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出会ったり、去ったり、またつながったり

少し前、よく目にしていたフォロワーさんがnoteを退会されていた。
退会されていたことに気づいたのは、わたしの記事のコメント欄を見返したときだった。コメントの数は、いただいたコメントにこちらが返信して完結する、というパターンが多く、たいてい偶数になる。が、たまたま見返した記事のコメント数が奇数になっており、気になって見返してみたのだった。そして、その方のアカウントがなくなっていることに気づいた。

どうしたんだろう。あんなに、毎日のように日常を書いてくれていたのに。

noteは毎日開く時期もあれば、数日開かないこともある。開いてもフォロー・フォロワーさんのすべての記事を追えるわけではない。わたしはおそらく、その方の最後の記事を読めないでいた。退会される前に何か残していたかもしれないが、わたしはその記事を、内容を、読むことができなかった。(事の真相は、あとになって知る)
(そして、余談だけれど、トップ画面の「フォロー」の数は正確でないことを知る)

退会のタイミングもわからなかったわたしは、ただ、どうしたんだろう、と思った。会社に身バレでもして何か不都合でもあったのかな、など考えたりしていた。まったくの妄想だ。

その人とは、もちろん、noteの世界以外でのつながりはない。どこに住んでいるのか、何を生業にしているのか、note記事からの情報以外、知る由もない。
でも、ぽっかり消えたその人からの言葉を思い出したりしていた。

数日経ち、仕事帰りにスマホを開くと、noteの通知が来ていた。新しいフォロワーさんが追加されたお知らせだった。ふうん、と思いアカウントを開く。あ。ああ、そうだったのか。

その日の夜、寝る前にnoteを開いたら、めずらしい人が投稿していた。一時期はさまざまな人を巻き込んでnoteを楽しんでいた人だった。が、あるときを境に、アカウントはそのままにしてぱたりとnoteから姿を消していた。実生活が多忙になったり、note以外に打ち込む趣味が見つかったりしたのかもしれない、と思っていた。しょせん、noteは誰にとっても生活の一部、趣味の一部、もっといえば、ビジネスにしている一部の人たちを除けば余暇をつぶすもののひとつに過ぎない。代わりはいくらでもある。

久しぶりに投稿された記事を開く。変わりなく穏やかな文章が連ねられている。相変わらずコメント欄もにぎわっていた。そこは帰省を待ちわびた実家さながら。ぽち、とハートをタップする。
しばらくすると、スマホに通知が入った。その人はわたしのことを覚えてくれていた。束の間のやり取り。ありがとう。

noteって不思議だな。わたしにとっては、現実と地続きの、少し離れたどこか、という感じ。多様な使い方があるけれど、わたしはあまり現実から乖離していない内容を連ねているからかもしれない。もともとお手紙として始めたものだったし。だから、そう感じているのかもしれない。

先日、新しいことをやってみた。
それは、朗読。noteを始めスタエフなどでも人気者のUさんの企画に、恐れ多くも乗っかってみたのだ。勢いだな。人生で勢いは大事。わたし、石橋叩く時間が人より長いから。

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ある人がいうには、わたしの声は「坂道系のだれか」なんだそうだ。わたしは坂道の人たちよりおねーさんなので、褒めているのか貶しているのか疑問を抱かずにはいられないが、まあ、大学生の役を演じるには違和感を抑えられたかもしれない。

noteって不思議だな。ときどき、自分では作らない道が知らぬ間に用意されていることがある。それに気づくが気づかないかはわたし、自分次第なのだ、と思う。

noteの中で、わたしは多くのクリエイターのひとりに過ぎないのだけれど、だからこそ過ごしやすいのだろうな。出会えた人たち、ありがとう。なんということのない言葉や声や、隠せない人柄からエネルギーをもらっている。
いなくなってしまった人もいるけれど、元気にしているのかな。ちゃんと幸せに暮らしていたらいいな。

いつも、みんな、ありがとう。本当に。たぶん、また暗いこと書いちゃうけど、大目に見てね。

いろいろな人がいて、出会っては去って。どんな洋服をまとっているかの代わりに、どんな思いを持っているかを見せながら生きる街。それって、まあ、こわいけれど、訓練になる。わたしのような大変なこわがりにとっては。

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