脚本のある芝居は物語に何かしらの意味をこめることができる。政治的なメッセージかもしれないし、人情の精緻な描写かもしれない。しかし、インプロのシーンはその瞬間に生まれて消えてしまうものだから、完成度は演出の練られた脚本芝居に及ばないし、できたシーンにメッセージやテーマがあるかさえも分からない。
しかし、密度に粗さのあるものだとしても、そこに何か見せられるものがあるとしたら、伝えられる意味があるとしたら、その瞬間そこに確かにプレイヤーが生きていたという痕跡なのではないだろうか。その日、その場にプレイヤーが確かに生きていて観客と関わっていたのだという生の感触の唯一さ、その肯定こそインプロが伝えられる価値なのだと、ぼくはそう考えている。
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余談ながらハイデガーの「存在」とレヴィナスの「ある」の差異についてコメントしておきたい。レヴィナスはハイデガーの「存在」を中性的で等質な塊として批判している。存在の内ではすべての差異や個別性が喪われ、一色に塗り込められ、押し潰されてしまう。
赤牛も黒牛もいかなる牛も闇夜のなかではすべて黒い牛であると言ったのはヘーゲルだったけれど、人間も牛も猫も存在している、人間も牛も猫も生きている、みんな存在していて、みんな生きていると言ってしまえば人間と牛と猫の差異もない。ハイデガーにとって存在と無は等価だ。それゆえに万象を無へと掻き消してしまう哲学であるとの批判は的外れなものとは言い切れない。
「色即是空 一切是空」と教える仏教の伝統もそうだ。無や空を無根拠の根拠とする考え方は、その無を強調するあまり空虚の内へと消えていく個物に目配せができなくなるきらいがある。実際、ハイデガーの『存在と時間』では世界の無根拠と自身の生の無意味を重ねあわせて死ぬことの無意味さへの自覚を生の決断へと反転させるロジックが使われている。レヴィナスはそれを自身の死ばかりに目を奪われて他者の死を見ようとしないと糾弾するわけだ。
では、存在=無という前提が誤っているのかといえば、そうとは言えない。無でないとしたら、万人に普遍に妥当する真理があるとすれば、それこそ一切の差異を認められなくなってしまい本末転倒なことである。レヴィナスの求める他者の受けいれもハイデガーの論じてきた存在の無があるからこそ、可能になるとぼくは考えている。
実際、インプロをしていればインプロが他者を肯定して輝けるのも脚本が「無」いからだと理解できる。インプロの舞台はまったくの空無だ。でも、空無だからこそ、あらゆる存在を瞬く間に有らしめる力に満ちた場にもなるし、何が起こるか分からない苦しい騒めきに満ちた場にもなる。ハイデガーの「存在」とレヴィナスの「ある」は、インプロのシーンを別々の視点から眺めた二つの様相ではないだろうか。
4-3-2. 語りの贈与
後年のレヴィナスは『存在の彼方へ』などで他者の到来を「語ること」に結びつけて語っている。他者は呼びかけてくるものだから、たしかにそれは他者が「語ること」である。しかし、「私」は他者に出会うことはできず、そこには隔時性がある。結局「私」が接することができるのは「語ること」の痕跡としての「語られたこと」にすぎない。「語られたこと」は、書き主不明の壁や机に残された落書きのようなもので、文字として読むことはできても真意不明の言葉、謎(エニグマ)にほかならない。
インプロバイザーの受け取る意味の不明なオファーはまさに謎である。どう読み解いたらよいのか分からない。それでも何らかのイエス・アンドをしようとする。それは残された痕跡をどうにかして読み直す行為である。受け取ったオファーは捨ててしまわずに、否定もせずに、再びオファーにして送りなおすのだ。
レヴィナスによれば「語られたこと」を残された「私」は、その痕跡を再度他者に向けて語りなおすことで他者の肯定と歓待を果たす。受けたオファーをオファーにして送りなおすインプロバイザーの相互行為は「語ること」と「語られたこと」を「語りなおすこと」において反復する行為にほかならない。
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レヴィナスは「語られたこと」の痕跡を「徴し」という言葉で語る。「徴し」だから象徴的なもの、あるいは文字のことだけど、いずれにしても、語りかけられた「私」の「語ること」は他者の残した徴しを語りなおすことである。語りなおした「私」の言葉もまた徴しとなる。だから「語ること」とは徴しを他者に向けて送ること、徴しの贈与にほかならない。
インプロバイザーのオファーもまた徴しの贈与である。この贈与は見返り不能の贈与でもある。というのも、相手によって即座にイエス・アンドをされてしまうからだ。相手がその徴しをどう読むかは、まったく予測も支配もできない。「私」が贈った徴しは受け取られた瞬間、別の徴しになって返されてくる。徴しは「私」の言葉として「私」そのものでもあるけれど、徴しとなって贈られた刹那「私」はどこかに譲り渡されて元のままでは二度と帰ってこない。
意味不明の徴しを受け取らされてしまい、散々苦労をしてなんとか徴しにして贈りかえしたら、即座にその徴しは別様に読まれてしまうというのでは「私」にとってあまりに理不尽な話に聞こえる。けれど、だからこそ、徴しの贈与は他者の身代わりになるのだとレヴィナスは考えた。
他者の身代わりになることとは他者に自身のすべてを譲り渡してしまうことにほかならない。すなわち「私」を他者に捧げる供物にするということであり、それは見返りを求めない贈与、バタイユ風に言えば「私」の蕩尽なのだ。
「私」の贈与によって「私」は他者によっていかようにも変えられてしまう弱さを暴露する。レヴィナスによれば他者とは傷つきやすさであるけれど、傷つきやすいのは「私」も同じである。そもそも他者とは絶対的に異なるもの、理解を拒むものなのだから他者の求める正しい答えをすることが他者への応答ではありえない。そうではなくて、他者の呼びかけを受けたことで「私」が外へと開かれて「私」が変わってしまうこと、それが他者への責任、他者への約束の履行なのだ。レヴィナスの思考の根幹には他者も「私」も人間は本質的に脆く壊れやすいものなのだという確信がある。
レヴィナスの人間観はキース・ジョンストンにも共通する。よいインプロバイザーは「傷つきやすい」(vulnerable)ものだと、そして、傷つきやすいプレイヤーを観客は愛するとも彼は語っていた。畢竟、傷つきやすいインプロバイザーとは自分の外にあるもの、自分と異なるもの、他なるものに関わることができるインプロバイザーにほかならない。自分の外へと誘いだされてもはや元に戻ることはなく、自分を変えても外の世界へと関わろうとする存在なのだ。
***
レヴィナスによれば他者とは無限者である。「私」はひとりの人間として限りのある有限者であって「私」の限りを超えて他者は訪れてくる。そのとき「私」は「私」の限りを解かれて無限へと開かれる。「私」に切れ目が入り、傷がつけられ、痛みを覚える瞬間だ。
しかし、有限な存在である「私」がいつまでも無限のままでいることもできない。どこかでもういちど有限性に帰ってこなければならない。でも、そのときはもう元の姿ではなく、変わった姿として、差異のある姿として帰ってくる。だから、傷つくとは変化を受けいれることであり、差異を生みだすことなのだ。レヴィナスとドゥルーズの近さはここにある。ドゥルーズも他なるシーニュ(レヴィナスなら徴しに相当する)に巻きこまれることで他なるものへと変化すること、差異を生みだすことを語っていた。
「語られたこと」を「語ること」において反復することで差異を生みだす作法もドゥルーズに近しい考えである。ドゥルーズが一回きりの偶然を強く肯定するように、レヴィナスにとっても他者の到来は唯一無二で一回きりである。この一回きりの接触に応答することで「私」もまた唯一無二で一回きりの「私」となる。
ドゥルーズの方でも永遠回帰の偶然が差異として現実のものとなることが「個体化」と呼ばれている。ドゥルーズによれば個体とは普遍で一定の安定した実体ではない。そうではなくて安定を切り崩して、偶然の戯れのなかで一回きりの差異を生む関係が結ばれたときに生じてくる出来事のことである。
レヴィナスの場合も他者との関係は絶えざる贈与の運動として考えられている。その瞬間、その瞬間に結ばれる関係性が他者と「私」をともに肯定する証となるのである。
ドゥルーズが差異とは概念なき差異であると言うようにレヴィナスも概念なき自己について語っている。他者と関わり変化を遂げる自己が、概念に紐づいた理性や言語による思惟に依拠することはありえない。意識ではなく身体に根ざすものである。
傷つきやすさは外傷を受けいれる身体の可塑性を意味している。後年になればなるほどレヴィナスは感受性、受肉、傷口、皮膚といった身体的な比喩で自身の思考を語るようになる。「私」と他者とのインターフェイスはレヴィナスにおいても身体に見いだされたのである。
到来する他者は「私」にその痕跡を残していくけれど、痕跡の残される場所は「私」の身体のほかにはありえない。外から来たものが身体に残していくのだから、まさしく傷である。他者との接触はすべて外傷的であり、記憶はすべてその傷跡である。
身体に刻まれた他者の記憶=傷跡は「私」の内に抱えこんでしまった「私」ではない他なるものであって、ときに古傷のようにズキズキと疼く記憶があるものだけど、そうして傷が痛むのは「私」にとって異質なものがそこにあるからだ。「同のなかの他」とレヴィナスは語るのだが、他者は「私」にとってつねに外的なものであり、同時に「私」の内、その奥深くに喰い込んだものでもある。
4-3-3. 治癒と傷跡
「私」のなかに残された他者の傷は決して癒合することはない。いつのときもまた開きえるものとして伏在している。しかし、その傷口が開くからこそ、そこから他者を迎えいれることもまたできるのである。
いや、迎えいれられるほど意識的なものではない。気づいたときには他者によってすでに傷口は開かれているのであり、気づいたときには他者は身体の奥深くに宿ってしまっているものなのだ。それは知らぬ間の受胎である。
ユダヤ人たるレヴィナスの思想を考えるのにキリスト教のエピソードを用いることが妥当かは判断しかねるけれど、処女懐胎のエピソードは(ある日、処女マリアのもとに大天使ガブリエルが訪れ、マリアがキリストを懐胎することを告げるというあまりに有名なエピソードだが)やはりレヴィナス的だと思える。処女であるマリアに身ごもるような行為の覚えはない。それでも突然、神の子を体に宿す運命を与えられてしまうのである。
それがどれほど重い運命だとしても宿してしまったからには産まざるをえない。避けることのできない受胎である。レヴィナスが他者との関わりを「繁殖性」(子をなすこと)として語るのは天使としての他者の到来を暗に意味しているのである。
レヴィナスは差異の生じるプロセスと子を生むことと結びつけている。ドゥルーズにとって差異は反復によって生まれ、存在するもの自体が生成変化を遂げるプロセスだったのに対して、レヴィナスにとっては差異は子として生成する。「私」から生まれたものでありながら「私」とは別の他なるものとしてである。子自体が独自の命を宿して「私」のコントロールから離れ、二度と支配することはできない。
畢竟、インプロバイザーにとってシーンは自身の生んだ子どもである。自身の発したオファーに生まれたものだとしても、生まれた直後に他の誰かの手に渡り、育てられ、もう自身の望み通りに育つことはありえない。それ自体の命をもった確かな存在としてその生きた痕跡を残していく。
他者の経験を産褥の痛みとして語るように、他者を受容する「私」の身体を他者を身ごもってしまう身体、女性的な身体とレヴィナスは考えている。ここでフェミニズムの伝統について言及する余裕はないけれど、西洋には永遠で不変なものを男性的と見る伝統がある。英雄ナポレオンの偉業をたたえる凱旋門がパリの一隅にずっと変わらぬ姿でそびえつづけているように。それに対して、女性的なものは移ろいやすく、儚く、変わりやすいものとして見られている。
西洋的な伝統では長らく女性的なものは弱さや脆さとして否定的に(だから、男性の力で女性を守ってやらなければならない)みられてきた。しかし、他者を受けいれるには女性的な弱さや脆さが実は欠くべからざる強さとして求められる。
ジョンストンもよいシーンを作るには女性が必要だと語っている。それを直に聞いたぼくの師匠は「そんなことないよね」と思ったそうだけど、打ち負かすことを美徳とする西洋の男性観に対して、他者に譲ることをよしとするインプロの価値観が女性的だと言えないことはないだろう。そこからレヴィナスの思想を他者に向けて「ノー」と言う男性を「イエス」と言える女性へと転じるものと読むことも無理ではないはずだ。
***
レヴィナスは様々な比喩的表現を用いて他者との関わりを伝えようとしている。最後に呼吸の喩えに触れたておきたい。「私」はあるとき不意に「同のなかの他」として他者を受容してしまうのだけど、その出来事をレヴィナスは「呼吸=霊感」(inspiration)と呼んでいる。
ちなみにキース・ジョンストンは、他者によって息を吹き込まれてしまった状態についてトランスに関連させて語っている。プリミティブな社会の祭儀で聖職者が神に憑りつかれて尋常でない振る舞いを見せるように、トランスは他なるものや外なるものに憑りつかれて力を吹き込まれてしまった状態である。息を吹き込まれたらもはや自分は自分の主人ではありえない。他者によってどうにかされてしまう状態になってしまう。
ジョンストンによれば、この瞬間にこそ「ひらめき」(inspiration)のモーメントは訪れる。スポンタニティとは他者の訪れによって生まれ、そうして「私」が枠を超え出ていく出来事なのだ。
レヴィナスにとって呼吸は「語られたこと」の絶えざる語りなおしである。人間は呼吸をせずにはいられない。息を止めていられる時間は限られていて、いつかは息を吸わなければならない。そのとき人は否応なく外に開かれ、外のものを内に吸い込んでしまう。
畢竟、他者を拒んでいる状態とは息を止めている状態のことだ。しかし、息を止めたままではいられない。いつか口という裂け目を開き、他者へと開かれ、他者を吸い込んでしまう。それが語りなおし、すなわち他者への贈与に転じるのである。
考えてみればマインドフルネス瞑想をはじめとして東洋の身体的な修養が呼吸を大事にしてきたのも、同じ理由からではないだろうか。呼吸は一瞬一瞬に姿を変え差異を生む外の世界との接触であり、世界との同期であり、それによる自己の更新なのだから。
***
レヴィナスによれば他者の記憶は外傷にほかならない。他者の訪れはなにも喜ばしいものとは限らない。レヴィナスにとってそれがホロコーストの悲劇だったように。人によっては親しい人との別れであり、避けようのない自然災害であり、大病の経験かもしれない。拒むことのできない他者の訪れに対して人はあまりに無力で弱く傷つきやすい。
しかし、そうやって刻みこまれた「語られたこと」を人はもう一度「語ること」もできるのだ。身体は可塑性をもっている。他者によって傷つけられても、その傷を癒して治癒へと導くのもまた可塑的な身体に秘められた力なのだ。
治癒とは傷跡をなくすことではない。消すことのできない傷跡とともに生きること、生きなおすことなのだ。だから、生きなおすことは傷を残した他者との隔時性を超えた対話である。対話を通して人は他者とともに生きることを学び、他者を悲しませたままにはしないこともまた学ぶ。それは傷を傷としたままにはしておかないという未来へ向けた約束で、ユダヤ人のレヴィナスにすれば約束は「救世主」(メシア)のなすことにほかならない。
『存在の彼方へ』の副題は「存在するとは別様に」だった。この「別様」に大きな意味がある。そのままにはしておかないこと、別様の可能性に賭けること、それこそ未来において過去に約束にすべきことである。過去と記憶に対するメシア的なモーメント、そこにイエス・アンドを重ねることは決して大げさなことではないはずだ。
【了】
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