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震災のこと、僕のこと

あの頃はまだ小学四年生だった。

「今日の野球なんかでっかい地震起きたけん中止やって!!」

その言葉にみんなで喜んだ覚えがある。

しかし家に帰りテレビをつけると真っ黒な波が街を飲み込んでいく様子が中継されていて、チャンネルはどこを回しても地震、津波。

震源から遠く離れた僕の地元徳島でも大津波警報が出され、これまでに経験したことのない恐怖に足がすくんだ。

それから11年。

僕は大学3回生、22歳になった。
社会人になる前に一度自分の目であの日何があったのかを確かめたいという衝動に駆られた。

現地の人の生の声を聞いてその想いを発信したい、そう思った。

2週間後、僕は東北に向かいリュック1つだけを背負い新幹線に乗り込んだ。

降り立ったのは、福島県浜通り、ここは地震と津波だけで無く原発事故の大きな被害を受けた地域で、今もなお放射線の影響で家に帰る事を許されない人々が数多くいる。

散歩中のおばさま集団に遭遇、軽くお話をしたついでに震災当時のことを聞こうと試みた。

でもできなかった。

あの日のことを思い出したくない人もいるだろうし、今目の前でにこやかに話している人も、震災で大切な人を亡くしているかもしれない。

そんなことを考えると聞けなかった。

増してや、他所から来た若者がそんなことを聞いたら失礼という言葉では表せないものがあるのではないかと思ってしまったのだ。

しかしあの日何があったのかを知らなければ、新聞やテレビだけでは知ることのできない人々の届かぬ声を私自身の耳で聞くまでは関西に帰れないと覚悟を決め、話しかけ続けた。

そんな最中に出会った1人の男性がいた。

福島第一原発の1.2.3号機がある大熊町の小さな食堂の店主だ。

「ごちそうさまでした。めちゃくちゃ美味しかったです。」

そういうと、謙遜しながらも嬉しそうな表情を作ってくれた。

その男性と話している中で僕がポロッと言った

「凄いのどかやし、海もあっていい街っすよね。」

という言葉に対し男性は答えた。

「そう言われたらいい街でしょ!っていうしかねえんだあ、自分たちがこの街はいい街だっていえながったら、その時は本当にこの街が終わる時だと思うよ。」

すごくすごく重たかった。

続けて男性は言った。

「にいちゃん、一番大切なこと何か分がっかい? 諦めないってことだよ。」

そう言いながら見つめた視線の先には何が見えていたのだろうか。

分からないが、僕には到底汲みきれないものだろう。
強く強く前に進もうとしている姿にただただ圧倒されたのだ。

僕ならどうだろうか。

大好きな地元、友人、家族を大好きな海が飲み込んでいく姿を見た後にここまで強い心を持って立っていられるか自答してみた。

多分無理だ。そう思った。

応援したくなった、心の底から街が復興し、人々の笑顔をが溢れる様子をもう一度見てほしいと強く思った。

しかし現実はそう甘くない。

テレビや新聞では新しい町役場が完成した様子や、新しい道の駅ができ人々が買い物する様子が多く報道されていたが、実際のところは街の85%が未だ帰宅困難地域に指定されていたりする。

大熊町のお隣、双葉町の役場で働く男性はこう語ってくれた。

「新聞やテレビでは復興だ、復興だつって言ってるけどこっちからしたら何が復興だって、何が解決したんだって、この街にある核のゴミを受け入れてくれる自治体がない限り人が住めないんだよ?最低でも30年。

じゃあ、あんたの地元にそれが来るって言ったら正直に答えていいから、あんたはどう思う?」

「、、、嫌ですね。」

「そうでしょ?みんな一緒なんだよ、じゃあ先の見えない中でどう頑張れっていうの、俺はもうこの街が元に戻る可能性は正直ゼロだと思うね。」

目にはうっすら涙が滲んでいただろうか、普段は職員として前向きな発言を繰り返している男性の真の部分が見えた気がした。

悲しみと怒りとその狭間からわずかに希望を夢見ている、そんな表情だった。

街の小学校へ見学にも行かせてもらった。

着いた時に、海からの潮風の匂いを感じる事ができた。僕が知っている地元の淡島や北の脇と全く同じ香り、僕の地元が大好きな海に崩されていくの様子が脳内で再生され少し怖かった。

学校はあの日の事詳細に感じさせた。

津波が到達した時刻を刻んだまま止まってしまった校内の時計、壁が波に壊され外から丸見えになってしまっている黒板、破壊された体育倉庫から見えた行事の時に使うものだろうか、学年が記されている看板。

あの日のままなのだ。

草が伸び切ってしまっている校庭や、原型がわからなくなってしまっている教室、校舎内からは子供達の元気な声が聞こえてきそうだった。

校舎内に掲載されていた娘さんを亡くした母親の手記。

「いってらっしゃいと見送るのが最後だなんて思うはずもなかった、もう一度おかえりと言って抱きしめてあげたい。」

僕らにとっては日常の何気ない事、増してや時々めんどくさくてサボったり、反抗して無視したりしていた事がどんなに大切な事だったのか、身に沁みて感じた。

日常に感謝する、周りの人にちゃんとありがとうを伝える、簡単なようで意外とできていない事が、いかに貴重で尊いものなのかを改めて考えさせられた。

やはり、自分の目で耳で全身で感じないとわからないことがそこにはたくさんあった。

これから時が経つに連れ風化が進んでいくであろう東日本大震災、今もまだ戦っている人は多くいる、苦しんでいる人も多くいる、家族の亡骸が帰ってきてない人さえいる。

誰かが忘れてもまだ、戦い続けている人がいること、深く負った傷がさらに深くなり続けている人がいるということ、どうか忘れないでほしい。

どうしてここまで長々と文章を書いているのか、そう感じる人もいるかもしれない。

でも僕にしか書けないものがあるんじゃないかと思った、若い世代である僕が書いて、伝えることに何か意味があるんじゃないかと思った。

今回この文章を読んで少しでも何かを感じて、家族や、友人と少しでも話す機会を作ってもらえれば僕がお話を聞かせてもらった全ての人たちの想いも少しは報われるんじゃないかと思います。

最後まで読んでくれてありがとうございました。



津波が到達した時刻のまま止まった学校の時計
剥き出しになった黒板
寄せられた応援メッセージ

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