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あじさいばかりを眺めた日々

外は雨。六月。六月は雨の季節だ。しずかに降る雨は耳とからだに心地よい。傘をさして歩く。天からまる見えの自分から傘は守ってくれる。ぱちぱち。とつとつ。雨音はどうしてこんなに深く響くのだろう。
「六月ですね。東京は紫陽花の季節です。」毎月届くメルマガの、今月の冒頭にこう書かれていた。なのにトップの写真はべつの植物で、なんでだろうと首をかしげた。

五年前の六月だったか、二週間と少しあじさいばかりを見て過ごした。わたしは世間から離れてその施設内にいて、だれと仲良くなるでもなく、ひとり寄る辺なく庭のあじさいを眺めた。特にじっと眺めたのは夜だった。夕食を終えると歯ブラシを片手に窓辺まで行き、梅雨独特の湿気を含んだ夜の露のなかに咲くあじさいを見ながら、黙々と歯を磨いた。
ふつうの家庭の庭に植わっているくらいの数のあじさいが、場違いな面持ちで並んでいた。どれも少しずつ色が違うのがあじさいの特徴だ。土のphが関係しているんだっけ。花びらに混じる桃、紫、水色、白、黄色、濃紺、茄子紺。こんなに色が見えるなんて奇妙だ。

あじさいを眺めているとき、たぶんわたしは何も考えずにいられた。何も考えない時間というのはわたしにとって珍しい。
滞在した二週間のあいだ、あじさいは次第に色を変えてゆき、夏が近づいていることを感じさせた。蒸し暑くなるとともにあじさいは墓に帰るみたいに徐々にくすんでいった。さよなら。あじさいに言ってわたしはその施設を離れた。


雨なので図書館に行く。雨でなくても行くのだけども。
図書館は(雨なのに)何だかひとが多かった。訪れたのは平日の昼過ぎで、ちょうどその日は幼児対象のおはなし会が始まるところだった。小さなこどもとその母親。絵本を抱えてお母さんの後ろをついて歩くこども。ベビーカーの中の泣きだしそうな表情にはらはらしながら会場へ急ぐ若い女性。

ざわざわした一角を抜けるといつもの図書館の静寂さがあった。
図書館に来るとどうしてこんなに落ち着くのだろう。どの町に引っ越してもわたしは必ず図書館を探す。新しくても古くても、小さくても大きくても、たいてい居心地が良いと感じる。どうしてだろう。初めて来ても帰って来たような郷愁におそわれることもある。長らく、そのえもいわれぬノスタルジーみたいなものを感じていたのだけど、あるとき、大人になってからだが、両親が出会った場所が図書館だったと聞いて納得した。なんだ、わたしの生まれた場所だからじゃないか。なんだ、そりゃあそうだ。ただいま、図書館。

ひとりで本を読んでいる。図書館にいるひとはおおかた、ひとりで本を読んでいるか、勉強しているか、探し物をしているか。新聞や地図を読んでいるお年寄り。ソファで本を片手に居眠りをしている中年男性。
みんなひとりでここにいる。
「自立しなきゃね」と言われた。自立? してるじゃん。ひとりで稼いで暮らして、親になんてとっくに頼ってない。ひとりでどこへでも行けるし、でも友だちもいる。彼とは別れたけど生きていける。
「彼は象徴でしょ」そのひとは言う。
わたしそんなにひとりだとだめに見えるのかなあ。まあ、いまはそう思われてもいいや。流れに沿っていこう。

図書館を出て、ふらっと寄ったユニクロでタビ靴下買った。帰ってご飯作ってお風呂入って、これ書いたら眠るんだ。


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