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緑の目

雨の降る中、眼科の受診に行った。毎日目薬を差す必要があるため、定期的に通院しなければならない。眼科はいまの住まいからさほど遠くない。けれど、めんどくさい、正直。でも、後回しにして急かされるような気持ちで受診するのはやめよう。よし、行く。気に入りのサンダルを履いて気分を上げる。

わたしの通っている眼科、ちょっとばかり風変わりだ。
まず、BGMが粋。病院にありがちなクラシックやオルゴール音楽ではなく、本人歌唱の洋楽が流れている。院長の趣味なのか、彼の世代に流行ったと思われるABBAやエルトン・ジョンなどがじゃんじゃん響く。インストゥルメンタルでなく、耳に触らない程度などでなく、じゃんじゃんその歌が。え、知ってる曲が流れたら歌うよね。この前は待合のソファに座るなりビートルズの"Ticket to Ride"が始まった。わたし、この曲大好き。カーペンターズが歌うと、カレンの澄みきった声が切なくて、長音は昭和の演歌歌手みたいに抒情的。彼との別れ際、去って行く彼はもうこころの距離も遠くて、まさしく「涙の」という感じ。女性のダイアモンドみたいな涙の粒がきらりと見える。でもビートルズが歌うと、「ねえ、怒らせてごめん、ほんとにごめん。ちょっと考え直してくれない? さよならなんて言わないでよ」なんていう男性の声が聞こえてきそう(意図せずセリフが村上春樹風。うん、でもまさしくそんな感じ)。そんな言葉は聞こえない聞きたくない、と、かつかつハイヒールの音を立てて足早に歩く女性。ねえ、待ってってば、と男性は彼女の肩に手をやろうとする。見向きもせずその手を振り払う彼女…そんな光景。(余計な説明かもしれないが…"Ticket to Ride"はビートルズの9枚目のシングルとして発売された後、カーペンターズがカバーした曲。ビートルズが歌うこの曲の歌詞は男性目線、チケットを持つ彼女を追いかける男性の歌で、カーペンターズはその逆、男性を追いかける女性目線で歌った。)

そういうわけなので、待ち時間に読もうと本を開いても、BGMが素敵すぎて全然、ぜんっぜん読書にならないんだな。そもそも、わたしは音楽を聴きながら本が読める人間ではない。「よっぽど興味のない音楽+ものすごく面白い本」という組み合わせなら別だけれど、そのような組み合わせのシチュエーションはそうそうない。駅で電車を待っているときも、利用し慣れた場所なら問題ないけれど、初めての場所やあまり利用しないところだと発着の音楽に気を取られる。だから、この眼科は本当に読書に向かない…だって歌っちゃうよね。あ、こころの中で静かにね。がんばって発語は控える。けど、ハミングくらいはしちゃってるかもしれない。許して。

風変わりポイントのふたつめは、スタッフの方々の制服。なんと、みんなミッキーマウスのTシャツを召しているのだ。受付事務の方から看護師さんから先生まで。先生はふたりいらして、院長先生でないほうの先生は、でも先日は別の服を召していた。ふつうの白衣だったような…ふつう過ぎたのか細部まで記憶にない。
ミッキーマウス、誰の案なのだろう。ディズニーランドの年パスは毎年買う、みたいな熱心なファンがいて、提案したのかしら。それとも、院長先生に「4歳で亡くなったぼくの子どもが、そりゃあもうミッキーが好きでね…」とかいう特別な思い入れがあるのかしら。そういえば冬の制服はどうだったっけ? 病院やクリニックは冬でも暖かいし、スタッフの方は動くから冬でも半袖、というところも多い。あれ、記憶にないな。わたしの中でミッキーマウスが強すぎるからかな。みんな、あと3か月待って。確認したらnoteに記すわ。

だいたいいつも、眼圧の精密検査を受ける。風がしゅぱっと目に当たるあの眼圧測定に加えて、専用の目薬を点眼してから目に直接機械を触れさせて測定するのだ。
機械測定の前の点眼薬(おそらく麻酔の目薬だと思われる)は、診察室で看護師さんが差してくれる。「上を向いてくださいね」ティッシュを目の周りに当て、ぽとり、ぽとり。機械測定が終わったら、看護師さんがその目薬を水で洗い流してくれる。
洗い流した水を拭ったティッシュは、どぎつい蛍光グリーンで染まっている。診察室は(眼科という特性上)薄暗いので気づきにくいけれど、そう、検査前の点眼薬はぞっとするような色なのだ。

診察が終わると、鏡を見るためたいていお手洗いへ行く。なんとなく目の周りが気持ち悪くて鏡をのぞくと、目のふちにマスカラのかすが散らばっていると同時に、白目部分がうっすら黄緑色になっている。ぞっとする色の目薬、診察室でささっと洗い流したくらいでは残ってしまうのだ。ああ、これはぞっとしない。
中途半端に落ちたマスカラを整え、目尻に残る目薬を拭うと、少しマシになった。ちょっとだけ異様っぽくて、斬新なメイクみたいで悪くない、と思い直してみる。この目に真っ白なマスカラを塗って、ブルー系のカラコンなんかを入れたら、それっぽいアパレルブランドの店員になれそう。それっぽいってどこや? 知らんけど。

待合に戻る。BGMは相変わらず本人歌唱の洋楽が流れている。どこかで聴いたことのあるような、でも知らない曲に変わっている。
ソファに座り、持参していた本を開いた。厚ぼったい単行本、村上春樹著「街とその不確かな壁」を開く。大変面白かった、と知り合いが勧めてくれ、貸してくれたのだった。すでに読まれた方もたくさんいらっしゃるのではないかと思う。
主人公の男性が、その壁に囲まれた街の中で「夢読み」として生きている場面がある。その世界での描写で、緑色がキーとなっている。緑色の眼鏡、緑色のワンピース、濃い緑色の薬草茶。緑色…その色の持つ、庭の植物を思わせる素朴さや、アフリカの草原を思わせる偉大さ、アマガエルの背中のようなみずみずしさ(触るとぺっとりしている)、採れたての葱みたいな純朴さ。夜の街で主張する蛍光グリーンのネオン。田舎の側溝に溜まった苔の深い緑、どろどろ。景色を巡らせて、さっき自分の目を拭ったティッシュペーパーに意識を戻す。
会計に呼ばれる。本をかばんにしまって立ち上がる。

そういえば、理由がありやむを得ずコンタクトレンズを二枚重ねて使用している、というひとの話を聞いた。やっちゃいけない裏技的な使用ではなくて、医師の指導のもとで。そのひとは角膜の問題を抱えているみたいだった。へー。ひとは見えないところに秘密を持っているものだね。だから面白いのかな。薬局で貰う目薬がレトロなパッケージに見えてかわいい。オレンジ色のしましまだった。


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