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差別と不平等


SNSを見ていると、痴漢の話だったり、レイプや社会の女性差別の話を目にすることが多い。
1回タイムラインを確認するごとに1つは見るし、そういう話は感情に訴えかけてくるものなので拡散もされやすい。

女性差別批判などはミームになりやすい事象の一つだと思う。


私の周りには女性のエンパワメントの活動をしている人も多く、性教育界隈でも男女平等はベースとなる思想で、よく話題になる。
私自身も多様性絡みの授業を取ることが多く、また科学よりの人類学を履修していることもあって、恐らく他の人よりもそういった話題に詳しいのではないかと思う。

ただ、そういったホットな話題を見ていると、時折どうしてもモヤモヤしてしまう時がある。理由はわからない、否、わからなかった。
私は別の彼らの意見に反対しているわけではないし、「差別なんて馬鹿馬鹿しい」とも思っている。だけど、彼らの強い主張を見ているとモヤモヤしてしまう。

それは、否定ばかりでは何も生まないということを信条としているからだと、最近気がついた。


・これは本当に差別なのか

人類学を通して、様々な文化を見てきた。
特に詳しく見たのは太平洋諸国の国々で、現地の古来からの文化、大戦期、今の現状と、正直胸糞悪いな資料もたくさん読んできた。
その中には、アメリカからの研究者の日記のようなレポートもあって、今の私たちの文化との違いを半ばコミカルに、たまに情動的に書いてある。

そういう資料を読んでいると、どうしても思うのが「これは本当に差別なのか」ということだ。

ネパールに行く時も、毎回同じようなことを思う。
女性と男性で出来ることが違うし、女性は当たり前のように家事をし、男性が社会的な活動をしている。
ネパールは近代化に伴って男女同権やLGBT支援を掲げているが、太平洋諸国の資料なんかはもっと露骨である(少し前の資料だからなのもあるだろうが)。
女性器は不純の象徴で、生理の時は隔離をされるし、男性と女性のスペースが明確に分かれていて、越えたものには罰が与えられる。

だが、だからと言って女性の立場が低いとか、女性が不幸に見えるとかいうわけでもない。寧ろ女性の力の方が強い文化も多くある。

確かに男女で権利に違いがある。できることも違うし、禁止されていることも多い。確かに不平等だけど、これは本当に差別なのだろうか。


差別というものは、「蔑視」や「見下し」などの付帯感情がついて語られることが多い。
私もそのようなものだと理解していたけれど、疑問を持つに当たって今一度差別の意味を調べてみると、差別という言葉は「不当に権利の抑圧を受けている」ということを指すのだそうだ。
「蔑視」や「見下し」の感情は必要条件ではなく、十分条件だと言うことらしい。

昨今の差別はその感情に則って行われているものが大半なので、「差別=蔑視」の方程式が出来ているのだろうが、"不当"でない権利の抑圧は差別ではなく、区別として見られるのだという。


・じゃあ、そもそも不当って何だろう?

この問いには答えがない。
不当さという物は時代や人々が決める物であって、それ自体で確固たる意味を持った言葉ではないからだ。少なくとも私にとってはそうではない。絶対善や絶対悪という存在への懐疑論は様々なところで聞かれるし、私も支持している節がある。

文化の資料を読んでいると、今の時代から見て「不当」とされているものでも、その時代には普通に受け入れられていたような物は多々あるし、今尚残る慣習も中にいる人は何とも思っていないように見られることが多い。

現状に生死の問題を抱えていなければ「普通」として流せてしまうような(外から見た)差別が多く存在するということで、それはもう一種の社会システムだ。
今語られているような「差別」の問題と同じステージにいない。


差別の歴史を見ていくにあたって、女性差別や同性愛差別批判が叫ばれ始めてたのがいつかを見てみると、ちょうど農業・産業革命辺りで、人口が急増し、労働環境を始めとした様々な環境が劣悪であった時代だ。

ほぼ同時期に功利主義や共産主義ができ、一般市民に「人権」が認められ始めた先駆けのような時代だった。「アメリカ独立戦争」「フランス革命」など"自由と人権"の最たる達成が成されたのもこの時期である。

この時期より以前は特別明るくはないので言明は避けるけれど、"差別的な"慣習を残した文化と、差別を絶対悪として戦ってきた文化との違いはここにあるのではないかと思う。

個人的に、世界大戦というのは「戦わなければ死ぬ」という感情のミームが、「戦わなくても生きられる」という状態になった後も根強く残存したために起こった物だと思うけれど、昨今の差別批判にもそのような雰囲気を感じることがある。


・だったら差別批判はダメなの?

私はこれまでこういったnoteを何度か下書いてきた。しかしそれを一度も公開していないのは、こういった疑問を読み手に抱かせてしまうのではないかといった恐怖からだ。
このnoteにそのような意思はない。だけどそれを明確に伝えきれるだけの技量と自信がなかったし、正直今もない。それでも何故書いているのかというと、ここらではっきり自分の立場を表明をしておいたほうが良いだろうと思ったからだ。

昨今の差別批判はミームのような物だと言ったが、それ自体には良いも悪いもない。文化だって伝統だってミームだ。人々の間を行き交う何某かの形がない流れはすべてミームと言っても過言ではない。

ミームという物はよく細部を削ぎ落として、一つの部分だけを増幅するような動きを見せる。差別批判で言ったら、差別が起こる原因が削ぎ落とされ、感情が増幅している

一番最初に私が書いた、「差別批判を見る時に感じるモヤモヤ」はその削ぎ落とされてしまった原因の方を見ようともせず、否定をする流れに対して感じる感情だ。

それ自体では悪い物とは言えないし、人間はそうやって文化を作っていくのだけれど、事差別批判に関してはその性質が諸刃の剣ともなり得ないので警戒している。
論理のない批判は、これまでの女性差別で成されてきたことと様相が変わらない。同じことを繰り返すだけになる可能性が十分にある。

最近、フェミニストの過剰な反応が見受けられることが多々あり、一部の過剰すぎる反応がフェミニスト嫌悪に繋がっている様を少なくない頻度で目撃している。
過敏になることは仕方がない。傷つけられてきたのだから当たり前だ。
しかし過敏な反応は、状況に対して毒になれこそすれ薬にはならない。だからこそ、現状を理性的に把握することが必要になる。


・差別はどのようにして生まれたのか

と、ここらで差別の起源について考えていきたいと思う。

「どうして差別が生まれるのか」という話をするには、まず「どうして不平等が生まれるのか」の話をしなくてはならない。その上で、差別と不平等について語る必要がある。
差別は不平等の一つであり、不平等である事象すべてが差別ではないからだ。

不平等が生まれる理由はいくつか言われているが、私が考えるのは以下のものだ。

・社会機能を増やし、社会が複雑化していく中で、専門性を持って人々が仕事をするようになる。
・食糧供給が足りない(若しくは不安定な)ため、より重要な仕事をしている人々に富が回るようになる。
・同上の理由で、力がある物が富を得るようになる。争いが激化し、富の一極集中が起きる。
・争いが頻繁に起こる場合、重要な仕事をしている人が死んでは困るので、命の価値が人によって変わる。

社会同士の間でも生存競争が起こるため、「一部の人間が自分たちのためだけに富を独占した」という社会も強さを持てなければ滅びる。従って、不平等は驕りのみによって保存されるのではなくて、そうすることで社会的メリットがあると考えるのが自然だ。
そしてこのケースの場合は、ヒエラルキー式の社会の方が、"社会的に効率が良かった"のではないかと思う。

同じような議論が男女の仕事分担(現在では差別とされる事が多い)でも為されていて、二つの役割で分けた方が社会を回す上で効率が良く、争いが頻繁に起こり、食糧も気候などによって不安定だった時代は、今より社会コスト(社会を回す上でのエネルギー)を少なく保つ必要があったので、男女の二元的役割分担をしていたとしてもあまり不思議ではない(ちなみに男女で仕事を分ける社会構造は他の霊長類でも確認されていて、先に話したヒエラルキーもそう)。

この場合、不平等は存在しているがその方が社会的に効率が良く、社会が上手く回っているうちは不平等が許容できるように人間は作られてきた、と言えるのかもしれない。


そうなると次は、それがどう差別へと変わるのか疑問になってくる。
社会の効率性のために許容されてきた不平等が許容されなくなる事態はどんなものなのだろう。

肝は、社会の効率性にあると思っている。

女性の権利獲得が叫ばれ始めた時代は、同じく同性愛を認める法律がフランス革命で設立されたり、先に少し触れたけれど「人口が増え、労働環境を始めとする環境が悉く劣悪になっていた」時代だ。

また農業革命が起こり、食糧の供給が安定化し始めた時代でもある(フランス革命の原因と思われる一つは不作だけど)。

食糧供給が安定化することで、先に書いた「不平等が生まれる理由」の一つ

・食糧供給が足りない(若しくは不安定な)ため、より重要な仕事をしている人々に富が回るようになる。

が消失したのだ。そしてこの理由は後続する理由にも関わりがあるので、食糧難が解決した瞬間に、不平等を受け入れる必要性も減ったのではないかと思う。
言い換えると、不平等でなくても社会は回るようになったのだ。

そこに加えて「人口が増え、環境が劣悪になった」ストレスが人々を襲えば、不平等を人々が叫び、"差別"が生まれる。


そして、個人的にもう一つ大きいと思っているのは「近代哲学・科学の発展」だ。

フランス革命に寄与したルソーがジョン・ロックを読んでいたのは周知の事実だと思うけれど(イギリス経験論の父です)、農業革命が起きる少し前、ジョン・ロックよりももっと前から、神と人間の知性についての議論が哲学界を賑わせていた。

人間の知性で神を捉える事が出来るのか否か。
神というのは大いなる"外側の世界"の具体化であったため、人間の知性を磨く事によって到達できると考えるデカルト派と、人間の知性で神を捉えられると考える事は愚かで罰当たりな事だと主張するパスカル派とで真っ向から対立し、その二百年ちょっと後にニーチェの有名な言葉「神は死んだ」が生まれる。

近代哲学の発展はその前のルネッサンス時代の遺産である自然科学の発展に関わりがあり、人々は自然のルールを知り得たからこそ神をも知る事もできるのではないかと考えた。

そういう考えが流布して困るのは教会側だ。外側の世界 "神"から人々を遠ざけていたのは教会だったのだから。

フランス革命に多大なる寄与をしたルソーは、中学の社会の教科書でもプロテスタントの代表として顔を出すけれど、その根本にあるのが「教会への不信」で、教会が社会であった時代では、それは社会への不信となる。

社会への不信がヨーロッパ中を蔓延し、アメリカにも渡った(アメリカに行った主な宗教はプロテスタント)。そしてそれが一定のメリットと強さを持ったからこそ現代でも残っているのだろう。

この動きの中で、人々は不平等を糾弾し民主主義を成立させたのだから、不平等=差別となるのは当然の事だ。

現代社会では不平等による利は少なく、平等を受け入れることによるメリットを取ることができる。
先ほど社会コストの話をしたが、不平等にも平等にもメリットとデメリットが存在し、全てはそのバランスで成り立っている。
平等であることのデメリットが少なくなった現代、平等であることを受け入れるほうがメリットが高く、また不平等であることにより生じるデメリットが看過できないものとなっている。
よって不平等・差別に対する社会的意味は消失している。

社会が不平等の解消に努めるのは自然の流れであり、だからこそ差別批判がミームとなって社会に受け入れられ始めているのだろう。


・差別批判がミームである理由

世の中に広く出回るものには、必ずミームのような側面がある。
一応ここでミームの説明をしておくと、ミームとは文化の遺伝子のようなもので、人の脳と脳の間を飛び交い、生物が進化していくように発展する、所謂「流れ」のようなものだ。

ミームはその特性上、人々の間で拡散されやすいものである事が多く、差別批判とは感情的に訴えるものが多いのでミームになりやすい。

社会が変わり始めた初期の差別批判と現代の差別批判はそう様相が変わらないが、批判の対象となる「差別」はまた少し違っているように思う。

先に述べたように、差別批判が始まる直前までそれは「差別」ではなく社会システムに組み込まれた不平等だったのだ。
それが糾弾される事により差別の名を獲得して、また批判に反するようにマイナスの感情を付随し始めた、と私は思っている(罪悪感による正当化の側面もあるだろうけど)。

差別にマイナスの感情が付随することで、差別批判がミームとなったのと同じように、差別もミーム化するようになった。
ここでの二つの差は、社会的に受け入れられているかそうではないかだ。

相反するミームが存在する場合、社会的に広く認められているミームが残るので、恐らく近い将来「差別」はなくなるのだろうが、今はその過渡期にある。
二つが拮抗をしている内は、ミームに付随する感情は増幅傾向を見せる。
両者とも付随している感情がマイナスの感情なため、過渡期の今はカオスだ。

社会的に認められている方は相手を罵倒しやすいが、どちらも互いを傷つけている点に相違はない。
傷つきは後年に引き摺るので、拮抗する期間が長くなる。長くなると人は更に傷つく。

感情に訴える差別批判は諸刃の剣になりかねないというのは正にこの理由からで、ここらで戦い方を変えないと両者無駄に被害者が増えるだけだ。


・差別的感情は同じ人間に起こる事

差別を批判する人の中には、「信じられない」「サイコパス」「理解ができない」といった突き放しをする人が多く見受けられる。
しかし、突き放す事で生まれる利はそこまでなく、むしろ両者の溝を拡張してしまう原因になり得る。人は強く非難されると言論の是非はどうであれ反感を覚えるものである。

そしてもう一つ大切なのは、差別をしている人も私たちと機能がほとんど変わらない人間であるという点だ。人間は環境次第でどうとでもなるし、環境が違えばもしかしたら私たちが差別をする立場に回っていたのかもしれない。

能のある詞章に

物狂ひも思う心のあらばこそ

という言葉があるのだけれど、私たちの"心"とかいう物は狂いもすれば冷静にもなれる。本来どちらにも動き得るものだ。

だからと言って差別の被害が不当である事には変わりがないし、現代社会の差別を擁護するつもりもないのだけど、上で説明したような「どうして人は差別をするのか」を理解しておく事は、差別を撲滅するためにも重要である。

ただ、差別というものは根本的に撲滅できるものでもない。少なくとも人間が人間であり続ける限りは無理だと思う。

人の脳はバイアスをかけて物事を判断するし、価値も決める。これは脳の仕組み上仕方のない事で、私たちはそれを抑制する事しかできない。
差別的な考えとは多かれ少なかれ誰でも持ってしまうもので、無意識レベルでの差別は撲滅しようがない。撲滅ができるのは社会内、意識下の差別だけだ。
だからこそ、対話が重要になってくる。


・そもそもどうして差別をするのか

不平等が生まれる理由と、不平等が差別となる経緯は上で話したので、今度は現代社会の差別について語っていきたい。

私は「女性差別」という言葉があまり好きではない。
差別の対象が女性であれ男性であれそれは「差別」であり、男性差別もあれば女性差別もある。どちらもこの社会では悪とされる行為であることに変わりはなく、わざわざ"女性"を強調する必要を感じないばかりか、"女性"を強調することで性別の分断を積極的に起こしているように思えるからだ。

確かに女性の差別は根深い。
それのみフォーカスして活動しても足りないくらいに根深いものでもあるのも事実だろう。だけど、「女性差別」という言葉で取り零されてしまうものも存在するのではないだろうか。


このnoteを書いている時、『男の子はなぜ「男らしく」育つのか』という本を紹介しているツイートを見つけた。

この本は男性が社会の中でどう"男らしさ"を獲得していくのかということを説明した本だが、この"男らしさ"というバイアスと現代の女性差別は切っても切り離せない関係にある。私はこの一連のツイートを見て、幼少期に読んだ少女マンガを思い出した。

"男らしさ"が女性や社会に対して好意的に働き、男性自身の生活も何ら問題なく動いている時はそこまで問題にならないだろう。
男性が働き、女性を守護するといった社会ノームはそれ自体では悪さをしない。

しかし、男性の人生が男性にとって満足のいくものではなかったら?
 "男らしさ"を社会と女性が否定し始めたら?
男性は男性優位の思想を持ったり、男性が受けている抑圧を主張して女性差別批判に真っ向から対立するようになる。自尊心を守るために。

女性の自尊心や社会的立場を守るために始まった差別批判が、回り回って自尊心を守るための差別に行き着く、二律背反のような様相を呈している。

現在、社会の様相が変わり、若い内から男女同権が叫ばれている社会を見ている世代は柔軟に変わってきているが、そうでない世代はそうもいかず、また柔軟な世代の中にも確かに"男らしさ""女らしさ"が植え付けられているので、一筋縄ではいかない。

昨今のフェミニスト批判の根底にあるのもこの複雑さなのだと思う。


"女性差別"を批判することで他の差別を言論に含んではいないか。
"女性の権利獲得"を叫ぶことで、昔のように男性の庇護に入って生きたい女性と女性を庇護したい男性カップルの批判までしていないか。
"女性の性的搾取"を叫ぶことで、エロティックな表現や活動をしたい女性まで批判していないか。

これはサディストとマゾヒストの関係を例に挙げるとわかりやすいと思うのだけれど、彼らの間で成されていることは行動だけを見ると差別にしか見えないが、そこには一定の合意と信頼があり、どちらも望んでその関係を続けている。

人間関係いうものは、究極には対象者間の合意と信頼のみが重要であり、そこに社会が入る余地はない。
合意が交わされていない状況での押し付けは社会的に糾弾されて然るべきだが、合意が成されているものに顔を突っ込むのはお門違いだ。
しかし感情増幅によるミームは容易にそういったものに反応してしまう。


このようなことは、女性差別に限らず全てのことに言える。

現代まで残る差別は、怨恨のようなものであり、そこに社会的意味はない。
自尊心の低下により発生した差別を叩かれ、更に自尊心を傷つけられて差別が悪化するような世界に生きる私たちは、戦い方を変えなくてはいけない。


・私たちはどう戦うのか

では、どう戦えば良いのだろう。
一つの解決策は、差別的犯罪者のケアをすることだと思う。

2018年7月、NHKのクローズアップ現代で「万引き・痴漢という病」という番組が放送された。
この番組では、万引きや痴漢などに潜む精神疾患について考え、「治療を施すことで再犯率を下げられるのではないか」といった旨を議論している。

病気だから、精神的に大変だったから、などといった理由で差別や犯罪が許容されるわけではない。実際に被害者はいるわけで、被害者に傷が残り続けることもある。

しかし、処罰を受けるだけでは事態は好転しない。


大学で異常心理学の授業を取るにあたって、薬物依存や裏社会ビジネス、拒食症、強迫神経症など様々な精神疾患を見てきた。
やめたいと思っていてもやめられず、薬物依存なんかは特に酷く、臓器を取り出す羽目になってもやめられない。

ここで必要なのは処罰や取り上げではなく、その行動に執着させる原因となっている根本的な精神の歪みを取ることなのだ。

先に紹介した能の中の一節、

物狂ひも思う心のあらばこそ

からもわかる通り、女性差別をなくすには男性差別もなくす必要があり、もっと広く、差別をなくすならば差別に執着させてしまう社会に蔓延する不安をどうにかするしかないのだ。


異常心理学や差別について学んでいると、差別をしている人に対しては怒りというより憐憫を覚えるようになる。
科学的に否定されている事を知らずに発言している時点で学がない事は明らかであり、社会的に差別批判が当たり前となっている中、それでも差別をする悦楽に縋らなくてはいけない人生というのは、恐らく相当に辛いものなのだろうと思うからだ。

現在で差別をしている人の大半は、承認欲求が満たされない環境にいるため、歪な思考でなんとか補おうとしているだけなことも多い。


被害者を助け出すこと。その上で再発防止に努めること。
再発防止のために加害者に耳を傾けること。
ゆるいバイアスを持っている人には、感情的に批判するのではなく相互理解を深めるように議論をすること。
これらが私たちに求められている"戦い方"なのではないかと思う。


・最後に

これを書いている途中に「娘にレイプをしていた父親が無罪になった件」の判決文が公開されて読んでいた。それを読んでからこのnoteを完成させるのは気分的に相当きついものがありましたあった

あの判決が不当なのは前提として、このnoteは「フェミニスト批判」とも取れる内容なのは重々承知しているので、彼女のようなレイプ被害がなくならない中、「私の文章はレイプ被害の不当ささえも否定しているように捉えられるのでは」という疑心が絶えず、何度も修正して読み直した。

最後にもう一度言っておきたいのは、女性差別の究極のようなレイプ被害を始め、女性差別やその他差別を擁護する意図はこのnoteにはない。

note内でも書いた通り、昨今の差別は超個人的な自尊心の欠落だったり、満たされない承認欲求を補うために使われることが多く、時折ターゲットとされる古来の慣習とは違った形で権利が抑制されている。

現代社会において権利の抑制は丸で意味を持たないものであり、差別をする人間は(それがどの性別であれ)愚かである、浅学であるとしか言いようがない。

同時に、感情的な批判は利を生み難いのも現実としてある。

本気で社会を変えていくにはどうするべきか。
このnoteをきっかけに考えてもらえると嬉しい。


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六月終わりから九月の始めにかけて日本に一時帰国します。
その際、全国行脚を目論んでいるので、各地でイベントとか講演とかあったら誘ってください!

多分、交通費とか出しでいただければ行きます。

主に書籍代にさせてもらいます。 サポートの際、コメントにおすすめの書籍名をいただければ、優先して読みます。レビューが欲しければ、その旨も。 質問こちら↓ https://peing.net/ja/nedamoto?event=0