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BERG と 風街

先日、初めて、念願のBERGに行った。

見よ! このにぎやかな入口を!

(わたしがあれこれ説明するのもおこがましいくらいに有名なのだけれど)BERGは、新宿駅 新宿ルミネエストB1にある老舗の喫茶店だ。喫茶店… いや、知らべてみたら「カフェ・ガストロパブ」というカテゴリーらしい。モーニングもあるし、写真のように昼はランチもある。そしていつでもビールがのめる。そんな素敵なお店。

何度も店の前を通りかかったことはあるのだけど、この「老舗」感に気後れしていた。あるいは、行列がなされていることも多く、また次にしようと思ったこともある。
先日の初訪問時も、特に決め手のようなものはなく「あ、きょうはなんか行ける気がするぞ」みたいな感じで、吸い寄せられるように入ったのだった。

モーニングを食べてみたかったのだけど、間に合わずランチタイムに訪問。
初めての店内にどきどきしながら入ると、右手に立ちのみ席のハイテーブル、左手にふつうのテーブル席があった。注文や会計の仕組みがわからずやや挙動不審にしていると、わたしの直前に入店した女性客も同じように目を泳がせていて、わたしたちを察して店員さんが「席を取って先に会計してくさい」と正面奥のレジを案内してくれた。幸い店はすいていて、わたしは柱の真横のテーブルを取れた。

注文と会計を済ませ、オーダーした品を持って席に戻る。ホットドッグとコーヒー。シンプルだけどおいしそう。ソーセージが素朴なつやを放っている。
隣のテーブルには、初来店と思われる先ほど目を泳がせていた(失礼)女性。カレーのセットを手にしている。ついどんなものかじろじろ見てしまいそうになるのをぐっとこらえて、ホットドッグをぱくり。肉汁じゅわ、パンの厚み、適度にずしっ。ホットドッグを堪能していると、隣の女性はハンカチを膝に広げ、爪の先まで手を拭いて、カレーを食べる準備をしていた。にじみ出ている淑女感。あ、すみませんね、何も考えずソーセージにかぶりついちゃって…などと思いつつ、ふたくちめをぱくり。ホットドッグ、店員さんのおすすめは「何もかけない」らしいのだけど、わたしは粒マスタードが好きなのでそれだけつけてもらった。粒マスタードもケチャップもなしでおいしいソーセージが自慢みたい。けど、わたしは粒マスタード。

油断するとつい隣の淑女を観察してしまいそうになるので、反対の隣にある柱に目をやる。所狭しと貼られたメニューをすみから読んでいたら、一番はじに、「ベルク通信」というものが貼ってあった。

『ベルク通信 発行2023 11/1 VOL.355』

毎月発行されているらしい、店の広報紙のようなもの。B4版にモノクロ。興味を惹かれ、ホットドッグにかぶりつきながら真剣に読んだ。

『初ベルク。レジ上のメニュー書きにエーデルビールがあって驚いた。サッポロビールが飲食店向けに樽生でしか卸さない上等なビール。それが世界一の乗降客を誇る新宿駅、そのメイン改札に隣接する、お世辞にも広いとは言えない超激込みカフェで平然と出されている。しかも驚くべき安さだ。数分後、キチンとした状態で提供されたビールを戴き、お店の心意気を感じ、まっとうさを確信した。』

冒頭はハーモニカ奏者の方のエッセイ。きっとお店の常連さんなのだろう。
読み進めると、こんな言葉があった。(ベルク店長・井野朋也さんの著書の紹介があり、それに以下の文章が続く)

『この本の中には、「場」という言葉が出てくる。この「場」とは単なる場所のみならず、個々の人が本来いるべき「場所」や選び取った「環境」、関わるべくして関わっている「友人」等、各々の「才能」とも言える観念を統合した言葉のようだ。』

本の著者(店長)にとって、BERGは「場」なのだ。「場」になったのか、「場」に仕立てたのか、なるべくして「場」になったのか、詳細はわからない。しかし、店長のみならず、このエッセイの作者のハーモニカ奏者の方にとっても、他の多くの常連さんにとってもBERGはそれぞれの「場」なのだろう。
わたしは、この文章に出会った日が初めて店を訪問した日だった。でも、この店に対してそのような気持ちを抱くひとたちの気持ちはわかるような気がした。

わたしにとっての「場」とはどこなのだろう。ホットドッグを食べ、柱に貼ってあるそれを読みながらわたしは考えた。
真っ先に浮かんだのは図書館だった。十代の頃、学校帰りに足しげく通った図書館。大人になり、何度か引っ越しを重ねながらも利用した図書館。おすすめされて、まだ一度きりだけど行ってみた図書館。わたしは図書館で生まれた人間なので、「場」として図書館が思い浮かぶのはごく自然だった。

ほかにもあるかな、と思いを巡らせる。隣からはカレーの匂い。ご婦人は姿勢を正したまま、上品にカレーをすくって召し上がっていた。コーヒーをすすって店内を見回す。目の前には、ハイテーブルに体重をあずけながら、なんだか良い雰囲気でビールをのんでいる若い女性。おつまみは、なんとかのパテ、みたいなお肉。それぞれが束の間の自分ひとりの時間を楽しむために、おいしいものを食べ、のみ、エネルギーチャージしている。そして、それ以上の何か意味を持った「場」であるかもしれないのだった。

あ、風街みたい。コーヒーをのんでいたら突然、その店が頭をよぎった。

天神三丁目にある喫茶店「風街」

福岡市中央区天神にある、昔ながらの純喫茶「風街」。昭和から継がれる名店のひとつ。最初訪れたときはその膨大なメニューの量に圧倒されたっけ。手書きで作られたメニュー表なのだけど、文字とイラストが絶妙でなんともかわいらしいのだ。わたしが一番ツボだったのは、ハンバーガーを横から描いたイラスト。伝わるかな…伝わらないよな…ああ、ここにあのメニューを載せたい。

と、「場」というワードから、この、地元のひとに長く愛されている「風街」という喫茶店を思い出したのだった。
わたしにとって、数えきれないくらい通った、というような店ではないのだけど、行けば安心できる店のひとつだったことに違いはない。日の暮れる直前、友達と入ってコーヒーをのんだ。冬はスパイスチャイをのんだ。ひとりで入ったら、カウンター席でごはんも食べた。隅のテーブル席に座ることもあった。メニューはいろいろあったけれど、たいてい頼むものは決まっていた。あんなに選択肢があったのに。

そういえば、記憶違いかもしれないが、レジには「お金が足りなかったら何か置いていってください」というような内容のメモが貼ってあった気がする。私物を置いて出て、お金をおろしてまた戻ってきて払ってね、という意味だ。支払方法が現金だけだからかもしれないけれど、手持ちの足りないお客さんが多かったのだろうか。あのメモを見るたび、「わたしだったら何を置いていくかなあ」と考えたものだ。傘? ハンカチ? 文庫本? いまならマフラー? 一度だけ、店主とそのやり取りをしているお客さんを見たことがある。たしか、「え? そんな大事なものを?」という印象だった。携帯電話とか、かばんまるごととか、そんなレベル。まさに信用の取引。

あの店にもいろんなひとがいて、その観察さえ楽しかったなあ。夕焼けみたいな郷愁を感じながら、わたしはホットドッグを食べ、コーヒーをのむ。隣のご婦人は満足そうな顔で口元を拭い、きれいにたたんであったショールをまとい、立ち上がってコートを着ていた。ふうと息をつきコーヒーをのみ切って、わたしも出る準備をする。ここはきっと、たくさんのひとのための「場」。長居したい気持ちを抑えて店を出る。

『最後に、会長、店長、副店長、社員の皆様、そして過去もアルバイトの皆様、この奇跡の「場」を全力でキープして頂き本当にありがとうございます。』
BERG通信の最後は、こう締めくくられていた。
また行こう。今度はカレーをいただこう。

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