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【ショート小説】あくびの稽古11号

舞台袖より差し込んだ照明が肩口より斜めに師匠の身体を真っ二つに切り裂いておりました。
京都友禅のしっとりとした手拭いを袖にしまい
「それじゃあ、行ってくるからね。」
そう言うと、師匠は黙ったまま、自らを切り裂いている光をじっと覗き込み動かなくなりました。出囃子の太鼓がぽんぽんと小気味良いリズムを刻んで、そいつに乗っかって滑るように笛の音がピーピーヒャラヒャラと鳴り出します。言葉を訂正します。笛の音は太鼓のリズムの上を流れるように鳴り響いています。師匠は足腰を奮い立たせ、ゆっくりと段差を乗り越えて高座の座布団へ足を下ろしました。彼こそは四代目仙花亭紫咲その人であります。60年の落語人生を今日ここで、この高座で正に終えんと、誰もいない舞台に一人佇んでおります。舞台袖から客席は暗闇で、まさしく紫咲只一人だけが、照明に照らされて世界から孤立しているように見えました。蠢く暗闇からは張り裂けそうな鈍い熱気が地を這うように近づこうとしている事が感じられ、紫咲は薄く開けた目を更に薄くし、僅かばかり口角を上げ客席全体を見回しました。
「毎度、馬鹿馬鹿しい小噺を。こう長いこと落語ってもんをやってますと、よく見るお客さんなんかもいらっしゃる訳で、あぁあすこの旦那さんはこないだも見たなぁですとか、あれぇあすこに座って大口開けて寝てんのは、近所のスーパーの人だねぇとかまぁ様々いらっしゃるんですが、こないだたまたまスーパーに行って、その大口さんがいらっしゃったもんで、あぁあんた寝る時は口を閉じた方が良いよって教えてあげたんですよ。そん時はあらぁ、恥ずかしいわなんて言ってそのままスーパーを出たんですが、そしたらどうだね、どうやらあたしがお客さんをじっくり見てるってんで皆んなマスクして見にくるようになっちゃいましてねぇ。こいつは、まずいことしたなぁなんて思ってましたら、右の方からグーグーってね、あの人いびきかくようになっちゃいましてねぇ。あんた寄席は寝るところじゃぁ無いんだよ、寝たけりゃ家かどっかで寝てくんな。って言ったんです。そしたら、あらぁやぁだ。家だと旦那のいびきが五月蝿くて眠れないのよ。ここなら静かでいいじゃない。ってね。」
静まり返った客席から、一つ二つふっとため息のような笑いが溢れて来ました。それでも、張り詰めた空気は、紫咲最後の落語を一秒たりとも見逃さんと、瞬き一つせずに彼を全方向から監視しております。
ハハッと一つ笑うと、高座に座る紫咲は着物の袖に手を入れ白に薄く紫がかった扇子を取り出しました。
「えー、あの子の六つのお祝いに錦の羽織りに飯くわせ、飛んで来たるは秋茜。末広通りを歩いてみればWi-Fi捕まえ空を飛ぶ。誰が見せたか新未来。こちとら浜辺のみなとみらいで生まれ育った伊達男。インスタ映えを撮ってるギャルの後ろで彷徨う人は、拾ったおべべの名無しさん。蝿がぶんぶんたかってる。周りの皆んなはマスクして目にも止まらぬタッピング。女の馬子が走ってる。緑のタヌキがぽんと鳴きゃ、アンドロイドも眠ってる。本当に、誰が見せたか新未来。六つの娘が晴れ着着て、かけて行くのはリモート神社。柄杓でモブをぶん殴り、賽銭箱を漁り出す。飽きた頃には境内に背を向ける走る、お前さんそちらは靖国通りだよ。オープンワールド駆け抜けて、たどり着いたは末広通り。辛気臭いの見本市に、打ち捨てられたは末廣亭。白髪の爺さんの独り言。60数年変わりゃしない、エビデンスもありゃあしない。物好き変わり者の暇潰しにいかがでしょう。紫咲綴り方教室。」
師匠は、深く頭を下げて一秒程止まったままにしていると、パチパチ、パチパチと暗闇の向こうから呼びかけるように弾ける音が聞こえて来ました。体感で数時間、現実で二、三秒の拍手の中、誰かが堰を切ったように
「日本一‼︎」
大きな声が高座を包み込みました。
すっと頭を上げた師匠は細めたままの目で客席をひとなめすると
「おいおい、勝手に終わらすんじゃぁ無いよ。まぁだマクラだよ。それともこれからのお先が真っ暗ってかい。まぁ昔はよかったなぁなんて思う事もあるもので、今と違って天気予報なんてもんもなかったんで、子供らは下駄なんかを蹴り上げて明日の天気を占ったもんです。」
客席を見据えて、噺を始めた師匠の目には、心なしかうっすらと光るものが見え、静まり返った高座にはしっかりといびきの声が響いていた。

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