著作者_cyan

7-4. プロフェッショナルの徳

ねぎぽんです。ワークショップのデザイナーとファシリテーターをしています。

このテキストの全体像は「目次」をご用意しましたのでご覧ください。


ここでは熟達のプロセスを物語と関わらせて考えていきます。プロフェッショナルの語る物語がその身体に宿る「わざ」の秘密を解き明かすものであるとともに、同時にプロフェッショナルが守るべき倫理的態度を支えるものとなります。

ここまでの熟達をめぐる考察のまとめてしてジョン・デューイの学習理論を振り返るところから始めます。デューイについて確認した後でパトリシア・ベナーの看護論から新人ナースが達人ナースへと熟達していくプロセスを追います。ベナーによれば達人は自身の「わざ」をユニークな物語として語るようになります。

つまるところ、熟達には物語がつきものです。したがって、哲学者ポール・リクールの『時間と物語』に依拠しながら物語の真相を「ミメーシス」(模倣=統合)として考えていきます。他者の物語を読み、他者に物語を読まれることで学習が深まっていくプロセスを書いていきます。ここには他者との相互作用による学習と欲望の絡み合いが見て取れます。

最後にアラスデア・マッキンタイアの徳の概念を参照することで、ドナルド・ショーンが考えていたプロフェッショナルの倫理について書いていきます。マッキンタイアは徳の実現を物語を物語ることに重ねていた人です。物語る人が自身に固有の経験を物語にして語ることでその人にユニークな徳が実現されると彼は考えました。

この流れでインプロのストーリーテリングを絡めて書いていきます。キース・ジョンストンはストーリーを作ることに大変な意欲をもってインプロを考えた人でした。


以下12400字です。


7-4. プロフェッショナルの徳


7-4-1. 熟達と物語

学習や教育について語る際にアメリカのプラグマティズムの哲学者ジョン・デューイを外して語ることはやはりできない。教育学や学習理論の文脈では必ずと言っていいほど言及される存在である。デューイにとって学習とは習慣の獲得であって、習慣とは環境への適応にほかならない。

 有機体、要するに生物は植物でも動物でも周囲環境に適応する能力をもっている。植物のタネはアスファルトの隙間のような厳しい環境にあっても、その環境にあわせて芽を出し、根を生やし、茎をのばして成長する。同様に人間の個体も周囲の環境から受ける影響に自身の身体をあわせ馴染ませていくことができる。

 しかも、ただ影響を受けるだけでなく、能動的に環境に関わって環境自体を変えようとすることもできる。受動性と能動性の双方をあわせた経験、個人と環境との相互作用の経験から習慣は形成されていく。こうして習慣を身に着けることで人間個体は周囲環境に適切な行動が可能になる。周囲環境に存在する異質な存在との相互調整こそ習慣の本質なのだ。習慣の獲得が学習と等価となる理由である。ここは周囲環境の切り結びを個体の知覚とするアフォーダンスの理論に通ずるところである。

 しかし、デューイによれば習慣には「優れた習慣」「悪しき習慣」の二つがある。悪しき習慣とは、ドゥルーズ風に言えば差異を抜き取ってしまう習慣だ。環境に慣れてしまうがゆえに、毎回毎回決まりきった仕方で処理してしまうようなやり方である。これをデューイは厳しく退ける。なぜなら、同一のことは二度と起こらないからだ。

 すべての出来事には同じように見えて微小な差異がある。その差異を経験できないような習慣は死んだ習慣にすぎない。デューイにとって変化と成長は同義だ。変化こそ生の証である。変化できない有機体は死んでいるのに等しい。


習慣は異質な他者との相互作用に生まれてきたものなのだから、身に着けた後も周囲環境に生じる差異に応じて変化をしていくものだ。一流のプロフェッショナルが省察的実践を欠かさないように習慣はつねに更新されるものである。それは経験の多様性を増していくことでもある。学習に完成や終わりはない。

 デューイの習慣は異質な他者との相互調整の「わざ」だと考えられる。「わざ」としての習慣は個々人によって千差万別、きわめて多様である。個人の身体に蓄積された経験がその「わざ」を熟達させていくからだ。それと同時に経験を重ねるたびその瞬間の周囲環境の差異と反応して変化を生み変化を重ねていく。熟達の「わざ」には差異化=微分化が組み込まれているわけだ。

 デューイは画一化されたマニュアル的な知識に高い価値を措かなかった。それぞれの個人にはそれぞれの固有の経験があり、その経験の価値を高めていくことこそ必要な教育だと彼は考えていた。デューイにしてみればマニュアル化された画一的な知識や技能がどれほど有用なものであっても、個別の経験において多様に活用されるものにならなければ学習したとは言えないのである。



達人の物語

看護行為の現象学的な分析をしたことで知られている看護学者のパトリシア・ベナーは同時に看護師が熟達していくプロセスを分析した研究者としても著名である。看護実践の現場ではそちらのほうでむしろ有名で、達人ナースの「わざ」に学ぶためのヒントとして教育のために参照されることが多い。

 ベナーは自著『看護論』で初心者から達人までナースが段階的に熟達していくプロセスを分析している。言うまでもなく看護は五感から手足まで全身使った実践活動である。知的かつ意識的に処理してしまえる頭脳的な仕事とは違って、ときに身体的で無意識的な感情や感覚が効果を発揮する仕事である。

 とはいえ看護実践は科学的エビデンスに基づいた理論的な側面も有する仕事でもある。抽象的な理論と具体的な現場とを適切につなぎあわせていく能力がナースには求められるわけで、初心者ナースと達人ナースの実践の質の差異はそこに現れてくる。

 初心者のナースは教育課程で身に着けたばかりの理論的な方法だけを現場の状況に適用しようとしてしまう。それゆえに複数の理論や複数の選択肢のなかで何を選んだらよいのか分からずにしばしば混乱してしまう。それに対して達人ナースは患者の状況はすべての人に違いがあってそのまま適応できるものではないことを理解している。状況に合わせて柔軟に振る舞いつつも、そこに本質的なパターンを見出して過去の経験から適切な処置を選択することができる。


画一的で抽象的な理論を身体に馴染ませることで個別的で具体的な状況へと適合させていく。初心者ナースから達人ナースへのこのトランジションはショーンの描くプロフェッショナルの「わざ」の姿に一致する。状況を全体として受け止め理解し対応していく達人ナースの熟達の「わざ」を、ベナーは「全体的な構え」と名づけている。

 達人ナースは患者の置かれた状況にたちまちに適応してしまう優れた習慣をそなえている。達人ナースの「目」は時々刻々と変化する患者の状況に臨んで適切な対応を即座に引き出すことができる。達人ナースのアフォーダンスを見抜く卓越した視力は、まさしく身体的なスタイルに根ざした暗黙知の発露である。


非言語的で身体的な達人ナースの「わざ」を分析する際にベナーはインタビューという手法を用いている。インタビューをとってみると達人ナースは実に多彩な語彙や言い回しで自身の経験を語ってくれる。そして、それぞれに力点やアクセントを置くポイントがまた色とりどりに違う。それぞれの経験のなかで特有の視線を養っていくこと、それもまた達人の「わざ」の特徴である。まさにスタイルの妙である。

 畢竟、身体的な習慣としての「わざ」は本質的に物語として語られる。外言的な形式になじまない「わざ」の言葉は内言的な形式である物語によってのみ顕わにされるからだ。身体的なスタイルは無意識的に発揮されるとき「わざ」となり、意識的に表現されるとき「物語」となるのである。

 達人ナースは患者の状況に対して科学的な理論だけではなく、長年の熟達による瞬間的で身体的な感覚を最大限活用して臨んでいる。全体的な構えとはそういうものだから、量的な調査だけではどうしても漏れ落ちてしまう。そのためにインタビューという質的な調査が必要なのだ。



物語のミメーシス

物語ることについてポール・リクールに言及しておきたい。フランスの哲学者ポール・リクールは生涯を物語の哲学に捧げた人だ。『時間と物語』という長大な著作において物語の構造を精緻に分析している。

 リクールは物語の分析をアリストテレス『詩学』の分析から始めている。アリストテレスの『詩学』は名は『詩学』でも劇作と物語についてのテキストだ。アリストテレスによれば、喜劇であれ悲劇であれ、劇作は人間の行為の「再現=模倣」(ミメーシス)である。そして人間の行為の「ミメーシス」にとって筋立てこそ重要である。登場人物が物語なき支離滅裂でバラバラな行為をしていては戯曲の物語は成立しない。劇作においてひとりの登場人物が意味ある行為をするためには、その意味を定める物語の筋が必要不可欠なのだ。

 アリストテレスのミメーシス論を継承しながらリクールはミメーシス=物語の要素を三種類に分類していく。すなわち、再現そのものに対する行為の先行理解としての「ミメーシスⅠ」、出来事や行為を筋立てによって物語へと統合形象化する「ミメーシスⅡ」、物語が読者や観客によって経験される再形象化としての「ミメーシスⅢ」、以上の三種である。

 リクールによれば、このミメーシス=物語の形式は劇作の形式を超えて人間の認識や経験を構成するフレームとして機能する。人間が何かを経験し何かを認知する際、そこにはミメーシス=物語の機能が作用しているというのだ。


まず、劇中で登場人物が何か行為をしているのを映画やステージやテレビで見たとしたら「何かをしているのだろう」「これから何をするのだろう」と推測してしまうはずだ。行為の未来を予測できない行為は駅のホームでいきなり野球の素振りをするようなもので、意味の分からない不可解で恐ろしさを感じる行為でしかない。見る人に適切だと思わせる行為は、そこで機能している物語の枠組みと合致しているのである。駅のホームで小走りにしていれば「急いでいるのだな」と認識することができる。不可解ではない。これが「ミメーシスⅠ」の先形象化の機能である。

 ベナーの看護理論に照らしあわせれば、新人の看護師が学んだばかりの看護理論を使ってよく分からないなりに患者の状況を理解しようとする際、その理解のフレームとなる看護理論が「ミメーシスⅠ」に該当する。この場合マニュアル化された外言的な形式知として共有されるフレームだ。

 次いで、劇中で発生する様々な出来事を経て物語が終わりと向かうとき、その軌跡としてひとつの物語が残されることになる。はじめは「何でこんなことが起こるのだろう」と思わずにいられなかった不測の出来事が、後になって重要な伏線へと転じていることもある。無数の経験をひとつの経験へとまとめあげて意味づけていくこと、これが統合形象化としての「ミメーシスⅡ」の機能だ。

 達人ナースはその「わざ」について、その人自身の独特の言い回しやボキャブラリーで物語る。はじめは形式的で画一的だった看護理論が熟達の経験を経て、達人の身体に根ざしていく。その経験が物語として現れるとき「ミメーシスⅡ」が機能している。これはきわめて内言的な「わざ」の物語だ。

 最後に、それぞれの個人が経験してきたことを統合して物語る物語は、読者や観客として目にしたり耳にしたりすることのできる表現となる。これが「ミメーシスⅢ」の機能である。物語は個人が自身の経験を統合して意味づけるものであると同時に物語られることによって周囲の他者に受容されうるものとなるのだ。達人ナースの仕事ぶりから新人ナースはたくさんのことを学ぶけれど、つまり達人の物語を読んでいるのと同じである。


物語を「書くこと」(エクリチュール)「読むこと」(レクチュール)の相互作用でミメーシスは完成する。ひとりの物語は誰かに読まれることで誰かの経験となり、そして誰かの物語のなかで再度語られていくことになる。それは「ミメーシスⅢ」がふたたび「ミメーシスⅠ」へと循環するプロセスにほかならない。この循環が人間の経験を深めていく。三つのミメーシスが循環することを、デューイならば物語を読み書きすることで習慣が更新されると考えるだろう。

 物語は人間の経験、すなわち過去に経験したこと、いま経験していること、未来経験するであろうこと、三つの時間の段階をひとつに統合して理解可能なものとする。自身にとって理解可能にするとともに他者にとっても理解可能なものとする。

 リクールは物語のエッセンスを「時間は物語の形式で分節されるのに応じて人間的時間になり」「物語は時間的存在の条件となるときにその完全な意味に到達する」とまとめている。リクールは物語を語る人間存在の有り方を「物語的自己」と名づけている。物語を語るとき人ははじめて自己の存在の意味を了解するのである。



インプロのミメーシス

物語の形式に強い興味を見せた人が実はキース・ジョンストンである。実際彼には「Impro for Storytelling」という著作もある。インプロの物語はなにが起こるか分からないのが醍醐味ではあるけれど、断片的な場面が細切れに続くだけなら物語と呼ぶことはできない。何か物語が生まれてくるから人間は演技を作品として認識できるわけで、では、どうしたら即興の場で人間は物語を生みだせるのかという問いにジョンストンはこだわった。

 インプロバイザーがステージの上でしなければいけないことは多岐にわたる。プレイヤーとして演じるのはもちろん、観客にどう見せたら楽しんでもらえるかという演出家としても、ストーリーをこの先どうやって作っていくべきかという脚本家としても、シーンに関わらなければならない。ここで物語を生みだす形式さえ決めておくことができれば、しなければならないことがひとつ減るので負担も軽くなるとジョンストンは考えた。


ジョンストンの編み出した物語発生のメソッドはいくつもあるが、二つだけ取りあげておきたい。ひとつめが「ティルト」である。「エクステンド」と「アドバンス」のテクニックを物語の作り方へと拡張したものが「ティルト」だ。ジョンストンは物語にはバランスを取るシーンとバランスを崩すシーンの二つがあると考えていて、そのバランスを崩す技術が「ティルト」である。

 バランスを取るシーンは変化が起きないシーンである。エクステンドで日常を細かく描写していくような場面だ。「桃太郎」でいえば「お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行きました」という日常の光景にあたる。そこにティルト=アドバンスが起こる。「川上から大きな桃が」という日常を大きく揺さぶる出来事が発生する。ここで「桃は流れ去ってしまいました」と続けてしまっては出来事は無かったことになってしまう。結局、物語は寸断されて支離滅裂なものとなってしまう。だから、出来事を大きくする方向へイエス・アンドをする必要がある。


インプロの物語はエクステンドとアドバンスの間で揺れながらティルトを起こして進んでいく。安定した日常の世界はティルトの瞬間に大きく揺らぐ。その揺らぎを乗り越えて出来事を物語へと統合したとき、もとの物語は新たな展開で語られなおされていく。

 これは、デューイによる習慣の更新の仕組みとまったく同じである。デューイにとって、優れた学習は、多様で無数の出来事がひとつの経験へとまとめあげられたとき、経験を完成させるものとして果たされるものである。リクールでいえば「ミメーシスⅡ」の統合形象化の局面であって、要するに、物語とはモノトーンでなだらかに進むものでは決してなく、その途中で、いくつもの飛躍や断絶や折り曲げが、しかも、偶発的に起きさえするなかで、そのたびに、紡ぎ、つないでいくことで生まれてくるのである。


   ***


ジョンストンの物語叙述の方法、ふたつめは「シェルプトアイディア」だ。物語には始まりがあればかならず終わりがある。「終わり良ければ総て良し」の言葉もあるように物語は終わらせ方が大事である。もっとも、ジョンストンによれば物語の終わらせ方は幼い子どもでも分かるものである。幼い子どもを前にして物語を読み聞かせてあげているとき「ねえ、それでお終い?」と問いかけられる瞬間がある。子どもはどこで物語が終わるのかを理解しているのである。

 「桃太郎」は桃から生まれた桃太郎が鬼ヶ島に鬼退治に出かけ、鬼を倒して、お爺さんとお婆さんのところに帰ってくる物語である。桃太郎の帰還まで聞けば子どもは「そこでお終い?」と尋ねてくるはずだ。しかし、鬼ヶ島に向かう船が嵐に見舞われ、難破して、見知らぬ土地に辿り着き、そこは鬼ではなくて天狗ばかりが暮らす島で、桃太郎一行は天狗の使う大うちわの大風に飛ばされて、今度は月まで飛んで行ってしまうという話ではどこがお終いか子どもでも分からないだろう。

 大切なことははじめの場所に戻ってきたということにある。熊に出逢って始まる話であれば熊がまたでてくれば終わりに近づいているように感じる。ある街で始まった話ならば回想でもその街のことがでてくれば終わるように思えてくる。どんな小さなアイテムでも構わない。物語の序盤に登場したアイディアを終盤で取り出してみると物語が終わろうとしていることを観客に伝えることができる。

 むしろ観客も忘れてしまっていたかのような小さなアイディアがクライマックスで登場すると観客は非常に驚いて喜ぶこともある。この技術が「シェルプトアイディア」(棚上げにされていたアイディア)だ。物語にはスタートに始まりゴールでスタートに戻ってくるという性質がある。これを「再帰性」と呼ぶ。


ポール・リクールの「物語的自己」は身に起きた出来事をひとつの物語に物語ることで形象化される自己のことであった。この物語的自己は不変の同一性をもっているわけではない。ナラティブセラピーでもみたように、同じ出来事を物語るのでもまったく別様の物語が語られる可能性はいつでもある。いまの悲劇の語りが明日には喜劇に変わることもある。

 いま語られる物語になったのは偶々であって物語が別様に語られる可能性はつねにある。それでも自己は自己である。自己の物語はつねに自己に帰ってくる。こうして「物語的自己」の物語はつねに再帰的な物語となる。あるいは自己とは再帰的に自己になるのである。

 何が起こるかわからないのはインプロの物語も個々の実存の物語も変わらない。物語が物語として完成するかはしっかりと終われるかにかかっている。要するに、その物語が元あった場所に帰ってこられるかにかかっている。スタートから出発してスタートに戻ってくるとき、それまでの経験がひとつに統合されている。そのとき、物語はひとつの意味をもつのである。

 ベンヤミンの「一方通行路」にある「帰ッテオイデ! スベテ赦ス!」の一節をポジティブ心理学やロゴセラピーとの関係で引用したことを想起しておきたい。人生の経験は無数の偶然に彩られている。何が起こるかは予見できない。それらすべての出来事が過去の記憶として身体に沈積していく。しかし、ある時そのすべての記憶が「帰ッテ」くるのである。それが再帰性であり、そこに「物語的自己」は生じる。だから、物語的自己は過去の記憶を救済するメシア的な主体にほかならない。



7-4-2. 物語のエチカ

「物語的自己」はレヴィナス的な意味で倫理的な主体である。物語ることとは、自身の身に起こった経験に意味を与えて語りなおす作業、すなわち「語られたこと」を「語ること」にほかならない。経験は他者が身体に残していった痕跡であって、その語りなおしが、他者への責任=応答可能性となる。レヴィナスやベンヤミンに触れながら以前書いた通りである。

 同じことを繰り返すこともないので、ここでは米国の哲学者アラスデア・マッキンタイアに迂回してみたい。マッキンタイアは倫理学の主要な二つの潮流、功利主義と義務論に対してアリストテレス以来の「徳」の倫理学を提唱したことで知られている。彼もまた物語と倫理の関係について論じた人である。

 功利主義はベンサムの「最大多数の最大幸福」というテーゼで有名なように倫理的な行為の評価をその結果として生じる効用で測ろうとする。それに対して義務論はカントの「汝の信条が普遍的法則となることを、その信条を通して汝が同時に意欲できる、という信条に従ってのみ行為せよ」という命題で知られるように形式的な格率によって行為を律することを求める。

 マッキンタイアは功利主義と義務論、その双方に異を唱えた。なぜならば、功利主義も義務論も脱文脈的あるいは超文脈的な倫理法則を導こうとするものであるからだ。このような普遍的な合理性として倫理を考えることをマッキンタイアは拒んだ。人間は自身の生きる状況に投げこまれたものとして文脈から逃れることのできない存在である。そうである以上、文脈が培ってきた価値観を無視するような行為を倫理的実践として考えることは空理空論でしかないと彼は考えた。


人間は他者と共に共同体のなかで生きている。大きいものは国家や都市から、職場、学校、小さいものは家族まで共同体は幅広くあるけれども、それぞれの共同体には伝統としてそれぞれ培われてきた価値観が存在する。それが「徳」(アレテー)だ。

 ある共同体にとっては「勇敢さ」が徳であり、ある共同体にとっては「気前の良さ」が徳であるように、それぞれの共同体にはそれぞれの徳がある。男子校で求められる徳と共学校で求められる徳は異なる。男子高校のなかでも浦和高校と川越高校で認められる徳は違うだろう。徳はつねに多様であり複数的だ。徳は共同体の場に根づいたハビトゥスに一致する。

 人間はどこかの共同体に生まれ落ちてしまう以上、徳から無縁ではいられない。物心ついた時には周囲から徳の眼差しで見られることになる。それゆえに徳は倫理的な限界を形成することになる。誰もが誰かの子どもであり、一族であり、市民であり、民族である。生まれ落ちた共同体の役割を与えられ、その役割に関わる徳を負わされるのだ。しかし、徳とは本来的に「善さ」である。望ましいものとしてそうありたいと人に思わせるものでもある。

 徳の倫理学が功利主義とも義務論とも異なるのは、功利主義や義務論が行為の善さを判断するのに対して徳の倫理学が人間存在の善さを目指すところにある。徳において大切なのは善い行いをすることではなくて、善い存在になることなのだ。徳は一回限りの行為をひとつしたから実現されるものではない。倫理的な存在としての自己を完成させることで実現されるのである。そうして徳は未来にあって現在の自己の行為を律する基点となる。


   ***


徳は本質的に多様である。ひとつの共同体のなかにも美質とみなされる徳は複数存在している。だから、人間個人はいくつもある徳のなかから自分にとって望ましい徳、自分がそうなりたい徳を自分自身で選ぶことが可能である。

 あえて選んだ徳、すなわち再帰的に選んだ徳は、その人にとってその存在の本質を開示し形成する核となるべきものだ。「勇敢な人間になりたい」「優しい人間になりたい」と選ぶのだからそのような存在になりたいのである。選んだ徳に応じて人は「いま何をすべきか」を決定し、過去にしてきた行為を意味づけていくようになる。

 選ぶ徳が明確であれば自分が何をしたい人でどんな人なのかを周囲の人にも理解してもらえるようになる。そうして徳の開く理解可能性は人を共同体と結びつける。共同体から受けいれられて居場所を得ることもできる。反対に理解されなければ、自分の望むところを周囲の人に対して「申し開く=説明するような」(アカウンタブル)な行為が求められる。自身の徳を完成させようとする人間個人の行為が彼を支える共同体の徳と一致するかは非常に重要な意義をもつ。

 もっとも、人間は複数の共同体に所属することが可能だ。家族、地域、職場、友人、複数の共同体を掛けもちする人の方が現在では一般的だと思われる。そのため所属する共同体のもつ徳の間で衝突が起こることが起こりえる。「力強さ」を美徳とするマッチョな共同体において男性の同性愛者は肩身の狭い思いをすると想像できる。しかし、彼が二重に所属する同性愛者の共同体においては、むしろ「寛容さ」が美徳となるはずだ。このようなとき人は強烈な葛藤を感じる。


葛藤を乗り越えて調和と統一をもたらすには、共同体から与えられた徳を引き受けつつも「私」にとっての善とは何かを徹底的に問いなおすことを避けられない。それは与えられた既存の徳との対決を乗り越えて「私」の徳を完成させていく営みにほかならない。

 他の誰でもない「私」の徳を見いだしていくことが「私」に「私」としての統一性を与えていく。そのとき徳は文化的な遺産を超えて人間存在がそれぞれに備えた、その人自身の「善さ」を証するものとなるだろう。インプロのグッドネイチャーに相当するものであり、唯一性の発露を大切に育てるという点でミルトン・メイヤロフの「ケア」の概念に接続するものである。

 マッキンタイアは自身の徳を実現していくプロセスを徳の物語を物語ることとして考えている。人生の統一性とはひとつの人生において具体化された物語がもつ統一性にほかならないのだ。



徳の物語

マッキンタイアは徳と物語を重ねて考えている。「善さ」は脱文脈的で普遍的な合理性から演繹できるものではない。与えられた諸徳のなかで矛盾や葛藤を抱えて生きていくことで完成させていくものである。

 時間のなかで実現されていくプロセスとして徳は生成する。だから、人生の主役として演じる物語を演じ切らなければ徳には辿りつけない。ここで徳の物語の遂行をマッキンタイア自身が演劇に喩えて語っていることは極めて示唆的である。


文脈に依存したものである以上、徳が普遍的な価値を担うことはない。ということは、逆説的なことだが、徳が最終的な完成に至ることもない。「私」にとっての徳と「あなた」にとっての徳が違うのであれば、そこには「申し開き=説明」の相互作用が生まれて物語が変容する余地が生まれてくる。徳の物語に終わりはない。しかし、それを欠陥として考えるのではなく、それゆえに他者と関わりをもつことのできる契機と考えるべきだろう。

 徳は「私」が自身の身をもって演じる物語として観客たる他者に受容される。ひとりの人間が演じる徳が周囲の見る人たちに問いを投げかけ、波紋を起こし、議論を呼んで、大きな力となっていく。物語が誰かに読まれ、誰かにまた語られることによって徳はさらに顕わにされていくのである。

 そのとき「私」は「私」の物語を演じる主役であると同時に誰かの物語のなかで助演を演じることにもなるはずだ。ただ保持されてきただけの死したる伝統たる徳が現在に生きる徳へと再生するにはこのプロセスが不可欠である。だから、徳を完成させようとする主体は歴史的な主体である。


   ***


ドナルド・ショーンが省察的実践を行うプロフェッショナルに倫理的な役割を求めたのは、マッキンタイア的な文脈があってのことだと思われる。世には「職業倫理」という言葉が存在する。

 医師には医師の、教師には教師の、板前には板前の「徳」がそれぞれある。日本の医師が果たすべき徳と米国の医師が果たすべき徳には差異があるだろうし、日本のなかでも救急病院の医師と開業医とでは違うだろう。いずれにしても職業人それぞれに果たすべき「徳」が各々の共同体には伝えられている。その徳にどう向き合ってきたかがプロフェッショナルの生きてきた道となる。

 その職にとって「何が善いことなのか」を振り返り、問い直す、その省察が熟練の「わざ」に至るまで繰り返されていく。「わざ」には熟達者の人生が凝縮されて現れている。だから「わざ」は物語に等しい。

 一流のプロフェッショナルは自身が重ねてきた経験の物語を「わざ」にこめる。そうして自身の徳を体現する存在なのだ。それゆえに達人の物語はクライアントやフォロワーを感化させてその身体を揺さぶることができる。そうして徳は他者へと託されていく。


ポール・リクールは物語の機能を三つのミメーシスに分類していた。「ミメーシスⅠ」は他者の振る舞いに意味を見いだす物語のフレームだった。人の振る舞いを見ることで、そこにある徳に気づき、選びたい徳を選ぶこと、それが「ミメーシスⅠ」のレベルである。

 次に「ミメーシスⅡ」は自身で選び取った徳を生きることで自身の人生において形づくっていく統合形象化の機能である。誰かのものだった徳が「私」自身の徳へと変容していくのが「ミメーシスⅡ」のレベルである。

 最後に「ミメーシスⅢ」は統合形象化された物語が再度別の人間によって経験されることで再形象化されることを意味する。それは「ミメーシス」の言葉の通り、誰かによる「模倣」を誘発するものだ。徳として結晶する人生の意味は物語として語られることではじめて形となる。物語の形を通じて他者の経験は近づきうるものとなる。


   ***


一流のプロフェッショナルは自身の物語を生きている存在である。並大抵ではない経験を乗り越えて、ひとつの物語へと昇華させている。その物語は圧倒的なエネルギー、すなわちカリスマを放つものとなる。それゆえにプロフェッショナルの物語は強力な感染力をもつ。

 物語に触れる人みな「すごい」「そういう人生を生きてみたい」と思わせ、虜にしてしまう。ここに物語の「模倣」は始まる。物語は多様な記憶を統合して形を作るものとして「クッションの綴目」の機能を果たす。同時にクッションの綴目の生みだす姿かたちは強力な欲望の対象にもなるのである。


学習を動機づけるのは欲望だ。欲望のスイッチを駆動するためには欲望の対象たる教師の身体が必要だと、ぼくは思う。実在する人物のときもあれば、映像や小説や漫画の登場人物のときもあるけれど、師には具体的な姿かたちがなければならない。

 医療職にとって医学の知識や法律職にとって法律実務の技能、そういった専門知が尊いものであることは否定しようがない。けれど、そういった知識や技能そのもの、要するに、外言的でマニュアル的な知そのものを学びたいと欲望する人はまず存在しないのだ。

 知を学びたいと心に決めるのも、その知を体現している誰かに出会って、その姿があまりに魅力的で、そういう人になりたいと強く願ったからなのだ。それはとても偶発的な事件である。でも、偶発的であるからこそ他に換えることのできない唯一の経験になることもいままで見てきたとおりだ。

 ぼくはインプロの師ナオミさんに偶々出会った。ナオミさんはインプロバイザーの徳を体現した人だった。それは一生に一度の幸運とも呼べる偶然だった。以来、ぼくはナオミさんの物語を読み解こうとして自身の身でインプロの物語を語ろうとしてきたのだ。インプロは素晴らしいものだと思ってはいる。だけど、ナオミさんでなければ、こうも追い続けていなかったかもしれない。


教育学や学習理論の研究を目にしていてときに不満を覚えるのが、学びにおける欲望の力を不当に軽く見ているのではないかという点である。優れた学習方法であれば、たとえ教師が誰であっても学ぶ人の能力を高めて内発的な学習へと導くことができると、それらの理論は論じたいかのようではある。

 もちろん、教祖的な存在が一方的にマインドコントロールをしてしまうような事態を学習と認めるわけにはいかないという矜持もあるのだと察する。けれど、それでも学習は「何を学ぶのか」ではなく「誰に学ぶのか」に大きく左右されるものだと思う。


熟達した先人の放つ徳の輝きは後進にとって憧れとなる。だから、その人になろうと欲望する。しかし、その人自身になれるわけではない。その人の物語をわが身に引き受けて、もう一度再演するしかない。その人自身のスタイルにおいて。そのとき物語は終幕のある過去の物語から終幕のない現在を生きる物語へと質的に変容を遂げる。ここからはもはやインプロとして生きるほかはない。

 手探りと試行錯誤の果てに物語を語り終えたとき、先人の物語は新たに自身の物語となっているだろう。そのとき、徳は唯一のスタイルで語られた物語として現れ、身体にしみ込んだスタイルは無二の「わざ」へと結晶する。自身の「わざ」を磨き、他に替えられない徳を生きるとき、ポジティブ心理学やロゴセラピーが教え、マインドフルネス瞑想が導く「幸福」の在り処が浮かび上がってくるのではないだろうか。

 畢竟、学びには「導師」(グル)のカリスマが必要なのだ。師の物語こそ弟子にとって未来と希望を語るものにほかならない。そうして、弟子は師の物語に感染し、師に憑りつかれる。模倣とは憑依である。師に憑依されて師の役を自身の身で再演することを通じて弟子は自身の物語を語り自己となるのである。


【了】

画像著作者:cyan
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