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神より民を見た政治家―ヒラリー・マンテル『ウルフ・ホール』


1.残りページ3分の1にほとばしる激情

何者になれるはずもなかった男が国王の右腕としてイギリス最強の政治家に登りつめる物語である。

主人公のトマス・クロムウェルは、16世紀イギリスでヘンリー8世の元で大政治家になった人物だ。

この作品は彼がどのようにして国王の信頼を得て権力の階段を登り、政敵であるトマス・モアの処刑に至ったかまでを書いている。

物語の3分の2程度はクロムウェルが政治の師であるウルジーの失脚を目の当たりにしながらも、国王の信頼を得て出世の階段を登っていく様が書かれていく。話の緩急はさほど大きくなく淡々としている。

しかし残り3分の1からは作者とクロムウェルの激情がほとばしっている。その熱が読む側にも伝染して、さっきよりもページをめくる手が速くなるのを感じる。

2.すべてはイギリスのために

終盤に至るまでクロムウェルの動機がまったく見えてこない。なぜ彼は権力を握りたいのだろうか。

欲望の固まりにも見えない。高い位置に立つことで満足する男にも見えない。何もかも自分の思いのままにする願望に乗っ取られてるようにも見えない。

国王や貴族たちからすると彼は卑しい身分の生まれだ。「鍛冶屋の息子」と揶揄されるシーンは何度もあるし、生きるためにフランス軍に属したこともあった。必死に生きる過程で商才や弁護士としての才能を発揮し、ようやくこの地位までたどり着いた。

彼は今までの権力者が神や国王にしか向けてなかった目を民に向けている。国王を、イギリスを守り強くするためにはその土地に生きる者が繁栄しなければならない。そう信じている。だから彼は権力を握るのだ。

ヘンリー8世の離婚にカトリックが猛反対しても、策をめぐらせ強行するのだって民の繁栄のためだ。神ばかり見て政治をするなら教皇には逆らえない。だからトマス・モアは散った。でも民を見て政治をするなら国王の意向に沿いながら既得権益であるカトリックと戦う方が富が民に回る。

3.経済を知るものが権力を制する時代へ

先に書いたようにクロムウェルは貴族の生まれではない。卑しい生まれと称されている。普通は国王の右腕として政治権力を握ることはあり得ない。ではなぜ彼は権力者になったのか。

実務に長けているのはもちろん、特徴的なのは観察力だ。

彼は国王、妃、愛人、貴族など接する人々をとにかく観察し、機嫌や性格や思考を見抜く。そして相手が求めてるトークや振る舞いをさっと差し出す。

これだけ読むとただのおべっか使いに見えるかもしれない。ただし彼の強みなのは彼の差し出したものが極めて論理的かつ国王の意向をくみ取ったものであることだ。だから筋が通っており、みな満足する。

特にヘンリー8世と、愛人(のちに正式な妃)のアン・ブーリンとその一族を繋ぐ役目としてのクロムウェルの存在感は絶大だ。それは国王とアンの意図をそれぞれくみ取れる観察眼あってこそだ。

もう一つ、彼の大きな特徴は経済を知っていることだ。たとえ国王や貴族が商人を卑しい者だと蔑もうとも金がないと事業も戦争も何もできない。

クロムウェルは弁護士が本業であったが、商売も手がけていた。イギリスだけでなくベルギーの商人とも繋がりがあり、あるイギリス商人の事業を立て直したことをきっかけにその娘を妻とすることになる。

経済を知っているとは政治家として経済政策を実施できるだけの話ではない。彼は自分で金を作れる政治家なのだ。

経済的に困った貴族に金を貸して手なずけるのは簡単だ。金があれば優秀な人材を雇うこともできれば、若くて有望な子供を引き取り育成することもできる。そうしてクロムウェルの手足となって動ける最強の実務家集団ができる。

彼の身分では既存のやり方だけでは権力に届かない。だから利用したのは身分ではなく現実である。上まで登りつめるために人間が生きてくために必要なものを活用した。それが感情であり金であったのだ。

ちなみに人の機敏がわかり、経済を知っており、卑しい身分ながら権力の頂点に立った男がもう一人いる。その男は遠い東洋の地にてクロムウェルとほぼ入れ違いで姿をあらわす。天下人豊臣秀吉である。

4.『セシルの女王』との接続

そしてクロムウェルの治世とその終わりが描かれているマンガがこざき亜依の『セシルの女王』である。

主人公のウィリアム・セシルに大きな影響を与える人物としてクロムウェルが登場する。彼の政策が民を富ませることで国を繁栄させるという考えに基づいたものだと示唆する描写も出てくる。

クロムウェルの終わりがなぜ訪れたか。のちにエリザベス1世の元で大政治家となるセシルはそこから何を学んだのか。作者の描写は一級品である。

また、アン・ブーリンは『ウルフ・ホール』と『セシルの女王』では違った味わいで読むことができる。どちらも合わせて読むとイギリスの歴史がより深く楽しめる。

『セシルの女王』はnoteで紹介しているので参照してほしい。

『ウルフ・ホール』は全3部作だ。『罪人を召し出せ』『鏡と光』と続きクロムウェルの死まで書かれる。権力争いはまだ終わらない。クロムウェルが頂点の果てに、転落の果てに何を見たのか。続きを読んで見届けたい。

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