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それでも歩いていくしかない

政界の要人が衝撃的な事件で死んだ。この事件をきっかけに、個人的な経験に関していろいろな思いや感情があふれてきた。きっとそういう人は多いと思う。
抱えておくのが少ししんどくなってきたので文字にしてみようと思う。(人の死という点で共通しているだけで、とりたてて事件と関係のある内容ではありません。)
 
わたしが高校生のころ、わたしの男の親が死んだ(父、という文字を見たくないのでまどろっこしい表現になってしまう)。彼の死は突然だった。秋が深まってきたある朝、いつもの時間に起きてこないので、母が起こそうと部屋に行ったら死んでいた。
あまりに突然すぎて、わたしも母も取り乱したりしなかった。少なくともその時は。救急車を呼ぶのも、職場や親戚に連絡するのも、ふたりとも不思議と落ち着いてできたのだった。
 
しかしその後、母はその反動なのか、ずいぶん弱弱しくなり、あろうことか彼のそれまでの生き様を美化し始めた。
わたしにとって、その変わりようは目を洗ったような驚きだった。彼のこれまでのわたしたちに対する様々な問題行動は、母の記憶から文字通り消し去られた。ショックによる解離を起こしたのかもしれない。
問題のある人だった。問題、という一言でドライに片づけてしまえるようになるには時間がかかった。わたしはそのころ、大げさに聞こえるかもしれないけれど、彼以外の家族とも複雑な関係性の中を生きていたのだ。10代というのは誰でも親やきょうだいとの関係で悩みを持つ時期だけれど、わたしの持つそれは、少なくとも当時のわたしにとって抱えるに重すぎる荷物だった。そして荷物の重さは相対的なものではなくて、わたしにとって絶対的なものである、ということが自分を肯定しているような気がしていた。
 
振り返ってみるとわかること、というのがある。ある程度客観的に、冷静に、自分の生きてきた道を振り返ったとき、わたしは彼にずいぶんと振り回され、問題のある人だったことに気付いた。彼はよく暴力をふるった。主にそれは母に対して。わかりやすい身体的暴力もあれば、そうでないものもあった。
問題なのは、暴力そのものではなく(ないわけではないが)、暴力に対する彼の持つ感覚だった。してはいけないことと認識をしていながら暴力をふるうのと、悪いことだと自覚なく手をあげるのと、どちらが問題なのだろう。わたしは前者のほうがいくらか救いがあるように思うけれど、でも彼は後者だった。渦中にいるとき、わたしたちはそれに気づかなかった。気づかなかったわたしたちができたことは、どうにかして彼の罪悪感が暴力を妨げてくれないか、無念に祈ることだったりした。
祈りが通じたらどんなにいいだろう。祈れば願いがかなうとか、相手や世界を変えられるとか、それが高じたところはまるで宗教だ。
現実世界でかなわない願いを持ち続けたとき、早くに世界をあきらめるのか、それでも見えない何かを拠り所にして願い続けるのか、その選択の決め手はなんなのだろう。
 
今となっては確かめようのないことではあるけれど、彼はきっとわたしたちへの暴力に罪悪感を持たなかった。持たなかったのではなく、持てなかったのだろう。彼が持ちたかったかどうかはともかく。少なくとも、持ってほしかったと思っているのは彼ではなくわたしたちだった。
 
彼が死んで何年か経ち、内面のいろいろな整理をし始めたとき、それまで感じたことのない思いが湧きあがってきた。それは彼に対する悲しさのようなものであり、怒りのようなものであり、愛しさのようなものでもあった。それまで、死という現実をどうにか物理的現象として胸に収めていたところを、社会の中や家庭の中での関わり、彼の特性、わたしや母のこころの動きを含めた社会的現象として捉えようとした始まりだったのだと思う。
当然ながら、彼の死はわたしにとって一言でおさめられる出来事ではなかった。でも生き延びるためにはおさめないと進まない。だからおさめてきた。けれども出来事には物理的な現実と社会的な現実の二面がある。どんな出来事にも。そのふたつを、清濁呑みあわせることを回避して、内面の整理をするなんて無理なのだ。
気づいたときに、でも胸が軽くなった。
 
混在しているということ。それらは移り変わるということ。空の色が変わったり、雲がかたちを変えるみたいに。そしてそれを認めること。受け入れること。受け入れられない自分もいるということ。また、それを認めるということ。
どうしたって生きるしかないのだ。歩いて、考え事ばかりして、小石につまづくときもあるのだ。

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