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慣れたことだからと思っていたけれど、結局よくわからなくなった話

知人が遠くへ旅に出た。飛行機を何回も乗り換え、海を渡る遠くへ。わたしの行ったことのない遠く。
送られてきた写真やその人のインスタからは、旅を楽しんでいる様子がこれでもかと伝わってくるのだった。日本では見慣れない食べものに飲みもの、本やネットでしか見たことのない建物、異国の言葉、明らかに日本とは違う空の色。日本のコンビニチェーンも、その国では佇まいが違う。

その知人は、これまで経験してきた出来事に由来してか、あるいは生来の気質によってか、さまざまな刺激に敏感である(ように見える)。光や音や知らない場所や。計画が狂ってとっさに判断や決断をしなければならない事態に陥ったときや。ひとつたとえひとつは小さなことであっても、それらをいっぺんにこなさなければならないときや。

わたしは知人のその刺激の弱さに、(勝手に)親近感を抱いてきた。まったく同じではないけれど、似たような部分をわたしも持ち合わせている。光や音はかなり苦手だし、計画が狂ったときもあわてやすい(と思う)。ただ、効率的に物事を進めていきたいタイプではあるし、「マルチタスク」と呼ばれそうな作業や、複数のことを同時並行して行うことはそこまで苦手ではないかもしれない。知らない場所へ行くことは、そのあとぐったり疲れるにせよ好きだ。新しいものやことは好きなほうだから。

知らない場所へ行くことについて、わたしはそこまで苦手ではないと考える。さきほどの知人と比べても、もしかするとわたしのほうが知らない場所を楽しめるタイプかもしれないとすら思う。
だから、知人が遠く、海外へ行くことを聞いたとき、しかもそれを難なくこなし楽しんでいることを知ったとき、わたしは衝撃を受けたのだった。え、そうなのか、その刺激には耐えられるのか。耐えられるどころか、余裕を持って楽しめさえするのか。わたしの(勝手に)抱いていた親近感はなんだったのだろう。急に距離があいたみたいで、平たく言えばわたしはさみしくなった。

もちろん、旅の前にはこう言っていた。「遠くに旅行する前は不安が大きくなる」と。そんなの、多くの人がそうなのではないか? うまく乗り換えられるかなとか、外国であれば言葉の不安とか、お腹を壊してしまわないかなとか。飛行機が苦手な人は、事故などに対する不安や閉じ込められる不安が大きいかもしれない。
もし、わたしが知人が訪問している先への旅行をするとしたら、楽しみも大きいかもしれないが、それはそれは不安も大きいだろうと思う。英語だってろくに喋れないし、知っている人はいないし。ご飯を食べに店に入る、というだけで一苦労かもしれない。飛行機への特別な不安は持ち合わせていないが、十時間を超えるようなフライトは経験したことがない。
わたしだったらこんなに不安になるだろうに、知人はどうしてそれを難なくこなし、楽しめるのだろう。

いや、ちょっと待って。
知人は日本に住んでいるけれど、海外へは行き慣れているし、その先に知り合いもいる。少なくとも英語は堪能なので、言葉の不安はさほどないかもしれない。飛行機への特別な不安があるかどうかは知らないが、十時間を超えるフライトも何度も経験している。

そうだ、知人には「慣れ」という大きな武器があるのだ。なんだ、と思った。慣れていることだからできる。そういってしまえば終わりだ。「慣れるほど海外へ行っている」という事実に羨望やら何らかの距離を感じてしまうかもしれないが、それは論点がすり替わっているぞ。
仕事であれプライベートであれ、年に何度も海外を訪れる人は少なくないことは知っている。わたしの勤めている会社内にだってきっといる。けれど、少なくともわたしが懇意にしている友人など、身近な存在の中にそのような人はいない。海外へ行くのは特別なこと。だから、知人が「慣れていることだからできる」のだということに気づけず、勝手にひとりでもんもんとしてしまった。

いや、もちろん、そうではないかもしれない。わたしと知人は似ていると勝手に思い込んでいただけで、旅行は刺激ではないかもしれない。…他人のことをいくら考えたって、仕方のないことだ。ましてや、わからない他人と自分を比較してあれこれ考えてしまうことなんて、より一層に。
わたしの気持ちの落ち着く先が欲しくて、こうやって結論めいたものを出してみたけれど、考えれば考えるほど何かを歪めていないか…と思ったりする。
あれ? 書き始めたときより思考がこんがらがってる。いろいろ途中だけど、いったん終了。


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