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「指さし」するこころ ~まど・みちおさんの詩について

今回の投稿では、まど・みちおさんの詩について、私なりの所感を記したいと思います。

まど・みちお(1909~2014)
日本の詩人、童謡作詞家。『ぞうさん』『やぎさんゆうびん』『ふしぎなポケット』など、広く愛される童謡を数多く作詞。1968年、59歳の時に第一詩集『てんぷらぴりぴり』(大日本図書)を出版。


1、まどさんの詩との出会い
私が「まど・みちお」というユニークな名前を持つ詩人の存在を初めて意識したのは、小学4年生のときでした。書店の棚に偶然、『まど・みちお少年詩集 いい けしき』(フォア文庫、1993年)を見つけ、自分のお小遣いで買ったのです。小学生だった私はその詩集がいたく気に入り、以来ことあるごとにページを開いて、詩を眺めることになりました。

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当時の私はまど・みちおさんの詩のどのあたりに共感していたのでしょうか。そのときはうまく表現することはできませんでしたが、現在の私の言葉で説明を試みてみると、まどさんの作品に通底する「指さし」するこころに共感していたのだと思います。


2、「指さし」するこころ
ここでの「指さし」とは、その名の通り「対象をそれと指さす行為」のことです。対象をつかむのではなく、指さす。その「指さし」するこころに根ざしたまどさんの作品に当時の私は共感していたのだと受け止めています。

小学生であった当時も大好きだった『エノコログサ』(同書、104頁)。たとえば、この詩に私は「指さし」するこころを感じます。

 エノコログサ
 エノコロ コロコログサ

 みせてもらおうにも かそかすぎて
 めを つぶらなければ…

 エノコログサ
 エノコロ コロコログサ

 さわらせてもらおうにも かそかすぎて
 かぜの手に おねがいしなければ…

他に、『ことり』という作品も好きでした(同書、63頁)。

 そらの
 しずく?

 うたの
 つぼみ?

 目でなら
 さわっても いい?

 
この二つの詩に共通していることの一つは、対象との独特な距離感です。対象に好意や関心を持っているけれども、ある一定の距離以上は近づこうとはしない。言いかえますと、対象と直接触れ合うことはしない。『エノコログサ』では《かぜの手》にお願いしなければ、と記され、『ことり』では《目でなら/さわっても いい?》と語られ、対象に直接的に触れることはなされません。

直接触れるのではなく、そっと「指さす」――。それがこの二つの詩の共通点であり、そしてまどさんの詩作品全体に共通する姿勢であるように思います。


3、三木成夫さんの洞察 ~1歳児の世界
『胎児の世界』で著名な解剖学者の三木成夫(みき・しげお)さんが「指さし」について、非常に示唆深いことを語られていますので、ご紹介したいと思います。

下の息子さんが1歳だった頃のことを振り返って、三木さんはこのようなことをお話をされていました(『こころの形成』を主題に保育園にて講演をされた際の言葉です)。

そして、こんどは下の子どもの時です。団地の庭にツツジの花を指差すのです。とっさに、その‟指差し”の指を、少しずつ対象に近づけて、花びらに触れるようにしてやると、そこでは、まず、握るということはしない。なんと、その人差指の尖端で輪廓をなぞっているのです(『内臓のはたらきと子どものこころ』、築地書館、1982年、121頁)。

三木さんが当時1歳であった自分のお子さんの指さしの動作を観察していて注目したことは、対象の輪郭をなぞったりつまんだりはしても、「つかむ」ことはしなかった点でした。

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①《つつじの花のどれかを指さす》↑

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②《乳母車を近づけると人さし指の先端でその蕾にそっと触れ、しばらくその輪郭をなぞる風情》↑

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③《そのうちにその蕾を人さし指とおや指で‟つまむ”。けっして‟つかむ”ことはしなかった》↑ (同書、122頁より。イラストは同書の画像をもとに筆者が描いたもの)

三木さんは対象とのこの独特の距離感に注目し、これこそが1歳の幼児のこころの本質ではないか、と分析をしています。


4、まどさんの詩作品の核にあるもの ~「指さし」する感受性
ちなみに、「指さし」の前段階にあるのは、乳児の「口唇期」です。何でも口に入れ、舐めようとする時期ですね。この時期の乳児にはまだ対象との距離感はありません。この口唇期を経て、幼児は「指さし」の段階に至ります(指をたてる『指たて』はすでに生後3カ月ほどでなされるようになりますが、対象をはっきりと『指示する』ものとしての『指さし』は、生後1年ほどで現れてきます)。

そしてこの「指さし」期の後、子どもは対象を指さすだけにとどまらず、実際に手でつかみ、意欲的に「把握」するようになってゆきます(1歳半頃からは『なあに?』、2歳半頃からは『どうして?』など……)

 口唇期(0歳~1歳)
  ↓
 指さし(1歳~)
 対象との独特の「距離感」。
  ↓
 把握(1歳半~)
 ・「なあに」(1歳半~)
 ・「どうして」(2歳半~)

口唇期と「把握」期に挟まれた「指さし」期。三木さんはこの「指さし」期は、その後の「把握」期と何か本質的に違ったものがあるのではないか、と述べています。対象を何が何でも《自分のものにする》というのではなく、《一歩退いて》対峙しようとする姿が特徴です。

この「指示」という行為は、ですから、あとで話します「把握」という行為と、なにかこう本質的に違ったものがあるようですね……。なにがなんでも自分のものにする、というのではなく、あの「一歩退いて……」の心境に通う(同書、121、123頁)。

先ほど、まど・みちおさんの詩に「指さし」するこころを感じると書きました。私が述べる「指さし」するこころとは、三木成夫さんが指摘するこの1歳児の指さしの世界とまさに通ずるものです。まどさんの詩作品の核にあるもの、それは幼児(1歳児)の「指さし」する感受性なのではないか、と私は受け止めています。

(童謡は詩作品とはまた異なります。まどさんの童謡作品は基本的に2歳から9歳までの――親密・共感的な――子どもの世界を表現しています)。


5、対象を「つかまない」ゆえの豊かさ
改めて、『ことり』という作品を見てみましょう。

 そらの
 しずく?

 うたの
 つぼみ?

 目でなら
 さわっても いい?

この詩において、語り手は《ことり》を「把握」しようとしません。対象を把握・理解しようとする姿勢がまったくないわけではありませんが、それは希薄であるということが出来ます。三木成夫さんの表現を借りると、いわゆる《一歩退いて……》の心境です。『エノコログサ』や『ことり』などの詩作品で表現されている世界は、手でつかんでしまうと消えてしまうような、そんな繊細な世界です。

この繊細かつ静謐な世界が、まどさんの詩心の源の一つだったのではないかと私は考えています。そしてそれは、もしかしたら、私たちの内に秘められた詩心の源泉の一つでもあるのではないでしょうか……。

私たちたちは普段、ものごとを「把握」しようと必死です。手でつかみ、両腕で抱きかかえ、ときに歯まで(?)使う。人も、物も、風景も、文化も、思想信条も……なんでも把握し、自分のものにしようと懸命です。
もちろん、それは当然のことでもあります。把握なしには、私たちは日常を生きてゆくことができないのですから。
けれども毎日毎日、ものごとをギュッと握り締めすぎて、私たちの手はときに疲れるのでしょう。そのようなとき、郷愁のように私たちの胸に浮かんでくるのが、あの1歳児の世界であるのかもしれません。人さし指で、示すだけ。指先でそっと、触れるだけの……。

『エノコログサ』や『ことり』は、対象をつかまない、つかまえないゆえ、――目でなら さわっても いい?――おそらく、どこまでも、際限なく、豊かです。

……

以上、まど・みちおさんの詩について私なりの所感を少し記してみました。まどさんの詩集は数多く出版されていますが、作品を網羅的に読みたい場合、『新訂版 まど・みちお全詩集』(理論社、2001年)がおすすめです。また、96歳のまどさんにインタビューをした『いわずにおれない』(集英社be文庫、2005年)も、まどさんの考え方が分かりやすくまとめられており、愛読している一冊です。

文中で引用しました三木成夫さんの『内臓のはたらきと子どものこころ』は『内臓とこころ』にタイトルを変えて、河出文庫から出版されています(2013年発行)。講演自体は1982年になされたもので、現在の学説とは異なる部分もあるかもしれませんが、非常に興味深い内容が満載で、こちらもおすすめです。

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 (お読みいただき、ありがとうございました!)




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