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4-7.インプロ的運命 / J.Derrida

ねぎぽんです。ワークショップのデザイナーとファシリテーターをしています。

このテキストの全体像は「目次」をご用意しましたのでご覧ください。


はじめてインプロに触れたときからずっとインプロとは哲学的な実践だと思ってきました。何から何までインプロで語ってしまうことができるのに興奮したものです。果たして、それがよいことか悪いことかは分かりません。

「脚本がない演劇」という極めてシンプルな形式だからこそ、ここまで多様な哲学をめぐる思考を導くことができたのだとも思います。これはある種の奇跡でしょう。でも、哲学的な獣道をたどる旅もそろそろ一区切りをつけるところです。

バタイユ、ドゥルーズ、レヴィナス、メルロ=ポンティ、ベンヤミン、誰もがぼくにとって重要な存在です。しかし、彼らに触れておいてジャック・デリダを素通りするわけにもいかないでしょう。最後にデリダには言及しておきたいと思います。

20世紀末の哲学界最高のアイドルがジャック・デリダです。「現代思想」の代名詞としてその名が使われることさえありました。彼の思想とインプロは合口の良いものだと思われます。

デリダを引きながら最後にインプロの導く運命について書いていきましょう。


以下5000字です。


4-7. インプロ的運命 / J.Derrida

「現代思想」の代名詞としてその名が使われることさえあった20世紀末の哲学界最高のアイドルがジャック・デリダである。彼の名を一躍世界中に知らしめた「脱構築」の思想について詳らかに語る余裕はないけれどインプロとデリダは合口の悪い間柄ではないだろう。

 差異を繰り延べていく「差延」の運動はイエス・アンドをするたびに意味が転じてしまうインプロ的な運動によく馴染むだろう。もっとも、デリダは多彩な言葉を使って自身の思考を飾り立てていく書き手でもあるから「あれもこれも」というのではなく、いくつかの言葉を選んで取り上げていきたい。


   ***


キャリア後半のデリダはプラトンの『ティマイオス』に登場する「コーラ」という言葉を好んで使うようになる。『ティマイオス』は、世界の設計図である「イデア」に基づいて世界が生まれてくる世界創生の様子を神話の形を使って描いた著作である。プラトンの宇宙論とも言えるテキストだ。

 簡単にプラトンの「イデア」について説明をしておきたい。円は幾何学的に「一点の中心から等距離の点の集合でできる曲線である」と定義される。定義としての円は永遠不易で普遍的に通用する。これが「イデア」である。

 しかし、この世界に現れる種々の円はノートに書かれた円、木製の丸いテーブルの円、人の瞳の円など姿さまざま色とりどりに多様である。無限に多様でもすべては同じ一つの「円」である。ここからプラトンはこの世界に生滅するすべての現象、すべての個物には永遠に変わることのない「イデア」がその範型として存在すると考えた。

 「イデア」は世界に存在する個物のモデルとなる理想的な形のことである。『ティマイオス』においては、形としてのイデアが物に宿ることで多様な姿を見せていく過程が描かれている。そして、原型であるイデア(形相)が父、形を受けいれる物(質料)が母、生まれてきた現れが子として語られる。このとき、この母なる物を指す言葉が「コーラ」である。デリダによれば、プラトン以来西洋の哲学は形相なる父と現象なる子の関係ばかりに焦点をあてて、母なるコーラを不当に軽んじてきたのである。


そもそも「コーラ」(χωρα)とは古典ギリシア語で「場所」を意味する言葉である。ぽっかりと空いた空き地、そこに何をしても良い、何を建てても良い、空虚な場、それがコーラのイメージだ。そこから転じて、文字が書かれることを待っている白紙、あるいは、紙面の余白を意味する。

 要するに、西洋の知性は書かれた文字(父)と書かれた文字の意味(子)ばかりに気を取られて、それが書かれた紙(母)自体に気を留めることがなかったのである。しかし、書き込まれる場がなければいかなるテキストも成立しえない。コーラが自らその存在を主張することは不可能だけど(なにしろ余白なので)それなしには何も存在することのできない空虚な前提なのだ。

 『ティマイオス』によれば、イデアとしての言葉がコーラという場に書き込まれたとき、そこに世界が生じる。言語的なイデアは概念的な普遍者であり、その意味はつねに同一のものであるが、しかし、コーラに書き込まれたときには無限に多様な差異ある姿として現れ出てくることになる。「一」かつ「同」なるものが「多」かつ「他」なるものとして生まれてくるのである。それは、この世界ではいくら「一」かつ「同」のものを目指しても永遠に「多」かつ「他」のものを追いつづけることを意味する。多様な差異が繰り延べられつつ生まれてくる、この運動をデリダは「差延」と名づけた。コーラは差延の駆動スイッチにほかならない。

 唯一のイデアと多様な現れの対比はマーヒーヤとフウィーヤの別に一致する。普遍的で脱文脈的なイデアが個別具体的な文脈のなかで現れることによって偏差が生まれるという話もここまで繰り返してきた。ドゥルーズであれば差異と反復、レヴィナスであれば語られたことを語ること、メルロ=ポンティであればスタイルと呼ぶところだろう。


コーラは痕跡が書き込まれるのを待っている受動的な場だ。しかし、そこから多様な存在が生まれ出てくる差異生成の場でもあり、そして、いくら書き込まれても書き尽くされることのない絶対的な余白の場である。だから、痕跡はコーラにおいて消されることなく保存され、しかし、いつでも書き直されうるものとして残されていく。

 このような場としてのコーラがインプロの無なるステージの本質だと論じても決して的外れではないだろう。インプロの空白のステージはいかなる痕跡でも刻まれうる場であり、すべての記憶を残していく場である。そして、この空白から無限の世界が立ち上がってくる。

 デリダはコーラのことを場や余白としてだけ論じていて、その具体的な姿を限定することはしていない。イデアである精神に対して、コーラが身体に位置することも仄めかしてはいる。身体としてのコーラはイデアである父に対して母の地位にある。レヴィナスに依りながらインプロバイザーの身体を女性の身体として書いたこともあったけれど、コーラにもまた女性的なものとしての役割と身体的なものとしての役割を与えられている。

 身体には記憶が痕跡として蓄積されていく。生まれたての人間はまったくの白紙、書かれたものの何もない余白、「タブラ・ラサ」である。そこに他者との出会いの痕跡が記憶となって重ねられていって、他にひとりとして存在しない代替不可能の「私」となる。ぼくにはぼくの記憶があり、君には君の記憶がある。その記憶の差異がぼくと君という差異を生成するのである。


   ***


ぼくの身体はぼくの記憶のすべてを宿している。けれど、ぼくの意識はすべての記憶を語れるわけではない。記憶の大半は無意識に潜んでいる。記憶には語られる記憶と語られない記憶があって、だから、語られなかった記憶のなかには語られようとして意識を裏側から刺激してくるものもある。フロイトの精神分析は語られなかった記憶が語られようとして意識を苦しめる様子を「反復強迫」と名づけた。反復してくる記憶は意識が語ってはいないけれども無意識が無視されることを拒む記憶である。

 記憶はすべて他者から刻み込まれるものとして傷である。しかし、記憶は語られることで意味づけられ無害なものと化す。語ることができる傷は傷にはならない。語られない傷だけが疼く。語られない傷だけが外傷として回帰してくる。

 反復してくる記憶、忘れ去られようとしない記憶の回帰をジャック・デリダは「亡霊」として語っている。亡霊に憑りつかれたが最後、亡父の亡霊を見たことで人生の蝶番が外れてしまったハムレットのように、亡霊の到来は人間の生き方を一変させてしまうほどのインパクトがある。亡霊に憑りつかれることで人は人生のレールを踏み外していく。しかし、忘れることができないからこそ、その人にとってもっとも重要な記憶=傷でもある。

 記憶=傷を肯定して受容したとき、はじめてその人は与えられた道筋ではなく、自分自身の人生を歩み始めるのでもある。そのとき、記憶の受容はスタイルとなる。こうしてスタイルは記憶と世界の窓口、そして、内部と外部の窓口となる。だから、記憶は亡霊であるとともに運命のメッセージを運ぶ天使でもある。聖母マリアに処女懐胎を告知に訪れた大天使ガブリエルのように。


運命を告げるものとして他者はいつ訪れてくるかわからず、けれど、いつか必ず未来から到来してくる。ぼくたちはいつも未来を予想しながら生きている。けれど、その予想もまた過去の経験としての物語が生みだしているものでしかない。だから、純粋に未来である他者の訪れは、過去の物語自体を根底から書き換えてしまう出来事となる。

 畢竟、未来は過去から亡霊として訪れてくる。ベンヤミンが語るように過去の記憶を通して訪れてくるのである。運命は過去と未来の交点であるとともに、過去の物語を寸断して一変させてもしまう。

 だから、他者の訪れは過去に得た知から予測することはできない。バタイユ的な「非-知」の領域にある。それゆえにジャック・デリダは他者の訪れに関わるものは「知ること」ではなく「信じること」にあると語る。他者はいつか必ず訪れると信じること、それは、天使のように好運を告げる訪れかもしれないし、亡霊のように根源的なショックを告げる訪れかもしれないけれど、しかし、必ず訪れると自覚することにほかならない。

 とはいえ、信じることであるからやはり希望や救済を伴うものとして信じたい。ただし、自分にとって望ましいことばかりをしてくれると願うことは過去の自分の期待で他者を支配しようとすることでしかない。だから、いまの自分にとって不都合なことや嫌らしいことが訪れることはいつだってありえることは受け入れておく必要がある。しかし、その不都合で嫌らしい経験が次に希望や救済に転じる可能性を残していることこそを信じるべきなのだ。


イエス・アンドは「信じること」に等しい。シーンの最中、見えない未来にたじろぎそうになるとき、オファーが入り組んで先がまるで見えないとき、シーンに生きることが耐えがたく感じられるとき、しかし、そのときにイエス・アンドを絶やさないでいることができれば、未来から思いがけないオファーが下りてきて、希望の物語を紡いでいくことがある。あらゆる亡霊が救い上げられ、結び付けられて新たな物語へと転じていくことがある。この救済の瞬間がいつだってありえること、それを信じるのだ。

 畢竟、イエス・アンドとはシーンそのものを信じることにほかならない。「信」とは自分を信じること、相手を信じること、それもあるけれども、自分も他者も含めた場、状況、出来事、そして、運命それ自体を信じるということなのだ。


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運命を愛すること、それはニーチェが終生かけて説いた教えである。自己と自己の運命を愛すること、それこそ強き肯定の意志をもった「超人」の有り方にほかならない。しかし、自己を愛するとは、自己を肯定するとは、単純な自己陶酔やナルシシズムや自己愛ではない。

 自己とは「いまここ」に生きている唯一の存在としての自己である。自己を唯一の自己としたものは自己の身体に刻み込まれた記憶である。なにより記憶とは他者による痕跡だった。だから、自己の唯一さとは他者によって与えられたギフトであって、だから、自己を肯定するとはこれまで出会ってきた他者のすべてを肯定するということ、そして、これから出会うであろう他者のすべてを肯定するということにほかならない。それこそが自己の運命を肯定することである。


ジャック・デリダには『有限責任会社』という奇妙なタイトルの著作がある。原題は「Limited Inc.」で要は「限られたインク」(Limited Ink)とかけているのである。インクは人間の命の比喩である。インクは限られている。「私」の物語を永遠に書きつづけることはできない。どこかでインクの途切れるときは来る。そのなかで責任を果たしていくのである。誰に対する責任だろうか。もちろん「私」の記憶の余白に書き込んできた他者に対しての責任である。書き込まれたからには応答しないわけにはいかない。

 そもそも「私」のインクで書くというからには誰かに宛てて書くのである。それは、特定の誰かかもしれないし、未来の「私」かもしれない。書いてからには誰かに読まれることが暗黙理に前提にされている。畢竟、発信する行為はすべて受信者たる他者に開かれてしまっている。それをデリダは「ウィ・ウィ」(「Oui」はフランス語の「Yes」)と反復する「然り」として語る。

 すなわち「私」のイエスは他者を前提にしている。他者に向けて発信されたイエスは他者にイエスされることをイエスせずにはいられない。言わば他者に先立たれたイエスであって「私」のイエスはすでにイエスの反復なのだ。これをイエス・アンドと言わざるして何がイエス・アンドだろうか。

 他者の呼びかけはまったくの偶然に訪れる。それまでの物語をズタズタに切断してしまう。亡霊の恐るべき到来である。でも、だからこそ運命の時間ともなる。レヴィナスならばその呼びかけに身代わりをもって応答すると考えただろうし、ハイデガーならばその呼び声が存在の内奥に反響する様を聞き取って両親からの呼び声としただろう。いずれにしても、この声に応えることが自身の運命を受容して、自身の生存を肯定することにほかならない。これが運命愛である。


【了】

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