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世の中に名前を出すこと、出さないでいること

数年来のとある知り合いが、ネットニュースに載っていた。本名と顔写真も一緒に。
彼女(桃子さんと呼ぶことにしよう)とは性被害のコミュニティのようなところで知り合った。年齢はわたしより上で、知り合ったころから被害にまつわる支援活動もしていた。支援の場では当事者であることは公表せず、当事者として支援に関わるときは場を別にして活動していた。わたしと彼女との関係性は数年のうちに様々な形を持った。当事者同士であり、相談者と支援者であり、また、相談者と「相談者と同じ(部類の)経験をしたことのある」支援者なのだった。

ネットニュースを目にしたこともあり、ひさしぶりに話をしたくなり電話した。
「ひさしぶりだね、どうしてたかなと思ってたよ。元気だった?」
「元気ですよ。この前ネットニュースに桃子さんが出てるのを見て、びっくりしました。すごいですね」
「あー、見てくれたの? ありがとう。べつに全然すごくないよ。読んで大丈夫だった?」
「大丈夫なときに読んだので。いや、やっぱりすごいですね、ああやって公表できるなんて」
記事の内容は、彼女の体験を赤裸々に綴ったものだった。自身の体験を明かし、社会に問題を投げかける。「大丈夫だった?」という気遣いは、読んでフラッシュバック等の反応は起きなかったかという意味だ。そのくらい、記事には具体的な描写を並べていた。


当事者でありながら支援や啓発活動をしているひとの多くは、加害者や加害を生み出す社会に何らかの怒りを持ち、その怒りを原動力にうまく変換して活動しているひとのように見える。
簡単に書いてしまえば、
①被害体験
②恐怖、凍り付き
③事実の認識、相手への怒り
④昇華(他者への支援、社会への還元等)
という道筋を順序通り通ってこられたひとだと思う。(ちなみに、この道を通ってきたひと(主として支援者)は、怒りの湧かないわたしに向かってよく言った。「まだ、あなたは怒りが感じられないのね」と)

桃子さんは、自分は被害を受けたと自身の体験を認めることができ(あるいは、受け入れることができ)、支援に携わり、自身を社会に公表しているにも関わらず、加害者に対して怒りを表すことのないひとだった。自分にも落ち度があったような気がする、というような、罪悪感や自責感がないまぜになったほの暗い感情を抱えながら生きているひとに見えた。そこはまったくわたしの共感できる部分でもあった。そして、怒りの感情だけが昇華のエネルギーになるわけではないことを彼女から知った。わたしが桃子さんと数年に渡り関係を続けてこられたのは、彼女のそのような部分に早くから気づけていたからかもしれない。
怒りを持たなくていい。無理に表さなくていい。その時はいつか自然にやってくるかもしれないし、一生来ないかもしれないけれど、どっちだっていい。みんなが同じ道を通るわけじゃないし、誰かが通って回復した道がみんなに正しく適切であるわけじゃない。わたしはそんなことを桃子さんから学んだのだった。


「名前出すってすごいですね」
わたしが言うと、桃子さんは笑いながら、
「あのね、ああいうところが、わたしのまだまだだなって思うところなのよ」
と言った。
意味を分かりかねているわたしを察して、桃子さんは続けた。
「名前さらすとか、顔写真載せるとか、ああいう危険行為をしちゃうところがまだまだだなって思うの。まだまだ身を守りきることができないんだなって。できないというか、あえてやらないというかね。だめよ、まねしちゃあ」
自嘲気味に話してくれたその気持ちの中に、桃子さんの、今後行く先への迷いのようなものを感じた。衝動に任せて名前を出したわけではないだろうし、むしろ悩み抜いての決断だったかもしれない。けれども、自分の下した決断が、名前の公表云々よりまったくそれ以前の問題を自分が抱えていることに気づかされるきっかけとなったのだった。
桃子さんのように、その時点でそこに自分の問題を見出せるひとは、でも実は少ないのではないかと思う。自分の問題を抱えたまま、気づかずどんどん先に進んでしまう。最初は気づけないほどの歪みが時間を経て大きくなってから、別問題として形を変えて自分の前に現れる。そうしてやっと、最初に向き合うべき自分の問題に取り組み始める。そんなケースが多いのではないかと思うのだ。

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ある支援の活動をしているひとで、訳があり名前を出せないでいるひとがいる。出さないと決めているようだ。
しかし彼女が本当にやりたい支援活動を実現するためには、どこかの団体に所属して無名で活動するわけにはいかないらしい。自らが発起人となり活動を進めていくことが重要なようだった。けれども、信頼できる周りを頼り、自分の名前は極力潜めての活動となる。

わたしは最初、「理由があって名前が出せないのなら、そのような活動をするのは無理があるのでは?」と思っていた。支援活動も様々な形態があり、個人を伏せて活動できる場はきっといくらでもある。それよりも彼女の信念やポリシーが勝った結果の決断と理解はできるものの、いまだ解決していない問題を抱えて、どちらもうまく守りながら進めることは難しいのではないか、活動が進むにつれて限界が来るのではと感じていた。

彼女にとって名前を伏せておくことが今後の活動に対して良いか悪いかはともかく(それは彼女の決めることだ)、「名前を出さない」という決断は「自分を守る行為」であることに違いない。いかなる状況でも、彼女は自分を守ることを最優先とすると決めている。それはある部分に関して解決している証なのだろうとも思う。ただ、そこが揺るぎないがゆえに生じてしまう問題もあるにしても。

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「何者かになりたくて名前を出したのかもね」
最後に桃子さんは言った。
あんまり有名人になりすぎないでくださいね、とわたしが言うと、大丈夫、まだ全然近いから、とからから笑って言うのだった。



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